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不登校経験者(長男18歳)が応えるお話し会を終えて

一昨日の居場所での長男のお話し会、たくさんの方にご参加いただき、ありがとうございました。

不登校経験者がお話しする、というキャッチは必要ではあるのですが、不登校でないたくさんの18歳の人たちの話しでも、長男のそれと何も変わらずに、大人たちが得るもの、気づくものは多いだろうとわたしは思っています。

長男が学校に行かなかった期間は、至って正常であり、人として自分自身と向き合うという、とっても必要な期間が義務教育の間に訪れたというだけだと思っています。

それを認められるかどうか、または大人側のこだわりや常識の中で自分側が許せるかどうか、だと思います。
相手(学校に行かない子ども)を許す許さないではないのです。

さて、参加できなかった方から、当日の様子がどんなだったのかレポをお願いされています。
が、やはりこれは、もう、あの時あの場で長男の話しを聞き、受け取り、それぞれの人が持ち帰るものだろう、と思いました。

みな、それぞれ本気で真剣でした。

うまく言えないけど、希望だけが先にあるキラキラしたものでもなかったです。(変な意味じゃなくて。そもそも扱ってるのがそういう答えの出るものじゃないから。)
そういうのじゃないよね、確かに。

それでも、あの場にいる時だけでも救われたり、気が晴れたり、まだわかんないけど大丈夫なんだって切り替えられたなら、それでよいのではないかと思います。
そして、またそれぞれの場所に帰ってく。

14人の人と長男とわたし。
ほとんどの方がお母さんでしたが、聞き手の中にも不登校の当事者であるお子さん自身、教育関係者、福祉関係者、長男を見たかった人、笑。というさまざまな人たちでした。

さて、レポートはいろんな視点からできるのですが、ご参加のみなさんに宛てたお礼のメールをここで紹介したいと思います。

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昨日は、お話し会にご参加いただき、ありがとうございました。
昨日、今日のうちに感想というか、想いを送ってくださった方もいらっしゃいました。
ありがとうございます。

もしかしたら、昨日のお話し会の余韻というか、よいわるいではなく、何かモヤモヤ、ふつふつと、なんともいえない感情とも違う、言葉にもできない気持ちでもない、よくわからない感覚の方もいらっしゃるかもしれません。

それ、味わってこそ、と思っています。

それは、もう、長男やわたしのお話し云々ではなく、昨日のお話し会がきっかけで、ご自身の中にある何かが表面に出てきているのだと思います。
いえ、出きってもいない、出ようとしている、または出ようとしているのに、ご自身のこれまでの常識とされていた事柄や物事、知識が勝っていて、フタをしているのかもしれません。

出たら、いいですね。
その出た部分もあって、社会的な常識もあると、かなり生きやすいのではないかなぁ?と思っています。
わたしは、社会的な常識に欠けているので、ぜんぜんですけれども、笑。

さて、何かを【感じて生きる】ということは、そういうことだとわたしは思っています。
第六感とかいいます。
それは、特殊な人にあるように思いますが、本来、誰でもが持っている、それこそ当たり前に人間にもある力だとわたしは思っています。

なんかイヤな予感がする

とかです。
これは、言葉で表現できません(イヤな予感以外の何物でもないわけです、笑)し、ましてや論理的に他人に説明できるものでもありません。しかし、自分は感じてる、感じている、のです。
それを消して生きてる人がほとんどなのですが、誰でもあるんです。(本当は)

そんなことあるわけない。

と、消してしまうのですが、あるんです。(言い切りますけども)

あ、これスピリチュアルとか、不思議系の話ししてるんじゃないですよ、笑。
なかったことにして、日々をこなす方が圧倒的に楽ですし、世の中に合わせるには、その方(感が鈍い方)が便利ですからね。
それはそれでいいと思います。

が、多くの人はあることすら忘れていますから、あることを知ってバランスよく生きれたら、ぶれにくくなりますし、自分軸で過ごせるのは間違いないですよ。

簡単なことなんです。

頭で考えないことです。

今、昨日のお話し会で、何か得体のしれない感覚に覆われている人は、それを味わってみてほしいです。
その正体がなんなのか頭で考えようとしないことです。これはこうだからこうなってこう思っているんだな、だからこうしよう、とか要らないんです。
きっと、ずっと、そうやって正解を求めて生きてきているのですが、人生に一つの正解あるわけないじゃないですよね。
腑に落ちる、のを待てばいいというか。これ、ホント、すごいですから。
頭じゃなくて、スッと一瞬です。なんなに四六時中思い悩んで考えていた日々が嘘のように、一瞬です、笑。
腑に落ちる、が多いといいです。

自分で歩いて行く
自分の道です。

子どもたちもそうです。
切り離していいです。(見捨てるのとは違いますよ。)

切り離すというのは、小さい子の場合に、物理的にほったらかしていい、見放していい、ということではないですよ。
その場合は、当然、大人がしばらくそばにいてお世話しないといけないですから、責任を担います。
それ(物理的に離れられないのは)が、昨日お話しした小5くらいが変わり目、でしょうか。

で、切り離す、というのは、子どもの将来をあまり憂う必要はなくて、子どもの人生だと心底思えるといいです。

親は子どもに何もできない

と思えるかどうかとも言えます。
こう言葉で書くと、誤解を招きそうですが、伝わっているといいなぁ...。

さて、そして。
昨日、長男の話しを聞いていて、わたしもまだ感想がまとまっていないのですが、お話し会から時間を置かず、少し早めにお伝えしておきたいことがありました。

