葬るということは、エントロピーの祝祭なのかもしれない。4度目の生前葬を終えて。
4度目の生前葬、初個展「葬像展」を終えて早1週間。
初回は自己暗示。2回目は葬儀。3回目はちょっと言えない。
4回目に至るまでの動機は下記のnoteに書いた。
4度目の生前葬を通して一体何が変わったのだろう。何が分かったのだろう。6月6日から今日までの日々は破けた粉袋から小麦粉が流れ落ちるように自然に過ぎていったから、ここで振り返って見つめてみようと思う。
終わったあと「生まれ変わったような気分?」って聞かれた。そんなことはなかった。確かに1週間前の自分の延長線上に自分がいる気がする。このような繋ぎ目の自然さ、統合の強度が”意識”の力なのだろうと思う。
生きているうちに生まれ変わるような出来事を経験する人もいるだろう。しかしその自覚のエビデンスは記憶であり、感覚であり、それらを携えたまま生まれ変わったのであれば、それは本当に生まれ変わっているのだろうか。なんて屁理屈かもしれないけど、少なくとも自分は今小学生の頃のクラスメイトの顔も、校舎の風景も、お世話になってきた人たちの名前も思い出せている。
今回個展という形で、自分の葬儀の空想をいくつかの作品を制作することで表現してみた。これまではフェスティバルという形で作品制作をすることが多く、どうしても自分の手の届かないクリエイティブの範囲も生まれる以上、クリエイターへの信頼を持って自ずと現れる形をアレンジしながら、1つの作品として象ってきたわけだけど
個展は許すも自分、許さぬも自分、自分の手の届く範囲でどこまでもストイックに創造できる営みだった。それが生前葬という1つの決着として、いいプロセスだったなぁと思う。
「決着」と書いた。しかし他にもいくつか候補となり得る言葉がある。「卒業」「フィナーレ」「完成」「別れ」「終活」などなど。人には人の生前葬があって、それぞれに適切な単語があるはずだ。
それでも自分の場合、やっぱり決着がしっくりくる。
生前葬を行うことで毎回それなりの発見はありつつも、この行いによって劇的に何かが変わるということはなく、むしろすでに変わってしまった人生のこれまでに決着をつける意味合いや、1つの通過儀礼として執り行っているような気がする。小説の章が変わる際に1頁まるまるつかって「第3章」みたいに書いたりするけど、あのような余白の役割に近い。
いつだって身体は思考より先にあると思う。
変わろうとする前に大体変わっているのだ。
時代も同じで、誰かが何とかの時代なんて名付ける前に、既に変わっている。自ずと地球は回っているし、月によって海は満ちて引く。
その日なにかを葬った。
何を葬ったのだろう。なにに対して取り返しのつかないことをしてしまったのだろう。真の別れは、記憶の欠片すら存在を許さない。忘却の海に沈んだ何かは今頃水圧で粉々になっているか、深海魚に食べられているか、はたまた。確かなのは、それでもそれを成していた粒子たちは今もここにあるということ。
エントロピーが増大していく不可逆な川の流れの中の水として、水素として、あるいは水草や岩、大気として、人として。
葬るということは、エントロピーの祝祭なのかもしれない。
砕け散った身体の複雑さを祝うことができれば、この世はいつでもハッピー縁土だ。
次章。それでも物語が続くなら、日々昨日よりもっと優しく、日々昨日よりもっとユーモラスに、日々昨日よりもっと味わい深く、みんなで豊かに生活を営んでいきたいなぁと思います。
(つづく)
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あと、制作した雨宮曼荼羅(この世の理を曼荼羅化)をプリントしたグッズも作ったよ。
(上は大人用Tシャツ。下は赤ちゃん用)
《購入はこちらから》suzuri.jp/amemi_c5
葬像展 https://www.yuu-amemiya.com/%E8%91%AC%E5%83%8F%E5%B1%95