「コミュ障」とは何ですか?

私がネットやSNSに疎いオヤジだからなのか「コミュ障」が何なのか、よくわからない。

「コミュ障」という言葉は、「コミュニケーション障害」の略語として2010年ごろからインターネット上に広まったとされる(樫村 2017、79頁)。ネット用語であるため正式に定義されることはないが、医学的な意味で言語障害があるようなケースとは異なり、学校の教室などで「仲間と楽しく盛り上がる」ことが難しい存在を、揶揄的に表現するもののようだ。

貴戸理恵著『「コミュ障」の社会学』(青土社、2018年)

なるほど…。
私の印象では、世の中の人は結構当たり前の言葉として使っているような気がしていたが、どうやら「ネット用語」であり、『正式に定義されることはない』らしい。
とすると、世の中の人は「コミュ障」という言葉をどう捉えているのだろう?

それはともかく、そんなあやふやな「コミュ障」という言葉を少しでも理解すべく、貴戸の本を読み進めてみる。
(なお、以下引用の太字部はすべて引用者による)


「コミュニケーション能力」と「コミュ障」

貴戸は、ベストセラーのビジネス本や「モテ本」をはじめ、心理や介護・看護、教育関連雑誌など、最近の書籍で言及されるコミュニケーションについての「能力」を調査し、以下のように分類している。

(1) 外国語運用、プレゼンテーション、ディベートなどで用いられる技術的能力。
(2) 背景の異なる他者を理解し自己を発信する異文化コミュニケーションの能力。
(3) 就職活動やAO入試などの面接などで「自分の物語」を語り受け答えする能力。
(4) 合コンや営業などで一般的な相手に不快感を与えず距離を縮めていく 能力。
(5) 友人や恋人など特定の親密な他者と関係性を築く能力。
(6) ケアや教育の現場などで相手のニーズを汲み取る能力。

[貴戸]

ここまでは何となくわかるが、「コミュ障」とはちょっと違う気がする。
そこで貴戸はさらに、上に挙げた一般的な「コミュニケーション能力」と違ったニュアンスを持つ「コミュ力」について、以下を付け加えている。

(7) 学校の休み時間などに可視化される、周囲の空気を読み・ノリにあわせて盛り上がる能力 (=「コミュ力」)

[貴戸]

つまり、上記(7)の「コミュ力」と呼ばれるものを「持たない」とされている人が「コミュ障」とされているということなのだろう。

「コミュ力」について、貴戸は以下のように指摘している。

第一に、この力は学校の成績や職業能力に直結するわけではなく、恋人や親友を持つうえでの必要条件ともいえない。あえて一般的な基準で価値判断をすると、「長期的に見れば大して重要ではない」だろう。第二に、個々の努力や経験の積み重ねによって身につけうるともかぎらない。「ある」とされるか「ない」とされるかが、「生まれ持った性格」のように本人の裁量の及ばないところで決まってしまうところがある。そして第三に、この力が重視される場面では、やりとりする内容や対話すべき相手があらかじめ確固としたものとして存在しているというよりも、複数の人が集まる日常的な場において、「何となく」つくられる「空気」になじめるかどうかが焦点となっている。その基本的な形式は、二者間の相互作用というより、教室や職場といった集団への没入である。

[貴戸]

だとすると、「コミュ力」とは「能力」ではないのではないか。
少なくとも「力」と呼べるものは、本人の「資質」や「努力」が何らかの影響を及ぼすものではないのだろうか。
また、「教室や職場といった集団」の中の「空気になじめるかどうか」の問題であれば、中年オヤジの私からすれば「学校や職場なんか一日中/一生いるわけじゃないから、外に出ればその集団からは解放されるし、嫌なら離れれば良いのではないか」と安易に考えてしまう。

確かに集団に馴染めるに越したことはない。
だが、だからといって「コミュ障」がこんなに問題視されるのは、なぜなのか。

長い目で見れば大して重要ではないかもしれない、努力では身につけにくい、「集団に馴染む」ための力を持たないことの、いったい何が問題なのだろうか? なぜ私たちは、「コミュ障」と名指されることを恐れ、「コミュ障」を何とかしたいと思うのだろう。

[貴戸]