長男が、

「荒れていた2年間はどうしようもない無駄な時間を過ごしていたわけだけど...」

というような話しをしていました。
わたしは、この時間こそが有益であり、無駄な時間なわけがないと思っています。
それは、次男が小2~小4までの不登校3年間も同様です。

その時間こそ、学校に行っていたら得られなかった時間なのです。
わたしは、ホームスクーリングなどというような誰からも文句を言われないような環境をつくったり、学びの機会を与えるなどといったようなことはしてはいません。
本人たちが、その時その時今を生きて(本人たちは「何もしてなかった」とか言うかもしれませんが。)いて、何もしていないようで、ぐんぐん育ち、発達していたのだと思います。実際、そうでした。
からだが大きくなっただけではないです。根っこもちゃんと育ってる。人間てすごいです。

自分の時間を過ごす
自分と向き合っているかどうか知っていてもいなくても、自分の時間を過ごすこと。
外の環境に振り回されず、自分の時間を過ごすこと。

これがいくつになっても保障されていることが大切なのではないでしょうか。
いくつになっても、です。
そして、それは学校に行っていても、です。
学校ありき、ではないのです。

学校(社会との関わり)は、その後、自分ができてからです。

そして、もうひとつ。
お話し会の中で、わたしは

「不登校になったら、それはもう親はたいへんです。」

とお伝えしました。
これ、いつもなら続きがあって、昨日は、それを伝える機会がなかったので、ここでお伝えします。

「不登校じゃない場合でも、親はたいへんなんですよ?」
「学校に行ってたら、それですべて安心安全ではないですよね?」

です。
行ってたら行ってたで、いろいろありますよ。いや、むしろ行ってる方が、いろいろあると思いませんか?
特に親御さんが主導なうちは、もっとですね、ストレスが多いと思います。
思う通りにならないと感じる条件がいっぱいあるので、笑。
学校に行く、というだけで。

あそこでお伝えしたかったのは、子どもを育てるというか、子どもと生きるということは、もうたいへんなことなんです。
楽じゃない、ということです。

ただ、最初の方にお話しした、切り離しができていると、要らない不安とか心配とかそういうのはないので、自分の人生を生きられると思います。

そして、まだ起きていないことを心配するのをやめられたらいいですよね。
その癖をやめてみる。

なぜなら、まず、子どもと自分は別物で、何より子どもは今を生きています。
今しかない。

「今勉強しなきゃ、将来困るよ」
(これ、わかりますか?頭で考えています。思い切り。)

とか、まったく響かないです。たぶん。
大人も一緒に、今を生きたらいい、と思います。

今しかないですし。
そして、将来の【今】をどう生きてるか、どんな風にいるのか、は、今の連続が将来の【今】なので、今の生き方次第で、どうにでもなっちゃいますから。と思えば、今を全力で生きるのがいいですよね。

ただ、その今が辛いという場合もありますね。
それも、よくわかります。

えっと、...。
これには、ありきたりですが、親だからって完璧じゃなくていいんだと思います。

学校に行ってない子どもがいるからといって、何か別のものを与えたりしなきゃいけないのではないか、とか、無理しなくていいと思います。
そういうのがすきな人や得意な人はやればいいし、というか、そういう人は自然とそうしますよね。
ホントは違うけど、そうしている方が気持ちが落ち着くならやってもいいと思いますが、やっぱり続かないならやらなくていいと思います。

そういうことじゃなくて、その前に、子どもにとって家にいることが、

「ここにいていいんだ」

って思えること。

「ここは僕の、わたしの家。大好きな場所。」

って思えること。
(甘やかす、のとは違いますよ。)

そこがあって、親との関係がしっかりあって(けんかもしていいんです。)、それから学校であり、社会であり、他人との関係です。
(世の中には、家が安全でないお子さんもいますし、親が危険なお子さんもいます。その場合は、この限りではなく、第三者が信頼できる人として、その子と関われる地域があることが大事ですし、社会がそういう子につながれる仕組みであってほしいと思っています。)

昨日のお話し会で、長男は、

「家族が何も変わらずに生活していてくれたのが、一番よかったこと」

だと言っていました。

そして、

「矛盾してるけど、ひとりになりたいくせに、ひとりじゃ生きていけないって知ってるから、変わらずにいてくれたのは、本当にありがたかった。」

とも言っていました。

「困った時、何か話したいことがあった時に話せる関係でればいいんじゃないですか?」

「何かしたいと言った時に、サポートしてあげてほしいです。」

とも言っていました。
わたしも、そう思います。

みなさん、大丈夫ですよ。
あと、この「大丈夫」は、安易に言っているのではなくて、その不安な時も、なんか心配なことも、あると思いますが、

「ひとりじゃないですよ。」

という意味で言っています。

話しを聞いてくれる人は必ずいますし、わたしもいます。
意外と身近にもいるかもしれませんよ。
(あ、でも、相手を間違うと、心折れそうになったりしますよね。それもわかります。そういう時は、気が乱れているか、頭が勝っていて、感性や本能で居心地のいい相手に話してないと思いますよ。)

なんか、まとまりませんが、1日経って、思うことをつらつら書いてみました。
せっかく想いのままに指が動いたので、読み返さずに送信しようと思います。
もし、このメールで不快な思いをした方がいたら、ごめんなさい。

ありがとうございました。

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