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自分を大事にしないことが求められていた2020年までの風景

「自分を大事にすると悪いことがある。だから集中セルフケアが必要なうつ病は、治したいけど治すのコワイ」

うつヌケハック担当者日野は読書家の本気を出して、この謎の解明を行うために人類2000年の旅に出ました。


株式会社イメジン、ブランディング担当ライターの日野成美です。

死にいたる絶望の患部をグリグリえぐった前回の記事はこちら💁‍♀️

前回の記事で瀕死になってる人もいるような気がして今日はフォロー回!

自分をいじめるのにも理由があるんですよねっていう回です。


今回、史学専攻(※通信制大学中途退学)年間読書量300冊超の本気を出して、社会的な方面から「自分を大事にすること=悪」の世界観に迫ります。

……うん、歴史。社会。

うつ病って個人的な課題としてとらえられていました。でもかつての自分を振り返っていて、重い暗い影がさしたのです。


本当に個人的な問題なのか?

私たちは社会からどんなメッセージを受け取って生きてきたのか?


今日は社会と過去と未来のおはなしです。

自分を大事にしないことは、個人の幸福だった

「自分を大事にしないことで、なにを得られたのか?」


私はうつヌケハックを書くにあたって、真剣に過去の自分をアーカイブ(ほぼ前世感覚)から召喚して事情聴取を行います。

自分もつらくて他人もいやん。あんな地獄のなかで幸せだったはずが


……いや、

意外としあわせだったんですよね。

起きた瞬間死にたいとか、起きてなにもできないの怖いから寝たくないとか地獄のような日々でしたが、幸福感はありました。


幸福とはなにか?

いろいろな定義がありますが、幸福は多くの場合「安心」と呼びかえられるかもしれません。


自分をいじめて安心する感覚、あなたにもありませんか?


私はあった!!!「自分はダメ人間だからちゃんと痛めつけて死ぬところまでいかないと申し訳ない」くらいに思ってた!だれも得しない!

でもセルフネグレクト感覚で突っ走ってた17年間、つらくて痛くて気持ち悪いと、謎の安心感がありました。

たとえ地獄のような環境でも、小さな幸せを見つけて人は発狂せず生きていくことができます。

アウシュビッツ収容所を生き抜いた「夜と霧」のフランクル先生が証明しているから確かです。


なぜか自分をいじめて安心してたのだろう?

私たちは子どもの時から、他人の都合に合わせて生きてきた

「他人の顔色をうかがって生きる子ども。」

「役割を果たせない自分は、いてはいけないと思う。」

「迷惑かけるくらいなら、死んだほうがマシ」


それ自分!

と当うつヌケハックの読者ならなると思います。


なぜそうなったのか?


私はうつ病・精神疾患業界に身を浸して31年。

この業界では「親子関係」に安心感がない人が大多数を占めます。

毒親とまではいかなくても、安定した生育環境を保持できずに人生最初の10年あまりを過ごしてしまった人が大人になって、あるいは大人になる途中で、なにかのトリガーがきっかけとなり抑うつ状態を発症する。


そもそも日本の学校教育はどう頑張っても人権軽視の傾向にあります。

自分の体調や苦痛よりも授業カリキュラム参加が最優先。

現場の先生たちも頑張ってくれてると思うんですけど、私にはどうしても「自分の意思を押し殺して、他人に合わせること」を経験する場所として学校が設置されているように思えてしまいます。


なぜそうなったのか?

将来の労働力を鍛えるための学校が「自分より他人」優先の場所になっているのには、何か理由があったはずです。



……いや待てよ。

私、いままで他人から言われたことないんですよ、「自分を大事にするといいことがある」って。

自己犠牲はすばらしいことだと考えて生きてきたんですよね。

自分を大切にすることは卑しい考えで、全体のためにならないっていう考えでいたんですけどあれっ。


もしかして、個人が幸せに生きることって、社会から求められてなかった?

