「映画」も「時代劇」もなくならない。「青春」だって!~映画『サマーフィルムにのって』~

この主人公は信じられる。
映画『サマーフィルムにのって』(松本壮史監督、2021年。以下、本作)の物語が動き出すシーンで、そう確信した。

「アイドル風女子」と「イケメン風男子」が互いに「好きだ!」と言い合うだけの映画の主人公、、ではなく、それを見た後のハダシ(伊藤万理華)のファーストカットで、だ。あの、不服と焦燥が入り交じった複雑な表情……


とにかく物語が良く出来ている。
21世紀前半の現実感としては荒唐無稽なフィクションなのだが、それを全く感じさせず、むしろリアリティを持って受け止めることができる。
それは、これまで我々が映画を通して培ってきた「教養」の賜物だ。

だから、現代に生きる若者でも、ビート板(河合優実)が読んでいる「時をかける少女」やハインラインといった「名詞」を聞いただけで、凜太郎の存在をすんなり受け入れることができるし、「R2D2」の頭部を2つくっつけたような「装置」から映し出されるホログラムの人物と会話をしても、全く不思議に思わない。
白目を剥いて盲人のような仕種をしても、腰を丸め、刀らしきモノを逆手に持っていれば、誰も「不謹慎」だと騒がない。
「デコチャリ」が登場すれば、何となく頭の片隅に「一番星」という言葉が浮かんでしまう…

それらは、2020年代に高校生をやっている若者が生まれる、ずーーーっと以前の映画に関したもので、若者でこれらの映画をちゃんと観たことがある人は多くはないだろう。
だが、これらの要素を取り入れた若者向けの青春映画が2020年代に公開され、実際、若者に大人気だ(私が観た上映回も定員50%とはいえ、満席だった。公開3週を超えているにも拘わらずだ)。

これはつまり、その「教養」が、我々が生まれるずーーーっと前から、映画を愛する人たちによって脈々と受け継がれてきたことを意味する。
そして、「教養」は、本作を含め様々公開される映画(もちろん、「好きだぁ!」と言い合うだけの映画も、だ)を観た人々によって日々アップデートされ、後世へ受け継がれて行くのだ。

だから、「映画はなくならない」
「わたしがなくさない」と言い切ったハダシを、私は信じている。


2015年に公開された『時代劇は死なず ちゃんばら美学考』(中島貞夫構成・監督。以下、「ちゃんばら考」)という、『「京都の時代劇の歴史」及び「京都で作られた作品」を中心としたちゃんばら考』(冒頭のテロップより)のドキュメンタリー映画によると、『ちゃんばら映画は敗戦後にアメリカ軍から封建思想の温床だと決めつけられ、全面廃止されかけた』という。
しかし、占領が解けると、テレビの普及も相まって爆発的人気となる。その頃のちゃんばら映画は、「なんでもあり」だったという。
だが、高度成長による欧米型近代化とともに「ちゃんばら映画」で描かれる文化が理解できなくなり、やがて「時代劇」と呼ばれるようになる頃には、『「水戸黄門」的な(勧善懲悪)モノばかりになっちゃった』。
そして、21世紀になる頃には飽きられ、「絶滅危惧」にまで落ちぶれた。

だが、ちゃんばら(時代劇)は、ただ「悪者を斬って成敗する」だけではない。
「愛のために斬る」ことだってある。
たとえば、「ちゃんばら考」で紹介される、1926年公開の映画『長恨』(伊藤大輔監督)では、主役の大河内傳次郎は『斬られて目が見えなくなった弟と、本当は自分が好きな女を逃がす』ために、大立ち回りを繰り広げる(サイレント映画なのに、愛する女と弟のために斬り合う覚悟と気迫がビシバシ伝わってきて、めちゃくちゃ泣ける)。
それへのオマージュか、「ちゃんばら考」の後に中島監督自ら撮った映画『多十郎殉愛記』(2019年)も同様、主役の多十郎(高良健吾)は互いに密かに惹かれ合うおとよ(多部未華子)に傷を負った弟(木村了)を逃がす手伝いを依頼し、その時間稼ぎのために大勢の敵と斬り合う(本編90分のうち、後半30分が長廻しを多用した大立ち回りという、ド迫力のちゃんばら映画だ)。

もちろん、本作同様「愛する者同士が斬り合う」こともある。
たとえば、朝日新聞夕刊に掲載された本作の映画評で、映画評論家の大久保清朗氏が指摘している。

ハダシは最初、恋愛青春ものを毛嫌いする。だが彼女の心酔する「座頭市」シリーズの第1作「座頭市物語」もまた一種の恋愛映画である。市と平手造酒とは、お互いへの秘めたる思いを胸に刃を交えるからだ。

