本来のバーチャルリアリティ|稲見昌彦×伊藤亜紗対談シリーズ 第3話
本質を抽出して再編成
稲見 『見えないスポーツ図鑑』の取り組みについて思ったのが、例えばフェンシングって、そもそも目が不自由じゃない我々も見えてないなと。
伊藤 そうですね。見えないスポーツのフェンシング(アルファベットフェンシング)については、こちらのページで詳細を紹介しています。
稲見 最初拝見したときに、これこそが本当の意味でのバーチャルリアリティだなと思ったんですね。(バーチャルリアリティを字義通りに翻訳すると)「仮想現実」じゃなくて「実質現実」という意味で、本質的な部分を抽出して、元とは違った形で再構成するということなんです。みんなバーチャルリアリティというと、地図でいえば航空写真みたいなものを作ることだと思いがちですが、本当は地形図みたいに道は道として表し、ここにはこういう施設があってと、様々な地図記号で表現するものこそ、本来の意味でのバーチャルリアリティなんですよね。
これ(見えないスポーツ図鑑)はスポーツの実質的な部分をきちんと抽出していて、それが結果的に目の不自由な方も含めて、いろんなところに広まっていくのも、ものすごいVRっぽいと。勝手ながら、そう拝見していた次第です。
伊藤 ありがとうございます。うれしいです。実はそのつもりでやっていて、バーチャルリアリティ学会に論文を出しています。百均の物でやったり、全然お金がかかってないVRなので(笑)、こんなんでいいのかなとは思うんですけど。
ただ、本質の抽出の仕方はいろいろあると思うんですよね。監修として関わってくださった選手のタイプによっても全然違うと思うので、一個の競技でも様々な取り出し方があるんだろうなと思います。
応援価値を高める
稲見 見える、もしくは感じられることが、実は応援する価値を増やすだろうなと考えたことがあります。この取り組みにフェンシングの方々に協力いただけたりとか、オリンピックのときにARでの可視化に熱心に取り組んでいらっしゃったのは、ある意味フェンシングが高度になりすぎて、みんなに見えなくなってしまった、どこをどう応援したらいいかも分からなくなったことに対する危機感なんじゃないかなと思うんです。それがアルファベットフェンシングみたいな形で、技の見方をきちんと学ぶことができれば、またファンも増えていくんだろうなと。
スポーツに機械計測が入ると大抵ファンが少なくなる。そういう相関があるんじゃないかと疑っています。結局、自分自身で見ないと、もしくは感じないと、もしくは勝敗が分からないと、その場で応援する意味がなくなっちゃうわけですよね。
伊藤 どこかに自分たちが判定してる、目撃してるんだという意識がないと、応援ってできないですよね。協力してくださった多くの種目の選手たちも、やっぱりその辺の問題意識はものすごくあって。お客さんに、いかに感じられるようにするか。それがその種目の裾野を広げる上ですごく重要だし、その種目を自分でやってみる人を増やすことにもつながる。
私たちとしては、見えないスポーツ図鑑って教育にも使ってほしいなと思っていて。スポーツって、その種目の本当の面白さが分かるまでに結構時間がかかるんですよ。すごい頑張らなきゃいけない何年間かがあって。
それをやらなくても面白さがざっくりだけど分かるなら、最初の入り口として(適しているのではないか)。この種目、こういう感じだよって分かった上で頑張るのと、分からないで頑張るのでは全然違うと思うので。その意味でも、感じることによって応援とか、実際にその種目をやる人を増やしたいなっていうのはありますね。
だまされることの豊かさ
稲見 やはり未踏で1年前に、アマチュア野球のアンパイアの練習システムを作った人がいるんです。VRで練習して球種とかがよく分かるようにするんですが、(機械に判定させるのでなく人を訓練するところが)非常に面白い。メジャーリーグでは、機械判定しようと思えばすぐにでもできるらしいんです(がまだ導入されていない)。結果的に、機械判定を使わなくなった独立リーグもある。
