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〜ひとり〜『藍色の福音』

導かれるように若松英輔さんの本を読む。
昨年 秋から少しずつ手にとり読んでいた
『藍色の福音』。

『藍色の福音』(講談社)

若松さんの文章を読む時は急ぎたくない。
そうしようと心がけているのではなく、自然とそうなっている。
若松さんの綴る本は決して難解でなく、むしろ私のような者にとって、とても読みやすい文章だ。だからこそ、一行一行を、そしてその行間を、大切にしたい。

いつの間にか、読むペースは一章ずつ。
詩も一編ずつ。
ゆっくりゆっくり、自分に沁み渡らせる読み方になっている。
そんな風にして、若松さんの本としてはいちばん長い時間をかけて、先日『藍色の福音』さいごのページを読み終え、本を閉じた。

それぞれの章ごとに、読んでいる時の自分に響きあう(現在、過去、いろいろと思い当たる)状況があった。
意味を深めている手応えがあった。
「早く続きを読みたい」と欲してるのに、なぜか本から「待て」と言われているような感覚の時期もあった。
終盤の13章からは、私自身、もっとも孤独な心境の中で読み進めていた。このとき「待て」と言われていた理由に気づいた。孤立感や疎外感に襲われ、打ちのめされているこの時を予言していたかのように、若松さんの本だけが寄り添い、手を差し伸べてくれていたのだ。
はっとした。
押し黙る涙が、雪解けの涙に変わった。

 * * * * * * * * *

若松さんのことはETV「100分de名著」という番組で知っていたが、著書を読むようになったのはコロナ禍を機に、だった。

私はある時から読書に関して長く悩みを抱えていた。パンデミック禍、独りで過ごす時間に危機感がつのり、身体的にも心理的にも自分を見つめ直す必要性に迫られていた。
なのでまず
・『本を読めなくなった人のための読書論』
を手にとった。救われた。
もう駄目かもしれないと諦めかけていた気持ちに小さな光が灯った。

『本を読めなくなった人のための読書論』
(亜紀書房)

・『光であることば』

(『藍色の福音』を読みながら)

・『ひとりだと感じたときあなたは探していた言葉に出会う』

そして
・詩集『ことばのきせき』
をゆっくり読んだ。

『光であることば』(小学館)
『ひとりだと感じたとき あなたは探していた言葉に出会う』
(亜紀書房)


詩集『ことばのきせき』は、『藍色の福音』を読み終えたあと、もう一度手にとった。「ああ…そうか…」。
より素直に、まっすぐ心へ入ってきた。
詩集は苦しいときの処方箋として、いつでも取り出せるよう置いてある。

詩集『ことばのきせき』(亜紀書房)

『藍色の福音』に書かれている書物や思想家の言葉は、私の知らないことばかりだけれど、それらを真摯に綴る若松さんの言葉は知識を飛び超え、まさに『ひとりだと感じたとき〜』の指し示すごとく、私が“孤独だったからこそ”探していたものに出会ったとしか思えない、そんな感覚を何度ももたらした。


不思議だな…と思うのは、私が幼い頃から持っていた感覚や大切にしている経験に近いことが若松さんの本に現れることである。

(それは読書や教養以前のことである。読書論を目的に読み始めたはずなのに。)

たとえば東山魁夷の絵との出逢いや、民藝・柳宗悦に惹かれるところ。大原美術館への想い。なぜか惹かれるユング、シュタイナー。仏道へ導かれる静けさ。詩の在るところ。大好きな宮沢賢治への感応。言葉への畏怖。
そして「沈黙」に霊性を感じる真剣さ。


《私(imo)は早くから特定の宗教には属さないことを選択したけれど、幼い時から「生かされている」という感覚はある。
そして昔から私の中には小さな聖堂があり、祈るときは必ずそこで、そっと静かに、ひとりで宇宙に身を委ねている。
信仰と言うには拙いかもしれないけれど、この先ずっとそうして生きていくと思う。島とともに。そんな私を若松英輔さんの本は肯定してくれてるように感じる。》

愛する人を亡くしたときの感覚。
その後、死者と共に生きている感覚。

若松さんが「藍色」と表すとき、その深淵が響いてくる。

そんな風に、暮らしの中で「“たましい”とは何か」を忘れない姿勢が、とても親しみを覚えるのである。


思えば私は、物心つくかつかない頃から、どこかしら「かなしみ」を抱いてきた。
沖縄では「愛」のことを「かなさ」という。それを知ったとき、その響きに幼いながら納得したことを憶えている。

