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ずっと欲しかったものの正体、ドトール、ガスト,セブンのコーヒー

人生をかけて一番ほしいものを探すのが、絶対的なナニカから人間に与えられた気の遠くなるような宿題であるならば。私たちは探し続けなくてはならない。ああでもないこうでもないと、お肉も焼けない程度に熱せられた鉄板の上をのたうちまわりながら、右へ左へと手を伸ばし続ける。
探している物自体は人によりけりだとしても、発見に至るまでのプロセスは抽象化すれば似通っているかもしれない
とりあえず掴んで、違うなぁと呟き手放して。慎重に、間違えないように、今度こそはと手を伸ばした先には何もなくって。次は大胆に声をかけて見るんだけど、どーーんとただ開けた世界からはなんの返答もなく、そうして次第に呆れ返った人間は自暴自棄的に四方八方へと手を出し続ける。壁にあたっては傷ついて、炎に触れては火傷して、水に濡れては落ち込んで。
そんな繰り返しが”探す”という行為にはプロセスとして埋め込まれている。

かくいう私も、探すために足掻き続けてきた生物の一例に漏れない。何を求めているかもわからないまま、輪郭すら掴めないぐにゃぐにゃした日々を必死に生き延びてきた。あまりにもわからないことが多すぎて、人にその探し物の正体を尋ねたりもした。足が動かなくなるまで歩き続けて県を横断したことも。水の中にあるかもしれないと深く深く沈んだことも。そのどれもが単なる行為としての”探す”を超えて、生きるにつながっていたように思える。紆余曲折の中でもがいた記憶こそ不鮮明にしか残っていないが、確かに事象として真空パックして保存されていた。


私は自らの人生をゲームのように捉えている。
朝起きてHPゲージを確認し、地図を開いて目標を認識する。対人場面においては常にアクションコマンドが提示されていて、99%の場合においていわゆる「対人関係における正解例」を出すことができる。アクションコマンドの横に、会話文脈を学習した高性能なサジェストシステムが存在していて対人関係を容易にしてくれる。人間関係で悩んだことはない。
つまり、思うままに関係性を築ける私にとって人間関係は至極苦しいものだった。タスクと呼ばれるいくつかのクエストをクリアして、早く家に帰って珈琲を入れ、お香を炊きながら、静かに読書して夜を迎えたいと常々思いながら、アクションコマンドを叩く。

どんな会話も機械的でコミュニケーションに思えない。そう思ってしまう度に私の中の3歳児は不貞腐れ、こちら側に背もたれをむけて三角座りで椅子に座る。相手のことを傷つけたくない、人様に迷惑をかけるわけにはいかないと思うあまりに、誰も気づかないように配慮をすることが多い。誰かが一人にならないように、浮いた存在を演じることだって容易だ。だが、所詮それらはアクションコマンドである。私とは別物の、八方美人的なコマンドが自動で行動を統制しているだけであって誰のためにもなっていない。そう気づくたび、11歳の私は身体よりも大きな刃を自分に向ける。電気こたつに引きこもり、涙すら蒸発してしまうほどに時間から逃げ続け、汗まみれの身体で目覚める夜も忘れてはいない。

私はずっと”対等”が欲しかった。
見た目や、雰囲気や、話し方や、能力や、知識や、経験などで判断せずに、「私を私として見て、話して、向き合ってくれる存在」を心の底から欲していた。私にとっての寂しさは物理的・距離的な近接性を包含しない。私が寂しいと思うのは、私が孤独であると感じる時、誰もが私と同じ土俵で話してくれない時だ。私が心の底から話をする時、欲しいのは感嘆や尊敬、驚嘆、羨望、謙遜といった類のものではない。私が欲しいのは対話、議論、反論、異論だった。私にとって、目の前の人間が同じ土俵で相撲をしてくれることが何よりも快感であり、至福だと思えた。

私は最近24歳になった。23歳の1年間は極めて自堕落で、自分で自分を許せないことが多くあった。しかし、そのおかげか”探し物の正体”に気づくことができた。1人は楽しそうにゆっくりと頷いてからにやにやとして、「ふーん」と意味ありげに考え込む。私の思考が些事に拘泥していた際は「つまらん」と突っぱねてくださる。1人は本気で話し始めた途端に目をそらさずまっすぐにずっと見つめ続けてくれる。私の熱量が上がれば上がるほど目線も固定され、常に批判的なアイデアをもちつつ、より大きな話へと止揚してくれる。また仕事面でも、雰囲気ではなく、アウトプットで評価してくれる方に2名も出会うことができた。適切な抽象度を持ったコミュニティ・関係性に出逢えば、抽象⇔具体の調整も不要なことに気づいた。なによりも、思考やアイデア、文章をもってして成果を判断してくれたことが嬉しかった。特にその時の私は、作ったもので評価されないこと、雰囲気で評価されていることに辟易としていたので際限なく喜んだ。

探していたものはキラキラしたものだと思っていた。
それはピラミッドの上位数%内に位置しているもので、なかなか手に入りにくいものだと。手に入れるためには多くの努力と挑戦を要し、その中でも一握りの人間だけがそこに至ることができると。

しかし、現実は異なった。
私の探し物は身近にあった。
すでにいくつも持っていたし、さらに増えることにも気付けた。
従来想定していた”ナニカ”よりも遥かに美しく、暖かく、燃えるような宝物だった。

こういった探し物に出会うことが私の全てであるとするならば。
私の人生において欲する”全て”に出会うためには、テクノロジーもスマホも、キャッシュも不要で。ただドトールやガストやセブンの100円コーヒーがあれば良いと漸く腑に落とすことができた。

悪くない人生だ


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