なぜかというと、肯定・否定が分かれるんですけど、「フレーミング」というキャッチャーの技術があって、ボールをキャッチした瞬間、ミットの位置をちょっと動かすことでストライクに見せたりボールに見せたりできるんですね。それ自体、ある意味アートなんだと。その余地をなくしてしまうと、野球がつまらなくなってしまうし、機械判定でストライクとかボールとかを決めると、人が感じるストライクやボールとやっぱりずれるらしいんです。
やはりその感覚こそが、「これは入ったでしょう」「入ってないでしょう」という議論も含めて、応援する価値につながっている。目に見える・見えない、感じられる・感じられないというのはすごい大切で、単なる機械判定にしちゃうとかえってつまらなくなるのは示唆的でした。すみません、話がだいぶずれちゃいました。
伊藤 いえ。今日、私は最後に信頼の話をしたんですけど、結構だますほうが大事なんじゃないかなと思っているんですよね、実は。だまされる余地があることこそ、人間なんじゃないかなと思っていて。フレーミングでボールのものをストライクにできるって、はっきりいってだまされているんだけど、でも、それがあるからこそ豊かになっている出来事っていっぱいある気がして。
恋愛とかもそうじゃないですか。基本、人をだまして、いい気にさせて、自分のストーリーに乗っけていくみたいなのが恋愛だし。「一緒に共同プロジェクトをやりましょう」というときだって、「これ、やったらすごい面白いよ」とか、ある意味人をだまして乗せていくわけで。もし参加する前に、すごいデータで、「これに参加するとこれだけのメリットがあって、これだけのリスクがあって」って示されちゃったら、だまされるという出来事が起こらなくなって、それはすごいつまらないし、人間にとって一番大事な価値が失われていく。
信頼もある種のだましなんですけどね。「大丈夫だろう」と思わせるってことなので。そういう部分がすごく重要だって、本当におっしゃるとおりだと思います。
稲見 先生の次回作として、『だまされる身体』みたいな本が読みたくなってしまいます。
伊藤 (笑)そうですね。
稲見 でも、だますってどういうことなんでしょうね。もしくは、気持ちよいだまされ方ってありますよね。
伊藤 「やられた」っていうね。
稲見 手品も、みんな喜んで見るじゃないですか。ある意味、私の光学迷彩とかも人の目をだますための技術だし、VRだってまさにだます技術ですよね。でも、大抵だまされるとみんな喜ぶんですよね。分かっていてだまされると。もしくは、分からなかったとしても、ミステリーを読んでいるような感じで。予測と外れると情報になるからですかね。
伊藤 やっぱり自分の知らない世界に出たいというのがあるんじゃないですかね。こうだと思っていたストーリーじゃないところに連れていってほしいという。魔法みたいなものというか、欲望としてなのか。実は自分と違う理屈でできていたと分かったときに、必ずしもネガティブにならない理由って、何か想定外のところに連れていかれる面白さを感じるからじゃないですかね。
稲見 「レールに乗った人生」というのは、決してポジティブな意味では使われませんからね。
とはいえ、毎日ランダムなことが起きると、それはそれで駄目なので、円錐形に広がっていく未来のうちに、心地よい範囲ってきっとあるんでしょうね。音楽とかの心地よさにも、きっと予測と外れる面白さがあると思うんですが、その範囲が大体どのぐらいなのか。人によってどう違うのかも、興味深いですよね。
予想を裏切る信頼も
稲見 信頼についても、もうちょっと伺っていいですか。不確実性を自覚しつつも任せるのが信頼だという話があったんですけど、「Trusted Web」など情報分野においては、直接計測しなくても思っているように動作しているであろうことが、信頼の仮置きの定義だみたいな議論を聞いたことがありまして。先生がおっしゃっている不確実性も内包した信頼とは、ちょっと違うのかなとも思って、もう少し詳しくお伺いしたいなと。