人間が自分の苦痛よりも他者を優先させていたのは「時代のせい」

イマジン、想像してごらん!

1年前まで、メンバーシップ雇用が普通だった!

50年前まで、会社のために家族を不幸にさせるのは常識だった!

100年前まで、家や国、所属集団のために死ぬのは当たり前だった!



せや!ジョブ型とか言われるようになったのここ1年くらいです。勤務形態の多様性とか受容されたのもここ1年くらいです。タスクより体調管理を優先するようになったのも去年から。コロナ禍やべえ。

メンバーシップ型雇用は学校の延長のような世界観で、個人の時間を企業に売却する形で成り立っていました。時間を費やした量だけ事業が拡大するという考え方で運用されていたと私は考えています。えーっとね何が言いたいかっていうと。


合ってたんです。

自分を犠牲にして他人のために尽くすスタイルは、1年前までなら合っていた。

長時間労働や滅私奉公も、それが合っていた時代があった。


古くは江戸時代、ひょっとすると平安以前から。

コミュニティのために命を捨てるのは当たり前、潔い死が賛美されていたのはこの国では神話の頃からです。

外国でもコミュニティのための死や自殺、処刑は美談として語り継がれています。そもそも世界三大宗教のうちの1つが、徹底した自己犠牲を讃えて形成されたキリスト教。

「国・家のために命を捨てる」のが「見事」とされていた時代にはそれでよかった。私もそのような命のあり方は立派だったと思っています。


そう、これまで2000年以上のながきにわたり、「自分より親」「自分より子ども」「自分より会社」「自分より他人」を優先して褒められる時代だったんです。

新型コロナウィルスで世界の風景が変わる、去年までは。

自分の命は思っている以上に軽かった。個々が感じている幸福や不幸はぜんぶどうでもよくて、集団の利益になるか否かで命が測られていた時代が、とってもとっても長かった。

個人を殺すことが集団の利益につながる場合、自己犠牲は美徳を通りこして常識でした。


親は子どものために結婚生活をたえしのぶ。パートナーがクソだと思ってても離婚しない。お金のために、社会生活のために。

父親は仕事のために家庭生活の充足感を捨てる。仕事の楽しさだって求めない。やめることは許されず、馬車馬のように働いてお金を稼ぐしかない。

母親は家事労働のために社会参画をあきらめる。まだできないことが多い子どもはかわいいけど怒鳴り散らしてしまう。やりたいことをお金がないからとガマンして、ガマンガマンガマン。


「どんなに嫌でもガマンしてれば生きていける。満足したらみんなの気を悪くするから申し訳ない」


それでよかった時代があった。


安泰のためにはガマンしてればいいっていう簡単な時代は終わってしまったと、私は考えています。

コロナ禍によって約20年分進んだと言われるDX、デジタルトランスフォーメーションのおかげで。

DXが可能な現代で、ヒトが自己犠牲する必要性は限りなく存在しない

DX。

デジタルトランスフォーメーションと読みます。NewsPicksやテストに出るのでぜひ覚えてください。デラックスもあってるけど違うのよ。


デジタルテクノロジーの発展により生活・労働が変革する一連の動きを示すワード、それがDX。

弊社もDX推進のBtoB営業支援「カイタク」スクラム開発「UNIT」をはじめとして、法人運営をサポートする事業を日々行わせていただいています。




宣伝も済んだのであらためまして。

なぜ、自分をいじめる・セルフネグレクト型の思想が蔓延していたのか?


