言葉にできない想い~映画『少女は卒業しない』~

2023年2月公開に先駆けて第35回(2022年)東京国際映画祭アジアの未来部門出品作として上映された映画『少女は卒業しない』(以下、本作)を観ながら、沸き上がってくる感情が何なのか考えていたが途中でやめた。どんなに考えたところで、あの心許無いモヤモヤした気持ちを言葉にすることなどできないのだ。

その感情に対するヒントは「質疑応答」時間における中川駿監督の発言にあった。
中川監督は、卒業は「不条理」、だと語った。

言われてみれば、確かにその通りだ。
学校制度において生徒は、規定の年次をクリアすると自動的に「卒業」させられてしまう。
もちろん、生徒はそれを理解していて、「卒業」するために勉学に勤しみ、それなりに校則を守った生活をしている。
しかし、そんな自身の努力や生活とは無関係に、自分のあずかり知らないところで「卒業していい」「卒業しなさい」と決められ(体感的には、「資格・能力」とは関係なく「ただ単に時期が来たから」という、まさに不条理な理由で)、自分の意志とは無関係に「卒業式」の日を迎え、「明日から学校に来なくていい。次の人生を歩め」と一方的に突き放されてしまう。
それはやっぱり「心許無い」ことであり、「モヤモヤ」することだ。

本作は、『廃校が決まり、校舎の取り壊しを目前に控えたとある地方高校、“最後の卒業式”までの2日間』を主に4人の女子高生の視点で描いた物語だ(「廃校」という不条理感がプラスされているのが、物語の妙でもある)。

「河合優実初主演作」と謳われる本作は、彼女が演じる山城まなみが抱えた喪失感を軸にしてはいるが、彼女だけによって物語が展開するわけではない。
彼女を含め4人に共通するのは「伝えたい、或いは伝えなければならない"想い"を抱えている」という点で、それが物語の推進力となる(山城まなみが主人公なのは、中川監督が言及したように「別の不条理」を抱えていることはもちろんだが、いなくなった人に"想い"を伝えるという点において、逆説的に、彼女だけが言葉を使わず"本当の想い"を伝えられたからではないか)。

本作が優れているのは、卒業が「不条理」であるが故に"想い"が言葉にできない、という点を丁寧に描いていることだ。
だから、自ずと言葉セリフではなく、仕草や表情演技で"想い"を伝えることになる。

地元に残る恋人と東京に進学する自身のこれからの関係に思い悩む後藤由貴(小野莉奈)、引っ込み思案でクラスに友人がおらず図書室が居場所だった作田詩織(中井友望)の図書担当男性教諭への想い……
それぞれ、主役クラスの俳優による繊細な演技は、たまらなく切ない。

その中にあって、演技経験の少ない神田杏子役の小宮山莉渚が素晴らしい。
特に、中学時代から片想いだった男子(不可思議な高校デビュー(?)のため学校中から小馬鹿にされている)が、卒業ライブで歌う姿を舞台袖で見ているシーン。
「どうだ、見直したか……」
自分だけの特別で大切な物だと思っていたことを皆に知られて(知らせて)しまった淋しさと、彼のことを小馬鹿にしていた学生たちを(彼自身が)見返したことによる誇らしさが入り混じった表情に、涙腺が決壊しそうになった。

途中で考えることをやめた理由は、もう一つある。

「卒業」は不条理であるが故、結局、「個人的な経験・記憶」にしかならない。
50歳を超えたオヤジとしては、自身の過去の経験や物語・ニュース報道などからの知識によって、本作の「卒業」に関しても共感したり、客観的な意見を持ったりできる。
実際、途中までそうやって本作を「理解」しようとしていたのだが、しかし、同じ「卒業式」に出席していても、そこで見た物・感じたことは、誰とも共有できないし、一般化することができない、それに気づいた。

その"想い"は、本作に表れている。
本作は、7人の少女によるそれぞれの「卒業」物語の短編が収められている(らしい)、朝井リョウ氏の同名小説(集英社文庫、2015年)が原作である。
質疑応答で中川監督は、短編として書かれた各人物の物語について、「オムニバスという手法もあるが、同一時間上に置くことを選択した。ただし、物語として収斂しゅうれんさせない」といった発言をした(ネタバレ回避のため歪曲した表現にしています)。

つまり本作も、同じ「卒業式前日から当日」に身を置いている各々が、しかし、その時間の中で見た物、体験したこと、感じたことを共有できないし、共感もできない作りになっている。
だから私も、体験した者の一人として自分と照らし合わせて本作を「理解」しようとすることをやめた。

本作は言葉にできない。
言葉にした途端、「卒業式」という特別な時間に流れる不条理が、陳腐で説明可能な「何かわかり易い物」に変質したあげく、それで区切りが付けられ、心の中に納まってしまう。

本作の少女たちも"想い"を言葉にできない。
できないからこそ、「不条理」が不条理のままで残り、「心許無いモヤモヤした気持ち」を抱き続ける。
言葉で区切りを付けられないからこそ、少女たちは卒業しないのだ。

メモ

映画『少女は卒業しない』
2022年10月29日。@TOHOシネマズ シャンテ
第35回東京国際映画祭アジアの未来部門作品上映+中川監督への質疑応答

私は(またしても)原作未読のため、原作をベースにして本作を観ていないのだが、序盤辺りから設定の妙に感心していた。
先述したように「卒業と同時に校舎がなくなる」設定に加え、物語が「卒業式の前日」から始まるのには、とても驚いた。
「リハーサルはしたが本番は明日」という中途半端な状況における、とてつもないモラトリアム状態が「不条理感」となり、4人を含めた全ての卒業(予定)生が各々「手持ち無沙汰の空虚感を持て余す」という描写には恐れ入った。

設定を地方高校にしたことで「地元組」と「上京組」が分かれてしまうのも然り。
そういう意味で、「互いに自身の人生を選択したことによって、必然的に彼と共に人生を歩けなくなった」後藤由貴も「不条理感」の只中にいる(卒業式の朝、校門でその事実を突きつけられる彼女の姿はとても切なかった。以前の拙稿にも書いたが、やはり『小野莉奈は、ちょっと戸惑った表情が抜群に魅力的な女優』である)。

ちなみに「廃校」といえば、映画『シノノメ色の週末』(穐山茉由監督、2021年。主演・桜井玲香)は、移転のため廃校した校舎が取り壊しになると聞いた卒業生たちが校舎に忍び込む、という物語だったが、移転先の在校生である杉野あすかを演じていたのが中井友望で、今回は廃校する高校の卒業生になっていた。



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