なぜ信頼に興味を持ったかというと、身体を自分と思えるかどうかって、やっぱり信頼があるかないかで、信頼できなくなると他者になったり、リハビリが必要になったりするんですよね。自分の身体への信頼とは、どうやって紡がれるものなんでしょうか。
伊藤 そうですね。やっぱり時間的な概念かなと思うんですね。信頼がないと先回りで手を打ちますが、信頼があると、たぶんうまくいくだろうという前提で事が進むんですよね。結果として自分の思いどおりになるケースがほとんどで、結果がずれていたら信頼は起こらないかと。
例えば、体調の変化がものすごく大きいと、自分の身体を信頼できなくて、約束とかできないですよね。3日後にどこどこでご飯を食べましょうといっても、3日後の自分がダウンしているかもと思うと、約束なんてできないので。そういう時間的なパターンが読めるか読めないかが、自分に対しても他者に対しても、信頼に大きく影響すると思いますね。さっきの情報系の定義とも、両立しますかね。
稲見 そう思います。あとまた、結果が全部予測できるイコール信頼でもないのかな、とも思いました。例えばお任せのおすし屋さんって、自分が満足するだろうってことでは信頼しますが、どういうネタがどういう順番で出てくるのかまで予見どおりだと、むしろ失望につながりますよね。サプライズがあることも含めた信頼というのがあるのかなとも思いました。
伊藤 確かに。最初から想定外を期待して自覚的に任せるという、それこそオートマとマニュアルみたいな感じで。想定外になることを無意識的に任せているレベルの信頼もあるような気がしますね。
稲見 それこそプロジェクトをやって、あるメンバーを信頼して任せるのは、想定している結果を出してくださいというより、むしろ私が思い付かないことをやってくださいということですよね。実際それが出てきたときに、ああ、ありがたいな、やっぱり任せてよかったなと。
今回対談させていただいたのも、伊藤先生に対してものすごい信頼があるわけで。当初は予測してなかったいろんな話が、きっと出てくるだろうなと。まさにその予測どおりになったわけですけれども。
伊藤 予測から外れることが予測という関係ですね。
稲見 はい。予測と予定の違いかもしれませんね。予定どおりにならないことは予測できますからね。
触覚で世界を予測する
稲見 触覚(が扱う対象)はやはり、未来というより今ですよね。視覚の世界だと、前が未来(前方の状況を予測する)なので、予測ってある意味、すごい視覚的な考え方かなという気もするんです。触覚だけで予測って難しいですよね。
伊藤 視覚障害者が一部分を触って、例えば盲導犬のしっぽだけを触って頭の位置が大体分かる、みたいなことは結構いいますけど、それは時間的な予測というより空間的な。
稲見 空間的な予測ですよね。人間は前に進む動物で、しかも目が前に付いているので、たぶん時間的な未来とは、すごい視覚的な話なのかなと。車を運転しているときも前に車がいると楽なのは、自分の未来が前の車だからですよね。センシングもみんな前の車がやってくれるし。
その逆が、先生が本に書かれていた、目の不自由な方が海鮮丼が怖い、苦手みたいなことかと。きっと、にぎりずしで「これはハマチです」といわれたらおいしいんですよね。けれども、口に入れるまで何も予測できないから海鮮丼にドキドキしちゃう。触覚は空間の予測と思うと、ちょっと新しい視点の気がします。
伊藤 そうですね。例えば坂道とかだと、ある程度時間が空間化されて、触覚でも予測できるかもしれないですけど……。
稲見 最初にお話しした、大岡山の山たるものは時空の外挿といった方が適切かもしれませんが、ある意味空間的な予測なんでしょうね。
伊藤 そうですね。私、今、バーチャルサイクリングシステムの「Zwift」にすごい興味を持っていて。バーチャルで踏み台昇降の負荷をかけると坂を上り下りする感じになるってお話がありましたけど、あれとすごく似てますよね。Zwiftでもバーチャル空間で坂道を上っているときには、負荷が高まって上ってる感がある。
