見出し画像

稲刈りが終わった。農作業を「田舎の強み」として振り返る

我が家の稲刈りが終わった。

稲刈りは稲を刈った後が大変で、昔ながらに稲を天日干しする作業「はざ掛け」は、気力・体力共に根こそぎ持っていかれる。秋の一大行事だ。

我が家はいわゆる「農家」ではないものの、自分のところで食べる野菜・米などは作っており、土地だけは管理しきれないほどある。先祖代々の土地は手放すわけにもいかず、土地の運用については少子高齢化著しいこの地域の喫緊の課題にもなっている。

毎年「やらねばならないもの」として取り組んできた田畑などの農作業も、少しずつ僕の中でその意味に関して変化が起きている。

米も野菜も買えばいい

僕はこの農作業が大嫌いだった。

特に中高と多感な時期には、手は汚れ、丸一日予定が潰れる田植え・稲刈りのような行事は本当に苦痛だった。友達にも「ごめん、その日稲刈りで行けない」なんて言えやしない。ピチピチのギャルだったからね(笑)

 米も野菜も買えばいいのに

ずっとそう思ってた。別にお金が無くて自作しているわけでもなく、先祖の土地があり、ただ "荒らしておけないから" という理由で、家族の一日や僕らの自尊心が失われる「家族総出の農作業」というものに少なくない反感を覚えてた。

ようするにその作業をダサイと思ってたんだな。

今でもイケてるぅ!!とは思わないけど、ダサさの中に意味や喜び、爽快感などを深く感じるようになってる。自分の子供が農作業に関わるようになってからは尚のこと。

田舎の強みとしての農作業-絆

機械化が進む昭和中期くらいまでは「稲刈り休み」と称した学校休日が5~10日ほどあったんだとか。”田植え休み”があった、という記述・証言もあり、稲作に関してはまさに学校公認の年中行事だったようだ。農業が盛んな田舎あるあるのひとつ。

家族総出というのがひとつのキーワード。

稲作は、とにかく人数をかけなければしんどい作業が山のようにある。「米」の字の由来の通り、米作りは八十八手間かかる。現代においてはずいぶん機械化が進み、それこそ稲刈りなどは大型のコンバインで刈ったその場から乾燥し、天日干しする手間すら無くすことが可能になっている。

少人数でもできるほど機械化・合理化が進んだ稲作も、あえて手間をかけて家族総出で取り組む意味とは何だろう。

僕が考える家族作業の意味のひとつは「絆」だ。一家で同じ目的の為に時間・力を合わせて協力する。(昔はご近所さんの手も借りあったらしい)

家族という言葉の意味が薄まっている気がする現代に置いて、一家でひとつの目的に相対す瞬間と言うのはものすごく貴重なのではないかと思う。

僕も3歳・5歳の子どもを田んぼに連れていくが、子供たちはそうやって大変で苦しい作業をする親の背中を見て、自分がカヤの外ではなく、実に家族の一員であると実感していくんだろうと思う。

絆・・・という感覚は、まだ子供たちには早く、田んぼでは泥団子を作ってじーちゃんにぶつけてるくらいだけど、、、自分もそうやって田んぼで遊んだ頃を思うと、受け継がれていく絆の一端がありありと目に見えた気がした。長年見いだせなかった、家族で泥だらけになることの意味が、スッと肚落ちした瞬間だ。

田舎の強みとしての農作業-体験

僕が感じる農作業に関わることの強みはもう一つある。

それは、米や野菜が作られていく一瞬一瞬を肌で感じていく。つまり「知っている」というレベルを超えて、実体験していることに大きな意味があると思っている。

子供のうちから、

・田んぼの泥の温かさ
・田んぼの生き物(人間以外)の生態系の存在
・生産物ができるまでの苦労

などを体験しておくと、多角的な視点・視野・視座が持てるんじゃないかな。親の手伝いをよくした子供は社会に出ても「気が利く・気が付く」といわれるしね。

こういった学びが日々にあることは、ハッキリ言ってダサいを超越して「豊かさ」だと思う。親である僕たちは、これが豊かさだということを言葉にしてちゃんと伝えなければいけないと思う。

僕は親には教わることが出来なかったけど、今気づくことができている。僕らの田舎の生活の中にある価値や強みに。

子供のころから「今(田舎)の生活には価値がある」ということを意識できると、無駄に「田舎のレッテル」に傷つく必要は無いし、高い自尊心を保てると思う。すごくすごく大事な事だ。僕はそこにコンプレックスがあったから。(参照:「あんなに嫌いだった地元を、なぜ残したいと思うようになったのか」)

この村に生きる僕らが価値に気付くこと

僕はこの村を出て、好きに生きてきた過去があるからこそ、地元で綿々と受け継がれてきた生活習慣の価値に気付けたのかもしれない。

ずっとこの村で何年も何十年も同じ暮らしをしてきた人たちには、「今の生活に大きな価値がある」「この村は豊かだ」と説いても響かないだろう。

ただ、そういう風土を子供たちに伝搬してはいけないと思う。だって、価値あるものに価値を感じられないというのは、感謝も誇りも持てなくなるから。

この村に生きる僕らが、今持っている価値に気付き、それを誇りに生きて行けるのが理想だよなぁ。そんな村って、外からも魅力的に見えるでしょきっと。

まさに僕が考える「田舎ブランディング」の理想だ。

画像1

稲刈り機で等間隔に倒された稲を見るのは爽快^^
休憩中に田んぼで食べる梨の美味さも、豊かさなんだなー。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?