2020年代の若者のストレス?~稲田豊史著『映画を早送りで観る人たち』~
2020年代に入って「ファスト映画」「倍速視聴」といった言葉を聞くようになり、今や説明が不要なほど(言葉上は)一般的なものとなっているとも思える。
そのような所謂「時短視聴」で映画やドラマを視聴することについて、個人的には批判的な立場だが、本稿の主旨はそこにない。
そもそも、映画・芝居鑑賞が趣味の私自身、家でそれらの映像を見る際には、倍速視聴こそしないものの、一部を早送りしたりしているのだから偉そうに(一般的・伝統的)正論をぶつことなどできない(だから私は、お金と時間を使って劇場に足を運び、「強制的に全編通して観さされる」状態にわざわざ身を置くのだ)。
稲田豊史著『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ-コンテンツ消費の現在形』(光文社新書、2022年。以下、本書)によると、「時短視聴」に対する是非は、「視聴」という行為を「作品の鑑賞」とするか、「コンテンツの消費」とするかの認識の違いによって分かれ、『(現代の若者たちは)映像作品と呼ばない。「コンテンツ」と呼ぶ』とした上、「コンテンツ」が「時短視聴」に繋がりやすいと指摘する。
本稿は上述したように「時短視聴」への批判ではなく、何だか現代の若者のストレスの一因を見たような気がしたので、それを書こうと思う。
そもそも「時短視聴」の理由として、主に10~20代の若者から「友達の話題についていきたいから」という声が多く聞かれるという。
その理由を本書はこう説明する。
SNSが引き起こす影響として、本書は『同世代と自分とを容易に比較できてしま』えるようになった結果、『"まだ何も成し遂げていない自分"を、否応なしに焦らせてしまう』(いずれもP171)と指摘する。
私がここで感じたのは、「時短視聴」などを駆使しながら日々大量の「コンテンツ」を消費してもなお、かろうじて「人並」に留まることしかできないどころか『同世代から遅れてしま』う切迫した危機すら回避できない、ということだ。
どんなに努力しても、かろうじて「人並」にしがみつくことしかできないという自身に対する無力感・劣等感・焦燥感は、もしかしたら、「時短視聴」の行為そのものより大きなストレスとなるかもしれない。
「だったらSNSなんてやらなきゃいいのに」というのは、2020年代において非現実的な「クソバイス」でしかない。
何故なら、先に引用したとおり『若者のあいだで、仲間との話題に乗れることが昔とは比べ物にならないほど重要になっているから』で、その根底にある心理は『「コミュ障」に対する若者の異常なほどの恐れ』と同様なのではないか。
『「私はここにいてよい大切な人間だ」という自尊心』を保つためには、『話題に乗』って仲間たちのコミュニティーの中に居続けるしかない。
とすれば、現代の若者が抱えるストレスは、「同調圧力」という外的要因ではなく、「(極度の)同調性向」という内的要因かもしれない(「時短視聴」への批判に対し、若者が「何が悪いのか?」と反論、というか、そもそも批判される意味がわかっていないというようなことが本書で指摘されているが、その根源に無意識の「同調性向」があるのかも……)、と思ってみる。
もう一つ、物語が想定外に展開することにより「気持ちを乱されてしまう」不安。
こういった心理が「理解できない」「間違っている」と言いたいわけではない。
「気持ちを乱されたくない」というのは理解できるが、しかし、それに対応可能なのは「コンテンツ」が予め作られたものであり、ストーリーを含めた情報がネットなどに既に公開されているからだ。
しかし、物語(「コンテンツ」)を離れて「リアルな自分」に戻れば、現実世界は全く予測不能で、『あらすじを最後まで読』むどころか『(予告さえ)先に知』ることすら当然できず、まして現代は「思っていた通りになる」なんて希望は持つだけ無駄な世の中だ。
「リアルな自分」は、自身の意志に反して、「思っていたとおりにならず」「気持ちを乱されるかもしれない」不安が常に付きまとっている。
「好ましい物語」など期待できない「リアルな世界」自体、現代の若者にとって相当なストレスではないだろうか、と思ってみる。
本稿は単なる「読書感想文」であり、「時短視聴」という行為を非難するものではないし、かと言って、ここで述べた現代の若者の「ストレス」に対して同情するものでもない。
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