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生きることに価値も目的もいらない

書くことが仕事でもあり、書かないと自分の存在意義が揺らいでしまうタイプなので、今日もnoteからこんにちは。
長い間、アメブロを書いているのですが、note へ移行していこうかなぁと思っています。
仕事の相談にも乗っていただいている出版プロデューサーから、
「ブログは2つあると読者には逆に不親切です。引っ越し+出版を機に活動も新しくなるんですから、note に移行しちゃうのがいいですよ」
と、言われています。
アメブロは、ローソン感があってスタイリッシュじゃないそうです(笑)。

今日のブログのカバー画像ですが、左端の写真は、引っ越し前の港区港南で時々行っていたお気に入りのレストランで、バースデーサプライズをしていただいた時の一枚。
すごく仕事ができて、親切で、明るくて大好きだった女性スタッフMさんからのプレゼントです。
昨年末、引っ越し前にお会いできるかな~と思って久しぶりのランチにお伺いしたとき、お店のスタッフの方からMさんがご結婚➡出産されたことを聞きました。
今は一女のお母さんになっています。
暖かくなったらお子さんと一緒に湘南に遊びに来て下さるそう。とっても
楽しみです♡



母になるってもっとも創造的なお仕事だと思う

Mさんが出産されたと聞いた時、若い人たちが結婚はしない、子供いらない、という現代の風潮の中で、さすが~!とこころの中で小躍りしました。
自分自身に子供はいないくせに、こんなこと言うのはなんですが・・・。
時代がこうだから、得だから、損だから___と考えて選択することはもちろん当然のことなのだから、外部が何か言う事ではないのは重々承知しています。
だけど、私は損得を考えて選択する人にはそもそも魅力を感じないんです。

大好きだったから結婚したの
自然に子供ができたの
大変だけど今は子育て楽しみたい

というような、ごく普通の昭和的価値観を持っている人が好き。
私が20代の頃は、そんな女性たちが多かった。
だけど、私はそうではなかった。そのことに後悔をしているわけでは決してないけれど。
私がもし、スーパーウーマンだったならね・・・
仕事はもちろん優先して、
結婚して子供も作って、
都心と湘南の二拠点生活をしながら海外を飛び回る

そんな生活が理想でしたね、
だけど、自分のキャパというものを私はわかっていたんだと思います。
体力がなかったし、リーダーの位置から逃げていた私は、スーパーウーマンにはとてもなれる気がしなかったですね。そんな自分ですが、それでも幸せな人生を送れたな・・・って思えます。好きなことしかしてこなかったから。
ずっと好きなことを優先していたら、お母さんにはなれません。

「誰かのために生きる」という選択ができるというのは、人生において大変貴重なんだと思います。
どんなに文明が発達しても、今のところ「一つの新しい命を生み出す」という大仕事は女性にしかできないことです。
だけど、この創造的な大仕事が実に過小評価されているのはなぜなのでしょうか。
そんなことを考えていたら、私の大事なお客様からメッセージをいただきました。
そこにはすごく深い内容が書かれていました。
今日は、そのメッセージをご紹介しつつ、「生きることに価値がなければいけない」のだと思い込まされている現代について、思うことを書いていこうと思っています。

「50代女性の生きにくさ」について

メッセージをいただいたのは、私のセッションを受けて下さった50代の女性です。まずは、全文をご紹介させていただきますね。

何でもお金に換算する社会になり、女性も仕事を持って金銭を得られないといけないと思い込まされてるからでしょうね。
だから どんどん乾くし自分に価値がない様に思える
お金がないと不幸だと思わされる

私も、金銭的な理由で学べなかったので、しばらくそんな価値観で生きてきた様に思いますが
お金はあったら出来る事多い様に思うけど、
実はなくともやりたければなんとかなるはずなんですよね
出来ないのは、自分で出来ないと手放しているから

人生を心底楽しむ
それって自分の事を認めてはじめてやってくるものなのかな?
母という、人を産み育てる事に価値を見出し難くされているから
私も世間的な価値がないように思えて不足感がありました。
私は、もっと出来るはず
私をもっと役立てたいと
私のコンプレックスは、自信のなさと言うよりも、何者にもなっていない自分への嫌悪のようなものでした。
だから少し前は、起業で自信を取り戻したい人達ときっと同じ気持ちだったと思います。
でも、動きだしたら、金銭的にわかりやすく成功したいのが望む事でもない。
皆さん、自分に自信を取り戻さなくてはと思っているのではないでしょうか?

