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人は、寂しさを埋めるための道具ではない。

僕は、誰かに傷つけられたり、一人で考えるのが嫌になった時、誰かに自分の話を聞かせて肯定してもらいたい時があります。

そんなときは、自分が心を許した相手に連絡して、自分が不満に思っていることや、不安に思っていることを話します。

その時に欲しい言葉は、「お前が正しい」というもの。

とにかく肯定されれば、とりあえずスッキリするんです。

しかしながら、相手なんて思い通りにいくものではありません。

自分が必要とするタイミングで、必ず助けてくれるわけではありませんし、自分のことを肯定するとも限りません。

期待していたのが得られなかった時、余計に落ち込んでしまいます(笑)。

当然ながら、僕の自尊心のために生きている人なんて、この世には誰一人いません。

だから、他人に依存して自分の苦しみを分かってもらおうとしている自分が、ちょっと情けなく感じてきます。

自分の不満や不安を人に話してごまかしても、何も事態は良くならないし、相手も疲れさせてしまうだけですから、迷惑がかかります。

それなのに、なぜ落ち込んだ時に人に話そうとするのでしょうか。

解決するのは自分しかいないのに、どうしたらいいのかを考えれば導き出せるのに、考える前に人に話そうとしちゃいます。

その理由は、かなり単純だと思います。

とてつもなく、さみしいからです。

自分が傷つけられた時、自分が失敗した時、自分が嫌になった時、その時々で周りの人に突き放されたような気分になります。

自分の状態が悪いときは、この世界に自分しかいないような気がして、一人でも多く仲間を作りたくなります。

自分の話に共感してくれたら、その人を仲間だとみなして、仲間が増えていけばいくほど、自分に自信がついて、また状態が良くなっていきます。

これを繰り返して、何とか寂しさをごまかしているのですが、そのあとでなんとなく虚しさが押し寄せてくることがあります。

「関係のないことばかり、言い過ぎたなぁ」
「面倒かけてしまったなぁ」
「明るく話せなかったなぁ」

人に話そうとしたのは自分のくせに、寂しさが虚しさに変わって、自分にブーメランとして返ってきます。

この感情が気づかせてくれるのは、「自分のエゴで人を振り回すべきではない」ということです。

やはり、人間関係は楽しくあるべきものだというのが、僕の価値観なのでしょう。

だからこそ、日頃から不満や不安に立ち向かっていかなければいけません。

不満や不安が自分を襲う前に、自分が先手を打って動き出せば、不満や不安も自然と攻撃力を失っていくんです。

もちろん、あまりにも不満や不安が大きければ、誰かと協力して戦っても良いでしょう。

ただ、自分でできる範囲は、自分で戦う。

それこそが、自分にとっても周りにとっても、良い影響をもたらしてくれるでしょう。

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