さらに、何人かで走っていて自分の前に誰かほかの自転車がいると、その人が空気抵抗を下げてくれるから、ちょっと負荷が下がるらしいんですよね。それは、バーチャル空間の中で社会的な他者を触覚で感じるということで、どのぐらい感じられるのかに興味があって、実験してみたいなと思うんです。そこに予測の要素を入れて、前の人がどういう動きをするかも感じられたらすごく面白いですよね。
稲見 マラソンで、とにかく人類最高の記録を出そうというチャレンジがなされたことがあって。レーザーのラインで「このペースで走れ」といってくれる上に、たくさんのボランティアのランナーが入れ代わり立ち代わりしながら風よけと吸い込みの効果も出すことによって、人類の記録を達成できたという。ものすごいエンジニアリングっぽいイベントで、面白いなと思ったんですが。
あれとかだと、本当に(周囲の人を触覚で)感じるんでしょうね。一緒に走っている一体感もあれば、風を感じにくかったり、ちょっと引っ張られる感じがするとか。空気を通して周りの人に触れている感じってきっとあるんでしょうね。
伊藤 渡り鳥っぽいですね、何かね。
他者に引き出される多様性
稲見 ダイバーシティ、多様性の話についても、お伺いしたくて。自在化身体プロジェクトでも身体多様性みたいな話があって、人の形も、頭が付いて両手があって両脚があるみたいなことだけじゃなくて、いろんな形があっていいんじゃないかって、考えていたりしたんです。
先生は、多様性とは、いろんな人をそのまま放っておくことじゃなくて、自分の中にこそ、個人の中にこそ多様性があるといったことを書いていらっしゃった。その個人の中における多様性を、他者との関係性の中でどうつなげていけばよいとお考えですか。
伊藤 そうですね。今、多様性とすごくいわれますが、それが結局いろんな人の属性の固定化につながっちゃっているんですね。
例えば視覚障害者は、いつも視覚障害者として振る舞わなきゃいけない。もちろんそれは、いろんな人の知識が増えて関わり方を考えてくれるという意味でいいことなんです。でも、その人にとって視覚障害者って属性の一個でしかないのに、そこばっかり前面に出て、いつも演劇的に障害者役を演じさせられるみたいなことがすごく多くて。大事なのは、社会の中に様々な人がいてという意味のダイバーシティじゃなくて、一人に様々な顔があるという意味でのダイバーシティなんじゃないかって本に書いたんです。
人の属性って、最初からその人の中に備わっているものではなく、まさに人と関わりながら生成的に生まれてくるんだと思うんですね。今日の対談でも、最初に用意していた話じゃない話が展開されていて、やっぱり稲見さんに引き出してもらっているんだなと。
そういう引き出される感覚に対して、引き出されていい状況がすごく大事かなと思っていて。それは自分に対して引き出されることを許すという意味でもあるし、ほかの人が想定していたその人のキャラクターと違うものが出てきても、それを受け止めることだと思うんですね。ダイバーシティっていうと、すごく有限な顔の集合体みたいなイメージですが、そうじゃなくて、その場その場で変形していくみたいなことが重要だし、たぶん楽だと思うんですよね。生きていく上でも。
それを、いろんな設計の側面に落としていくとすると、さっきおっしゃられた、顔があって手が2本で脚が2本じゃない体を選択できるのも、1つの大事なポイントだと思うんですよね。その体になったことで引き出されるものって恐らくあると思うので。分身ロボットとかもそうですけど、体を変えると引き出されるものが変わる。
フォルダーからタグの関係へ
稲見 そういう意味で、私も最近ようやく、身体の変化による心の変化にも興味を持つようになっていまして。体の自在化だけではなくて、心の自在化も目指さなくちゃいけないかなと。その心自体にも、先ほどの個人の中の多様性ではないですが、ものすごいいろんな側面があって。やっぱり、相手がいるから。最近は、心というのは自分の中にあるんじゃなくて、相手と自分の間ぐらいにあるのかもしれないとも思っております。