今の女性達の迷いは、私達の親世代から続いてきている様に思えます。
あんなに大きな戦争があり、その後遺症として、日本人は皆自分を卑下するような自信を持てないようになってしまい。
それがずっと子供にも刷り込まれてきて、母が不幸だと子供世代に皺寄せが。
専業主婦の自分の様にはなるなと言われ、結婚は墓場だと思わされ、子育てはお金がかかるだけだと思わされ
ただただ働き、お金を人より得る事に幸せがある様に刷り込まれて
自分が心底人生を楽しむというと、すごく大きな事のようで、毎日楽しくなきゃいけない感じもする言葉ですが、自分の望む事のみで動いたなら、苦しさも、辛さも、味わい尽くせるし、全て自分の意志で決めたという意識が、人生を楽しむ事なのかなと思ったりしています

自分の人生の主役は自分で、脚本も演出も自分しか出来ないって当たり前の事を見失いがちなのだと。
人生を楽しむって、後悔しない様に生きる事で、それって常に自分への問いかけになるから、人を羨んだり、人に惑わされてる暇などなくなり、自由になれるのではと思っています。
日本人は劣るとか、世界で通用しない考え方とか、ちょっと言われすぎて、自分を認める事が出来なくなって今がある様な気がしています
だから、自信というか、今の自分で良いのだと心から思えたなら、したい事も見えてくる様になるのではと____。

同世代の方は、うなづける部分が多いのではないでしょうか。
今の20代、30代中盤くらいまでの女性にとっては、結婚して出産できる立場にいる女性は恵まれている、と思われるかもしれません。
しかし、50代の女性が20代だった頃は、出産・育児は女性にとってはごく当たり前の仕事であり、誰もが当たり前のようにやっていた、という風潮だと思います。
当時はネットもなく、SNSなんていうものはありませんから、一般人が自身のライスタイルを公開する術などなかったのです。

この世代(50~60代)の女性は、専業主婦を経て子供は成人し、自由な時間がある、という比較的余裕のある人たちが多いのです。
その中で、第二の人生ということで起業ブームに乗る人と、60代になると、孫の世話で楽しい忙しさを満喫している人も出てきます。

メッセージを下さった女性は、「私のコンプレックスは何者にもなっていない自分への嫌悪のようなもの」と、書かれています。また、「母という、人を産み育てる事に価値を見出し難くされているから私も世間的な価値がないように思えて不足感がありました」とも。

生きている限り、私たちは承認欲求に苦しめられている____そんな風に思います。もし、SNSというものがなければ・・・と想像してみてください。なぜか、SNSでは起業してバリバリ稼いでいる(ように見える)女性や、自由で綺麗でお洒落(に見える)女性たちばかりが目立ちます。
平凡な毎日を心地よく生きている姿や、90%が大変だけど掛け替えのない喜びがある子育てや、家族が仲の良い幸福な日常・・・といった、実は最も根幹的に幸福度を左右するベースの部分は隠れて見えないような構図になっています。

実に不思議なことです。本来、もっとも大事な部分であるはずなのに、皆がそこには目が向かないようにさせられているような・・・そんな気さえするのです。
それで、最近私は思うようになりました。
根幹のベースが幸福感に満ちている日々であれば、SNSで過度なきらきら感や成功している感を誇示したいとは思わなくなるのではないだろうか、と。

感じることって実はむずかしいのだと気づいた


「此処ではない何処か」を求めてきたけれど・・・

私も今、自分の変化に驚きつつ、その体感を自身で楽しんでいるところなんです。
人生の初心者となったような気持ちです。赤ん坊が天才だと思う理由もそこにあるのかな・・・と思います。
ものごころついてから、ずっと何かを目指して生きてきました。「今」この時にしか生きることはできない、という理屈はよくわかってはいたのですが、常に何かを目指し続けているというマインドは変わることはありませんでした。
目指すことは成長することで、進化していくことでもあり、人生とはそういうものだと信じていたのです。
今、思うと常に「此処ではない何処か」を求めているという状況であり、それは望ましいことだとも信じていました。

なぜか子供の頃から理想の仕事、理想の姿、といったものがクリアにあったので、それを自然に目指していたのだと思います。人の意見を聞いたり、従ったりするタイプではないので、大事なことはすべて自分で決めてきました。
それはきっと私にとっては必要なことだったのでしょう。目的がなければ生きることができない、そういうタイプでしたから。

