私がネットやSNSに疎いオヤジだからなのか「コミュ障」が何なのか、よくわからない。
なるほど…。
私の印象では、世の中の人は結構当たり前の言葉として使っているような気がしていたが、どうやら「ネット用語」であり、『正式に定義されることはない』らしい。
とすると、世の中の人は「コミュ障」という言葉をどう捉えているのだろう?
それはともかく、そんなあやふやな「コミュ障」という言葉を少しでも理解すべく、貴戸の本を読み進めてみる。
(なお、以下引用の太字部はすべて引用者による)
「コミュニケーション能力」と「コミュ障」
貴戸は、ベストセラーのビジネス本や「モテ本」をはじめ、心理や介護・看護、教育関連雑誌など、最近の書籍で言及されるコミュニケーションについての「能力」を調査し、以下のように分類している。
ここまでは何となくわかるが、「コミュ障」とはちょっと違う気がする。
そこで貴戸はさらに、上に挙げた一般的な「コミュニケーション能力」と違ったニュアンスを持つ「コミュ力」について、以下を付け加えている。
つまり、上記(7)の「コミュ力」と呼ばれるものを「持たない」とされている人が「コミュ障」とされているということなのだろう。
「コミュ力」について、貴戸は以下のように指摘している。
だとすると、「コミュ力」とは「能力」ではないのではないか。
少なくとも「力」と呼べるものは、本人の「資質」や「努力」が何らかの影響を及ぼすものではないのだろうか。
また、「教室や職場といった集団」の中の「空気になじめるかどうか」の問題であれば、中年オヤジの私からすれば「学校や職場なんか一日中/一生いるわけじゃないから、外に出ればその集団からは解放されるし、嫌なら離れれば良いのではないか」と安易に考えてしまう。
確かに集団に馴染めるに越したことはない。
だが、だからといって「コミュ障」がこんなに問題視されるのは、なぜなのか。
「スクールカースト」と「コミュ力」
それを考えるために、斎藤環著『承認をめぐる病』(ちくま文庫、2016年)を開いてみる。
つまり現在では、「コミュ力がない = コミュ障」とみなされると、自動的にスクールカーストの下位に位置付けられてしまう、ことが問題とも言える。
「キャラ」と「コミュ障」
さらに斎藤によると、『こうした序列化も「キャラ」と同様、自然発生的に決定づけられる』と言う。
では、その「キャラ」とは何なのか?
この斎藤の説明は、そのまま上で貴戸が整理した3点の説明にもなっているように思われる。
なぜ「コミュ障」を恐れるのか?
『自然発生的に』『振り分け』られた「キャラ」は、本人の意思が関与していないだけに、自力による「否定」「キャラ変」が難しいことは容易に想像できる。
なぜ『考えがち』なのかといえば、自身が生きるためには、貴戸が指摘している『二者間の相互作用というより、教室や職場といった集団への没入』が強要されているように『考えがち』だからだろう。
つまり、彼ら/彼女らにとっては、自身が所属する(させられている)集団の中において「どこにも居場所がなくなる」ことが、自身の存在の否定に直結するという強迫観念になっているとも言える。
なぜ、そのような強迫観念が生まれるのか。
『コミュ障と名指されることを恐れ』る理由の一つが、「自尊心の否定」に求められるとすると、「コミュ障」というある意味軽薄な語感とは裏腹に、結構深刻な問題なのかもしれない…