ちなみに、何故愛する者どうしが斬り合うのか。
映画と全く関係ないが、劇団☆新感線の代表作の一つである『阿修羅城の瞳』(1987年初演。2000年,2003年七代目市川染五郎(現・十代目松本幸四郎)を主演に迎えて再演。2005年映画化)に、一つの答えがある(と個人的に思っている)。

何故、阿修羅王に転生した闇のつばき(2000年 富田靖子、2003年 天海祐希)と殺し合わなければならないのか、と問われた病葉出門(市川染五郎)は、こう答える。

これはもう、誰かのためとか、そういうもんじゃねぇんだよ。
秘め事なんだよ、オレとヤツとの

…うーん、いいセリフだ!

閑話休題。
「勧善懲悪」ではなく、「愛の為に斬り合う」時代劇(ちゃんばら)を取り戻した本作を観た若者たちが、きっと時代劇を繋いでくれる。

だから、「時代劇はなくならない」。
「わたしがなくさない」と言い切ったハダシを、私は信じている。


本作を観ていて何より切なかったのは、「2021年に公開されたこと」だった。

いや、違う。
正直、もう50歳を過ぎ「青春時代が夢なんて、後から思うモノ」ということすら「後からほのぼの思う」ようになった私はまだ、映画を観ている間は楽観的だったのだ。
「コロナ禍も、(どれだけ時間が掛かるかはわからないが)絶対に終息する。だから、こんな夏もやがて戻ってくるだろう」、と。
しかし観終わった後に、パンフレットに掲載された「ハダシ組男子チーム」の座談会を読んで、ダディーボーイ役の板橋駿谷氏の発した一言が胸に刺さった。

この夏だけ、この瞬間だけという限定された感じがいいですね

きっと板橋氏は、本作の魅力の一つとして何気なく語ったのだと思うのだが、コロナが終息するまでの何年間が『この夏だけ』になってしまう高校生たちが全国にたくさんいるのだ。
「やがて戻ってくるだろう」なんて思った能天気過ぎる自分を深く反省した。

だが、50歳を過ぎたオヤジとして、これだけは言いたい。
若者の"この夏"は絶対になくならない」「なくしちゃいけない

なくしちゃいけない。
なくしちゃったら…、なくなった将来に、本作が「"コロナ前の青春"の記録映像」になってしまう。それだけは絶対に阻止しなければならない。

何故か?
将来、記録映像として本作を見た若者が誤解してしまうからだ。

こんなキラキラした「青春」なんか、現実にはないのだ(これを「共通体験」と感じてしまえるのが、この物語の良く出来たところである)。
男子も女子も一緒になって、一つの物を作り上げるために汗をかき、励まし合う……
好きだ好きだと臆面なく叫び合い、それを見て周りがときめく……
こんな、わかりやすい「青春」なんてない。
何故なら、「青春」は一人一人のものだからだ。
みんなといても、たとえ独りだったとしても、「青春」はその人個人の中にしかない。
誰かが「青春」とレッテルを貼るモノじゃない。
青春の渦中にある者たちは今を精一杯生きているだけで、「青春を生きよう」なんて思っていないのだから。

それからもう一つ、本作を「記録映像」にしてはいけない、大事な理由がある。

それは、本作が、主人公は女子だが「男子が作った映画」だからだ。
秘密基地、葛藤のない爽やかで明るい男女関係、友情によってお互いを高め合う単純さ、臆面もなく「綺麗な愛」を語る無神経さ……

そうじゃない「青春」を、きっと「女子」である、後に巨匠映画監督になるハダシが、ちゃんと撮ってくれるだろう。
だからきっと、「青春」は後世も「青春」であり続ける。
「わたしがなくさない」と言い切ったハダシを、私は信じている。


もちろん、ハダシを演じた伊藤万理華自身もハダシを信じている。
本作に関して朝日新聞(夕刊)に載った彼女のインタビュー記事は、こう締め括られている。

ハダシで走りきり、ハダシの映画愛も受け継いだ。
「ハダシが『武士の青春』を作って映画の未来をつなげたように、私たちの『サマーフィルムにのって』を見た人がその先の映画の未来を作るかも知れない。そんな風に考えると、映画って尊いなと思います」

(2021年8月28日。@渋谷・ホワイトシネクイント)


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