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雲の上のふじこさん 【短編小説】

僕はモノ書きになりたいと思っている。
それなりの気概を持っているつもりだが、時々はもう一人の冷めた自分が出てきて大志を抱いているその青年のことを「身の程知らずの夢見る夢子ちゃん」呼ばわりする。
大学の専門課程を徹底的に修めて飯はこちらで食っていこう、僕の専門分野は世界的に専門家が不足している技術分野だからこっちを選んだ方が食べていける確率は高い。モノ書きの夢は一生をかけて少しずつ実現させよう、とそろそろ「院」への進学準備のこともあって、そんな夢のない夢の持ち方も芽生え始めている。
モノ書きの経験の場としてのSNSサービスはそれこそぐるぐる試しては来たが、今はデザインが喧しくないところが趣味に合ってnoteに絞っている。
僕の名前は田山真一。ハンドルネームは真田山ハジメである。

いくつか投稿作品が溜まってから祖父さんと祖母さんにこのnoteのことを話した。
同居しているということもあり、幼い頃から日常の身近なことはまず祖父母に話すクセがついている。
「おばあさん。今の時代こんな便利なサービスがあってね。文章や写真をどこからでもここに投稿することができるの。受け手側も同じようにどこにいてもそれを自由に開封出来て作者とも繋がることができるの」
言いながら、絶対解らないだろうなあ、と思った。
「私には難しいねえ。だってモノ「書き」って万年筆とかで原稿用紙に「書く」もんじゃないのかい。一度おじいさんに聞かせてごらんよ」
祖父さんの方はスマホを日常使いしている。と言うと格好いいがその実際はメール交信一本ではある。しかも漢字変換が面倒くさいと言い、ひらがな率が異常に高い。
「おじいさん!これ見てごらん。僕が書いたエッセイだよ。ここにある「身近な理解者」っておじいさんのことだよ」
note画面を出して直接指差し説明したら、祖父さんが大いに興味を示してスマホ内の文章を真剣に追い始めた。
「どう?おじいさん。面白い?」
「おお、いいじゃないか。で、これでお手当いくらもらえるんだ」
「そんなんじゃないよ」
昔の人には、労働対価、という概念が肌に染みついているのだ。
これだけの量の文章を自分の趣味というだけで綴り続ける、というのがどうしてもすぅと腹に収まらないのである。
しかしこれを簡単に説明できる魔法の言葉がある。
「いい時代でしょ!」
「ああ、いい時代だなあ!」
そのまま、ホーム画面にnoteアプリアイコンを追加し、新しいアカウントを作って勝手に真田山ハジメのフォローをした。
祖父さんがなんだこれはと爽やかなグリーンのアイコンに指一本触れるだけでそこはもう真田山ハジメ作品の花園なのだ。
面白いことに一週間くらいしたら祖父さんからのスキが少しずつ入り始めた。
残念ながら面白いことはそこまでで、逆に、家族の面白おかしい「ここだけ」のトピックスや、悪い友達から仕入れたセクシュアル情報がまったく書けなくなってしまった。
理数系学生にして大きな計算違いをしでかした。

フォロワー数は少しずつ増えてきて、中には熱心にコメントを書いてくれるフォロワーもあった。
その中でもハンドルネーム「雲の上のふじこさん」というアンデス山脈からフォローいただいているかのような名前の女性からのコメントがなかなかインパクトのあるコメントぶりであった。

こないだの作品では前半と後半の感じが違って同じ人が書いたとは思えませんでした。

とか、

読んでいる時は普通の風刺表現なのかと思いましたが、読んだ後になって思い出し笑いが噴出しました。

とか、肝心の自分の作品の方が魅力的なコメントのネタ振りになっているかのような存在感のあるふじこさんのコメントであった。
これも祖父さんに読ませたら「学習効果がある」との賛辞であった。
ちなみに祖父さんは国語を教えていた元高校教師である。

ふじこさんのコメントは時に辛辣であった。

このオチは笑いましたがややくどいでしょうか。二回で止めた方が効き目あるのでは。

三回転半ひねりオチが得意技だったので、そう言いながらふじこさん笑ってんじゃん、笑い逃げじゃんと、当初はスネてもみせたが、後から冷静に見つめ直したらなるほどその通りで彼女はすごく「判っている」なといたく納得するのだ。
ふじこさんのコメントの方にもファンがついたりして、私のページはふじこさん効果でなかなか独特の活況ぶりを見せた。