何ものでもない自分自身にOKを出すこと
それでいいんだと思えること

これは、人に言われてもどうにもならないんですよね。自分で自分を許すことさえ、私たちには難しいことなんです。
どこからどう見ても幸せそうにしか見えない裕福な主婦が、自分は世界一不幸だと思っている場合もあります。世界は自分の目に映るものがすべてであり、美しい場所だと思えばそうだし、醜い場所だと思えば実際にそうなのです。

此処ではない何処か____それを求めて生きてきた人生は決して不幸ではなく、むしろだからこそこの人生を生きてこられたのだと思います。
そして、なぜかこの時期、つまり私の場合は引っ越しと同時に、ということなのですが____すこ~んと何かが抜けてしまったようなのです。
昨年、ネドじゅんさんの「右脳さん、左脳さん」という本を読んだ時、こんな風に思考が消えたらどんなに幸せかしら・・・って思ったものですが、その感覚に近いものだと思います。

長い人生の間には、色々なステージがあります。自身も変化していきますし、環境も変わっていきます。特に若い頃には目指す何か、目的があることで、より希望を持って生きることができる、といった時期もあるかと思います。
しかし、他者からの承認を求め続けることでこころが穏やかになることは絶対にありません。常に焦燥感がつきまとい、満足感がない状態がずっと続いていきます。
現代に生きる私たちのほとんどは、そうした状態に置かれているのではないでしょうか。

生きることに価値も目的もいらない

そのように思っている自分に、正直なところ驚いています。ちょうど1年ほど前に、夫に「生きる目標はないの?」って聞いた時、夫は
「目標がないといけないの?」って言ったのです。
その時の彼の表情はとても暗くて、寂しそうでした。
目標がない人生なんて生きる意味があるのだろうか____
私がそのように思っているだろうことを察して、夫はそれ以上一言も答えようとしませんでした。

さきほどのネドじゅんさんの解釈によると、「今、ここ」というのは右脳領域であり、対象物をそのまま見ているという状態です。
一方、左脳の働きは「可能性」を見ているということです。未来、理想を思考によって作り出す。
え?それっていいことなんじゃないの???

はい、私もそのように思っていました。
だけど、多くの場合、良かれと思っている状況とは真逆の方向にいってしまうことになります。
未来の可能性を思考するということは、同時に、「今」この瞬間を否定していることになるからです。
この世界は「ない」ものに意識を向けさせて「今」を否定するもので溢れています。ほぼ、そうしたものしかないと言えるくらいです。
「今」この瞬間を否定している限り、「未来はもっとよくなる」というループにハマります。それは永遠に来ないのですが_____。
そして、知らず知らずのうちにストレス過多になり、孤独に陥ることになるのです。

言葉を優先する私が、言葉が苦手な夫から教えられた
「人生には目標なんてなくていいんだ」


ネドじゅんさんのように「世界と自分の境界線がなくなる」感覚になれているのかどうかわかりませんが、日増しに気持ちが澄んでいくような気がします。
まず、夜、眠るのが恐かった私が、眠るのが楽しみになったこと。
これは大きな変化です。とてもよく眠れることの幸福を味わっています。
8時間は寝ていますが、もっと眠れる___そんな毎日が続いています(笑)。

繰り返しになりますが、「今の自分が最高」とか、「今の自分がパーフェクト」って思えと言われて思えますか?
私は無理だと思っています。思うって、思考することなんですよね。アファメーションも言葉ですからね。思考することになります。左脳を使っている限り、足りないものを補って理想へと近づけようとします。
足りない、足りない、足りない____
という思いを無視することはできないんですね。

これは私の個人的な考えになりますが、60代になっても70代になっても若々しくエネルギッシュに輝いていたい」という気持ちがすごく強い人は、ずっと稼いでいたいと思っているはずです。けっこうしんどくないでしょうか。
一方で、「静かに枯れていく美しさ」というものがあって、私が惹かれるのはこちらの方です。
そのためには、やはり「今、ここ」なんです。「今」に集中しなければ、静かに枯れていくことを楽しむのは無理だと思うのです。
「静かに枯れていく美しさ」___また、目標みたいになってしまいますが(苦笑;)そんなイメージを持って「今」を生きていきたいです。


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