稲見 昔はフォルダーの時代と申しましょうか、ファイルを整理するときにフォルダー構造にしていたように、個人をフォルダーに分けていたのが、これまでのダイバーシティ的な考え方で。今はどちらかというとタグの時代で、1つのファイルにも、例えばこれは論文でもあり、人文系であって、なおかつ誰々先生が書いたとか、いろんな側面があって、そのタグで検索できるように情報を整理する。そういう意味では、人間(の捉え方)もタグっぽくなってきたのかなと思ったりします。
なぜこの話をしたかというと、どんどん分離していくコミュニティをつなげるには、たくさんタグを持ってる個人が(間を取り持つ)ノードになるしかない気がしていて。情報化によって、エコーチェンバーとかフィルターバブルみたいなものがますます進む中で、その(コミュニティをまとめる)機能を最大化するにはどうすればいいんだろうと、ふわっと考えてまして。その中のキーワードに、きっと信頼とかも入ってくると思うんです。
伊藤 あと、本人が気付いてないタグも大事かなと思うんですよね。やっぱり、さっきの伴走がうまくいくのも、「伝える」じゃなくて「伝わる」っていう、制御できないレベルでコミュニケーションをしているから。自分でタグは貼ってないというか、ほかの人が自分からいろいろ引き出していくみたいな。いわば自分が1つの畑やフィールドみたいなもので、そこから人が何を収穫してくるかがすごく違う。
自分でいろんな顔を持ってなきゃいけないって、結構つらいと思うんですよね。顔を使い分けなさい、みたいな話になって、逆にエコーチェンバー的なものを強化する可能性もあり得る。「常に最適化」みたいな。
そうじゃなくて、全然最適化されてないものから、人がいろんなものを収穫していくんだと、すごく楽ですよね。例えば 動物的な部分とか、人間の制御できていない部分。会話をしていると、言語は辛うじてコントロールできていても、体の動きとかってほとんど無意識にやっちゃっていて。でもそういうものから伝わるものってすごくあると思うし、そういう部分も受け止められる関係が楽だなと思いますね。
稲見 どうしてもエンジニア的に考えてしまうんですけど、そういう関係性をうまく促すとか、楽にさせてくれる研究を、していかなくちゃいけないんだろうなと。自分への宿題としては。
伊藤 (笑)どうやるのかは分かんない。
稲見 一方で、最先端って決してハイテクとは限らない。私が所属している先端研でバリアフリー分野の先生たちとお話しすると、ハイテクじゃなくて「アルテク」を使え、みたいなことをよくおっしゃるんです。
最先端のことを最新鋭と勘違いしている人が多いんですが、昔の技術を使っていても、もしくは昔から言われている話であっても、先端なものってたくさんあるんだろうなと思っています。(アルファベットフェンシングで使う)アルファベットを3Dプリンターで印刷するのか、100円ショップで買ってくるのだとしても、やはり最先端だと私は思いました。
伊藤 (笑)だといいんですけど。ありがとうございます。
稲見 そういう方向も含めて、設計自由度を増やしていくのはすごく大切です。私も超人スポーツをやっている一方で、ゆるスポーツについてもすごい勉強させてもらって、やっぱり両方大切なんだなと。
テクノロジストとしてはどうしても超人的な方に行ってしまいがちなんですが、今あるものにもう一回、光を当てると全く新しく見えるし、新しい体験もつくり得るということを、ゆるスポーツからたくさん学びました。今回、伊藤先生といろいろ対話させて頂き、今後、身体と心の問題を考えていく上でも、必要だったらハイテクを使えばいいし、そうじゃない手段も含めて考えていくことが大切との思いを新たにしました。本日はありがとうございました。
自在化身体セミナー スピーカー情報
ゲスト: 伊藤亜紗
東京工業大学 科学技術創成研究院
未来の人類研究センター センター長
リベラルアーツ研究教育院 教授
ホスト: 稲見 昌彦
東京大学先端科学技術研究センター
身体情報学分野 教授
(Photo: Daisuke Uriu)