若松さんの本に何度も出てくる「かなしみ」。
「“愛しみ”とも書く」と、著書で初めて触れた時、眠っていたものが風に起こされたような気持ちになった。
その時から、若松さんのメッセージに対し信頼が培われていった。


出版記念のオンライン・イベントにも時々参加してみるようになり、若松さんの多層な視点に深く考えさせられる。

緊張したけれど匿名で質問もさせていただいた。どのイベントでも不思議と返ってくるお話は一貫していて、
「あなたがどう感じるか」
「絶句するものか何か」
「あなたは唯一無二の存在」
「詩を書いてみてほしい」
(万人に一冊の詩集が眠っている)
「何よりあなたのために詩を」
「永遠に向かって」
というテーマに落ち着く。

私にできるか全く自信がないけれど。
でもどんなに拙くても、一生懸命ことばのしっぽをつかまえて、(わからないなら訪れを待ってみて)、私なりに少しずつ「私のからだのなかを通った言葉」を大切に綴っていけたら…と思う。

孤独だからこそ。


これからも折にふれて若松さんの本を読んでいくと思う。
私の中で気になっているのは…

・詩集『見えない涙』(亜紀書房)
・『詩と出会う 詩と生きる』(NHK出版)
・『常世の花 石牟礼道子』(亜紀書房)
・『悲しみの秘儀』(文庫版・文藝春秋)
・『読み終わらない本』(KADOKAWA)

などなど。。

ラジオで若松さんが紹介してくださった
・詩集『いのちの芽』
(大江満雄 編/国立ハンセン病院資料館)
も取り寄せ、いま読んでいる。

心が震える。


コロナ禍のリハビリ中、私がだんだんと活字を読めるようになってきたのは絵本、そして詩だった。
茨木のり子さん、石垣りんさん、金子みすゞさん、etc…
やはり女性たちの言葉が多かった。
たましいがこちらへまっすぐやってくる。

そんな風に回復を目指す日々をおくる中で、若松さんの詩に対する思いを知れたのは幸いだった。

この時を待っていたかのような本と出会う。
そしてその本が、つぎの本を呼ぶ。

長くかかってしまったけれど、私はこれで良かったのだと思う。
昔、お世話になった方から言われた
「大丈夫、本はあなたを待っていてくれる」という言葉は本当だった。


今も正直、苦しいことに囲まれている。もっと気軽に傷つきや怒りを吐き出したり、「しんどい」と言えればどんなに楽だろう。。(かなしいかな私はそういう意思表示が下手だ)

人は言葉によって傷つけられ、また救われるのも言葉だ。そのことをずっと悩み、考えてきた。かなしみや理不尽を言語化できない自分をずっと責めてきた。

でも若松さんの本には、心の奥にある「『言い得ない言葉』にこそ光がある」と何度も書いてある。
どれだけ救われたかわからない。
私の人生はこの先、光を見失わずに歩み続けられるのだろうか。

『藍色の福音』の終章、若松さんが“遺された者”の悲しみだけでなく、「逝く者の悲しみ」に触れたとき、あの時 流せなかった涙が溢れた。ふだんはとても涙もろいのに。
ある条件の前に私は肝心な時に我慢してしまう傾向がある。そんな自分を冷たいと思い込んでいた。
でも私は、見えない涙をずっと流し続けていたのだ。それに気づかせてくれた。

「たましい」は自分が思っているよりずっと深く温かい。そしてあらゆるものとつながっている。生きている。
そのことを忘れないために、これからも若松英輔さんの本と旅を続けようと思う。

🌿imo




(追記)
その後、こちらも読み直しています‥
📗『別冊 NHK 100分de名著・読書の学校・特別授業
(茨木のり子)「自分の感受性くらい」』
🌿茨木のり子さん遺稿「歳月」(大好きな詩です!)について若松さんが生徒さんに語られる終盤。
『藍色の福音』を読んだあとは、一層、胸に響きます…🕊️

別冊 NHK 100分de名著
読書の学校 若松英輔 特別授業
『自分の感受性くらい』
(NHK出版)

(2024.2.3.Sat.)

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