1つめには、技術が未発達だったゆえに人間に余裕がなかったからです。

掃除はルンバがやってくれないってか数年前までルンバがそもそもないし、食器洗いも食洗機がなかった。洗濯は桶と洗い板だし、井戸まで行かなきゃならなかった。腐っちゃうから買い出しも毎日のように。冷蔵庫が生まれるまでは。

だれかが人生を犠牲にしないと、生活が回らなかった。それが20世紀までの風景でした。

テクノロジーで実生活の多くの作業をカバーできるようになった現代で生まれたのは、時間です。

お母さんは掃除機に30分も費やす必要がなくなったし、買い物行かなくてもネットスーパーやAmazonが届けてくれる。

そうして浮いた時間で、好きなことをできる。好きな人生を送れる。

デジタルの真のすごいところって、そういうことです。


2つ目は、人間関係の選択肢が極端に少なかったから。

SNSがなかった時代の行動範囲は、せいぜい数km〜数十km圏内。

家か学校か職場か。そこに気に入られないとリアルに生きていけないし、スムーズな社会生活が営めない。

そう、生殺与奪の権をにぎっていたのは「他人が自分をどう思うか」「集団の役に自分は立てるか」。

これで「自分はどうでもいい、みんなが良ければ」という思想が根付くのは合理性があることです。

そんな時代がつい20年くらい前までは普通だったんです。

若い子ちゃんたち、ゾッとするじゃろ?私もだ。


3つ目ですが、とにかく入手できる情報の量も質もとぼしかった。

YouTubeできたのなんかわずか16年前、2005年です。それまでメディアといえば、テレビか新聞かラジオしかなかった。

発信の中に多様性が生まれたのは、せいぜいここ10〜20年のこと。

本屋に行っても本がなかったり、図書館に行ったら「他館にならありますが取り寄せに3ヶ月かかる見込みで…」とか言われちゃったり、住んでいる地域によって情報格差も劇的でした。

私はうつ病発症で高校行けなかったんですけど、勉強しようと思ったのに教科書が書店で手に入らなくて泣きましたからね。Amazonでいま普通に売ってるね。

あと私が小学生の頃は「写真なんかHPに上げてるんじゃねーーよ!!読み込みに30分確定だろーが!!!」ってキレてましたからね。Windows98で回線ADSLだった頃の情報伝達量…ッ。

動画コンテンツも画像も存分に使える最近の情報インフラは、まさに奇跡です。

情報源がテレビしかなかったような時代、個人の声は今よりずっとずっと遠慮がちでした。

ここまで状況が整うまでに、コンピュータ誕生から数十年の歳月を費やしました。

いま、個人の声には権利をこえて権力に等しいエネルギーが沿う時すらある。


自分を大事にしないことは、社会からのニーズでした。

自分を大事にするなんて大罪だった時代が2000年以上続いたんです。


でも今まではなにかしらの形で自分を殺さないと、社会が回っていけなかった。

だから去年までの自分が自分を殺してても当たり前だ。

社会が「自分をかえりみないこと」を、必要としてたから。


それが私の結論です。

うっわー!壮大だね!!

新時代の生き方にしないと、生きていけなくなる危惧

今までは自分を大事にしなくてもよかった。

それが時代にあっていたからです。

2020年まではギリギリ、時代の流れとして「個人の幸せより集団の幸福、幸福のためには苦しまなきゃならない」という世界で生きていけた。


「みんな自分のこと大事にしないことで、いろんなことをガマンしていることで認められる。
自分もこれでみんなと、おんなじだ。」

自分を大事にしないのは、その安心感もあったと思うのです。


それが悪かったとは言いません。

でも今後、生き方を変えなければならないと思います。


人の負担をテクノロジーで変革するDX時代に、このセルフネグレクト型のライフスタイルは古くなる。

「自分を捨てる」ことは、集団を活かすための機能として有効化しなくなります。


時代が、変わっていく。

人のあり方が、激変する。

良い方向に。


どうやって?

記事が長すぎる感が否めないね!続きは次の啓蒙の金曜日にて。

さんざん引っ張って別記事にするとかないようにするよ、約束する!金曜日までしばし生き延びてください💖

次回「緊急特集📢梅雨だよ!だるいね!夏に向けてあらためて鍼灸・ヨガ・養命酒のすすめ」
次次回「自分を大事にする新時代の風景ってどんなよ」
お楽しみに!

うつヌケハック質問箱はこちら💁‍♂️

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