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生きる喜びを疎かにしてまで、頑張らなくていい。

自分で気づかないことでも、他人の言葉を借りれば、気がつくことがあります。

今週の僕は、やる気が出ない中でも、なんとか自分を奮い立たせながら、ある程度の仕事量をこなしていましたが、なんだか、手応えを感じていませんでした。

つまらない、楽になりたい、逃げたい。

上手くいってるはずなのに、そんなことばかりを考えていました。

そのたび、思い出す言葉がありました。

それは、高校時代の同級生と久しぶりに再会した時のこと。

高校時代のおしゃべりな僕のことを振り返り、「なんで稲本って、あんなに喋ってたの?」と聞いたので、僕は「せっかく自分に時間を使ってくれてるから、なるべく楽しませようとして、喋る時間が長くなってしまう」と答えました。

すると、「なに? エンターテイナーなの?」と気味が悪そうに言われました。

人を楽しませようとする気持ちが、自分の長所だと思っていた僕は、どうしてあんな反応をされるのか分かりませんでした。

しかし、計画が上手くいったのにそのことに喜べない自分と出会って、その言葉の本質を知ることになります。

今週の僕は、仕事の計画を上手くいかせることを最も大事にしていて、仕事を頑張り続けましたが、それと同時に、人間本来の喜びを雑に扱うようになっていました。

ご飯の時間を短くして、無計画な行動は減らして、楽しみもなくして、仕事を上手くいかせるために、ある程度の犠牲を払うようになりました。

仕事以外の時間でも、仕事のために観ておいた方が良い番組をチェックして、自分の行動すべてを仕事につなげようと必死です。

僕が僕のために生きる時間は、ほぼありません。仕事の僕のために生きる時間しか、そこにはありませんでした。

つまり、「誰かを楽しませること」に自分が溺れて、「自分が楽しむスペース」がなくなり、生きる喜びを感じなくなっていったのです。

おそらく高校時代から、仕事であろうがそうでなかろうが、エンターテイナーを気取っていたのでしょう(笑)。

本来、人と会話できるだけで嬉しいのが人間です。

それなのに、その範疇を超えてきて、相手の評価を得ようとする僕は、あまりにも不自然だったのでしょう。

「人として生きる喜び」は、自分の成果や評価ではありません。どんな職業であろうが何歳であろうが、純粋に喜べるものを指します。

美味しいご飯を食べること、良い匂いを嗅ぐこと、行きたいところに行けることなど、人として生きる喜びは、たくさんあります。

どれも成果や評価を絡めてしまうと、生きる喜びを感じるスペースがなくなり、不自然な行動や思考に曲がっていきます。

「人として生きる喜び」が根っこにあってはじめて、仕事の喜び、友人との喜び、恋愛の喜び、勉強の喜びが生まれるのです。

「生きる喜び」を感じていなければ、どれもプレッシャーにしか感じず、やってられなくなります。

だから、生きる喜びを疎かにしてまで、頑張らなくてもいいんです。

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