ふじこさんは自身の作品を一切書かない。
コメント欄にのみ出現する。見てみると他のnoterのページにもいくつかフォローはあるが放置状態でコメントをしていない。それが、何らかの意思が働いてのことか、使い方が解っていないのかよく判らない。全容は謎に包まれている。
それまでの僕のnote上の興味と言えば例にもれず、PV数、フォロワー数、スキ数、の数字の大きさだけであった。しかし、今note上にはそれらとは全く別次元の興味がふつふつと湧いている。
時々は地殻変動による裂け目からドロドロに煮えたぎる熱い欲求が噴出するのである。
ふじこさん一回作品書いてください!あなたの作品が一度読みたい!
すでに雲の上の存在となっていた。

両親が食卓で低い声で何やら話をしている。自分のことかと気になっていたら、真一も聞いておきなさい、と呼ばれた。
祖父さんが入院することになったという。身体の中に悪いデキモノが見つかったという。
母が当面その事で忙しくなるので、祖母さんのケアは真一が積極的にするように、と言われた。
当の祖父さん本人はけろっとしているらしいが、本人には伏せた上で徹底的に検査しこれを潰していくという。
祖父さんは元々が頑丈な方ではないので入院自体はさして珍しくない。しかし今度ばかりは今までとまったく違うと父が苦い表情をして言った。

祖父さんがいつも座っていた座卓前の畳は当たり前だが日頃は本人の下に隠れてよく見えない。主のいない今あらためて見たらそれなりにいい感じに擦り切れてやや凹んでいた。祖母さんにそれを言うと、祖父さんはその風合いが心地よく、新しい畳になかなか変えさせてくれないという。
今度また祖母さんに取材しそれをエッセイに仕上げて畳の匂いがない病室の祖父さんを和ませてあげることにしよう。

あまり押しつけがましくない程度に、ふじこさんご自身は作品を創らないのですか、とコメント欄で尋ねた。
すると、

創造はただ苦しい。

とだけ返ってきた。
どういうことだろう。
推察するに、この人は過去真剣に作家を目指したことがある人、またはそういう人の傍にいた人なのではないか。
そして、何かの理由で自身が挫折した、または挫折する瞬間を傍にいて目の当たりにした。その結果として永遠断筆を決めたのではないだろうか。
そういう物語を勝手に思い浮かべた。
僕みたいな生意気小僧が、食べていけるからこっち、食べていけないからあっち、と電卓と軽口を交互に叩きながら右左を決めているのとは次元が違う。
ふじこさんの言葉には確かな手応えを感じる質量がある。それが、作品という形で表れようが、コメントという形で表れようが、その一言ずつ丁寧に感受してできるだけその境地に近づきたい。同じ高みに立てなくとも、せめてその山の形を見ていたい。

若輩者が軽口を叩きました無礼をどうかお許しください

とだけ返信コメントを書いた。
そこにふじこさんのコメントはつかなかった。

その時の心理状態により、作風が変わる、というのは実際その通りだ。
祖父さんの精密検査の結果が順次明らかになって、日々思わしくない方向に引っ張られていく中、少しずつ書き溜める作品は沈鬱な悲しい作風になっていった。それが意図されたものでなく、感情に引きずられたものであることをふじこさんは言い当てた。そして指摘は婉曲的であった。

プロになることは簡単ですが、プロを続けることは並大抵でありません。
今日何があろうとも昨日と同じ顔をして書くということを一生続けなければならないからです。

祖母さんに見えないところで僕は泣いた。

暫く投稿を休むことにした。
心の区切りが何か欲しく、直近で投稿したコメント欄に続ける形でふじこさんに一つの質問をした。

モノ書きには憧れますがいかんせん心が弱いのです。
自信がなくなると思いつきのように趣味で続けたいと言いますし、しかし心の奥底では職業作家になりたい自分がいます。
自分が自分を自由に振り回し本当の自分が見えなくなりました。

ふじこさんから、翌日コメントが入った。

少しのお休みもいいものです。私の人生はお休みだらけです。
しかし、今こそ心の内を出し尽くしたらどうですか。後になってから「今」は二度と訪れませんから。

何かに憑かれたように一気に思いの丈を書いた。
少し踏み込んだところなどでは、病室でこれ祖父さんが読むかも知れないな、とかすめたが、読めるほど祖父さんが元気なら喜ぶべきじゃないか。
むしろいい機会だ。祖父さんにも余さず伝えよう。そしてまた畳のあの凹んだところに戻ってきた祖父さんにいっぱい人生指南してもらったらいいじゃないか。
誤字修正した以外は一切内容に修正を入れずにそのまま投稿した。