「スクールカースト」と「コミュ力」

それを考えるために、斎藤環著『承認をめぐる病』(ちくま文庫、2016年)を開いてみる。

何がスクールカーストの序列を決定づけているのか。「コミュ力」、すなわち「コミュニケーション・スキル」である。ただし、ここでいう「コミュ力」とは、場の「空気が読め」て「笑いが取れ」るような才覚のことを意味している
カースト最上位のグループは、自分は一切いじられることなく、ほかの生徒をいじって笑いが取れるエリートの集団だ。中間層グループは、適切に空気を読んで、いじる側、笑う側に荷担しようとするギャラリーである。そして最下層を占めるのは、スキルが低いために他の生徒に絡むことが不得手で、いじられ、笑われ、あるいはときにいじめの対象となるような生徒たちだ。

[斎藤] 

スクールカーストの成立要件からも理解されるとおり、いまや子どもたちの対人評価軸は、勉強でもスポーツでもなく、「コミュ力」に一元化されつつある。かつての教室には ー少なくとも筆者が中学生であった約三十数年前の教室にはー たとえ寡黙であっても絵が上手い、文才があるなどの理由で、周囲から「一目置かれる」生徒が存在した。残念ながら、いまやそうした生徒には、「カースト下位」にしか居場所はない

[斎藤] 

つまり現在では、「コミュ力がない = コミュ障」とみなされると、自動的にスクールカーストの下位に位置付けられてしまう、ことが問題とも言える。


「キャラ」と「コミュ障」

さらに斎藤によると、『こうした序列化も「キャラ」と同様、自然発生的に決定づけられる』と言う。
では、その「キャラ」とは何なのか?

「キャラ」とは「キャラクター」の省略形である。(略)
キャラクターといっても、必ずしも「性格」を意味しない。「キャラ」は本質とは無関係な「役割」であり、ある人間関係やグループ内において、その個人の立ち位置を示す座標を意味する。それゆえ所属集団や人間関係が変わると、キャラまで変わってしまうことも珍しくない。
(略)
 ありがちなキャラの類型としては、「いじられキャラ」「毒舌キャラ」おたくキャラ」「天然キャラ」などが知られているが、先述したように、それは必ずしも、本人の性格と一致するわけではない。かといって、まったくかけ離れたキャラを誰かから強要される、というわけでもない。クラス内のコミュニケーションを通じて、半ば自然発生的にキャラの棲み分け、ないし振り分け ー「キャラがかぶる」ことがないようにー がなされ、クラス内での位置づけが決定されるのである。

[斎藤]

この斎藤の説明は、そのまま上で貴戸が整理した3点の説明にもなっているように思われる。


なぜ「コミュ障」を恐れるのか?

『自然発生的に』『振り分け』られた「キャラ」は、本人の意思が関与していないだけに、自力による「否定」「キャラ変」が難しいことは容易に想像できる。

いったん決定されたキャラは、個人の意思で変更することは難しい。はなはだしい場合には、キャラに相応しくない行動をすることでいじめの標的にされる場合すらあるという。さらに厳しいのは、クラス内においてひとたび「いじられキャラ」などと認定されれば、少なくとも次のクラス替えまでは「いじめ」や「いじり」の対象を免れない、ということだ。いじめの根絶が難しいのは、子どもたちが、たとえ「いじられキャラ」という役割設定であっても、どこにも居場所がなくなるよりはまし、と考えがちだからだ。

[斎藤]

なぜ『考えがち』なのかといえば、自身が生きるためには、貴戸が指摘している『二者間の相互作用というより、教室や職場といった集団への没入』が強要されているように『考えがち』だからだろう。

つまり、彼ら/彼女らにとっては、自身が所属する(させられている)集団の中において「どこにも居場所がなくなる」ことが、自身の存在の否定に直結するという強迫観念になっているとも言える。

なぜ、そのような強迫観念が生まれるのか。

「コミュ障」の奇妙さは、その制度的不利益の曖昧さと滑稽な外観に比して、主観的には、不釣り合いなくらい深刻な生きづらさを当人にもたらしうるということだ。その場の人間関係にうまくなじめなかったり、運悪くはじき出されたりするとき、「コミュ障」という名指しは、「私はここにいてよい大切な人間だ」という自尊心を深いところで傷つけるものになりうる。

[貴戸]

『コミュ障と名指されることを恐れ』る理由の一つが、「自尊心の否定」に求められるとすると、「コミュ障」というある意味軽薄な語感とは裏腹に、結構深刻な問題なのかもしれない…

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