ふじこさんから、二日後にコメントが返ってきた。

いくつもの言葉の宝石を見ることができました。
それらはまだ原石の状態ですが磨いたらどんな発色と光輝を見せてくれるのかあなたの将来がとても楽しみです。
でもけして誉めているわけではありません。
だってまだ原石なのに誉めるなんておかしいでしょう。
やがてあなたが誰の指で輝くのか。誰の胸元で輝くのか。他のどんな宝石とのコンビで美しさを増すのか。または単独で輝くのか。その輝きがどんな人のどんな場面で喜びを盛り上げるのか。どんな場面で哀しみを癒すのか。それを思うと心が躍ります。
だから真一さんが全ての結論を今急いで出す必要はありません。
自分をよく知って正念場で美しく輝くことだけに専心されてください。

相当の質量を伴ってズシンと心に収まった。いずれにせよ当面は断筆しよう。
そして落ち着いたらまた作品を書こう。
少し心が落ち着いて何日かが経過した。

その日は午後から、母が祖母さんを連れて祖父さんの状態を聞きに病院に行っていた。
僕はその日はまだ明るいうちに大学から帰宅していた。誰もいない食卓に一旦腰かけてぼんやりと考えた。
夕ご飯を自分で作ろうか、それとも外食しようか。
そんな至極平和な思考を強引に切り裂くように、僕の視界を強烈な光で白く瞬かせて、あの日のふじこさんのコメントが脳内にフラッシュバックしたのである。
大慌てでスマホを掴み取ってすぐさまnoteアプリを開きそのコメントを再度開く。

だから真一さんが全ての結論を今急いで出す必要はありません。

真一さんが。。
なぜふじこさんが自分の本名を知っている!私のハンドルネームは真田山ハジメだ!過去に本名を明かしたことがない!
目の前で起こっていることが恐くて恐くて仕方がなかった。手の震えが止まらない。
掴んでいたスマホのコールが鳴った。スマホを投げ飛ばしそうになるほど驚いた。
そこにうわづった母の声が聞こえる。今の自分の動揺以上の強いテンションであることはすぐに判った。話しているというよりは息切れに近い。
「真一!おじいさんの容態が急変したの!すぐに病院に来なさい!」
家を飛んで出て大通りまで全速力で駆けて、流しのタクシーを両手で止めて飛び乗った。
車窓の外に顔を向けてはいるが、全く車窓の眺めとして頭の中に入ってこない。その流れゆく眺めはそのまま過去の回想シーンの演出効果である。

大学に入学したばかりの頃。
夕食時に酒を飲んで少し饒舌になった祖父さんが例の座卓前の定位置に戻った後、青年のころ恋心を寄せたある女性の話を始めた。
その女性は藤棚の藤で藤子という名であった。
祖父さんと藤子さんは同じ大学で文学を学ぶ徒であり、同人誌を発刊した同士であった。藤子さんは文壇を目指すと明言していたそうである。たまたまその同人誌に載せた彼女が高校時代に創った処女作がある評論家の目に留まり、そこからつながって文壇デビューの話が持ち上がった。
しかし、不幸にもその矢先に病魔に侵されて天国に召されたという。雲の上に。

やっとのこと病院に到着しさっきの続きのように病室まで全速力でつないだ。
看護婦詰め所への面会申請も抜かして病室に飛び込んだ時、父と母、そして祖母さんがベッドにすがりついて必死に祖父さんに大声で呼びかけているところであった。それらが全て感謝を表す言葉だったので、すでに祖父さんが最後の灯を燃焼させているところだと直感した。
僕もその中に割って入り、おじいさん!有難う有難う!と何度も狂ったように叫んだ。

雲の上がどうなっているのか僕にはわからない。
現世に妻を置いて雲の上で初恋の人と会うことが許されるものなのかどうかわからない。
だけど、祖父さんは幸せ者だ。祖母さんからそれが許されている。
藤子さんの話は祖父さんから何度も聞かされて念仏のように唱えることができると言う。
今、祖父さんの形見のスマホの使い方を祖母さんに特訓中である。
アカウント名は、雲の上のふじこさん、のままではまずいでしょ、祖母さんの名前に変えて、雲の上のさつきさん、にしようよ、と言ったら、あの世に行けということかと笑われた。
そんなわけで、祖母さんが、雲の上のふじこさん、の二代目を襲名した。
この二代目さんが初代よりクセの強い人で、読むのはスマホ、コメントは直接聞きに来いと言う。
そしてこの言葉がまた初代に負けず劣らず辛辣でずっしり重いのである。