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エロくてゲスの極み。悲しいほど美しい 『雪国』

小説『雪国』はね、昭和の匠が作った最高のジャンクフードだと思うんですよ。この記事は『雪国』がいかにエロく、ゲスく、美しいかについて語っただけの記事です。


この季節、ただ雪見をするために雪国を訪れ、宿に長期滞在するのが何よりの楽しみ。今年は暖冬のようでしたが、一晩明けると周囲は一面の雪景色でした。

何をするでもなく雪の宿にこもり、小説『雪国』を読む。それが恒例行事となり、1年の節目にもなっています。

『雪国』をはじめて読んだのは高校生のとき。国語の問題集で出題されたのが初対面でした。日本語の美しさと「日本を代表する小説家の純愛小説」というふれ込みに惹かれ、いつか読めるようになりたいという小さな憧れを持ちました。

名作と言われていますが、『雪国』を高校生が初読で面白がるのはかなり難しいと思います。
まず関係性や立場が分かりづらい。そして、何を「いたして」いるのかも分かりづらい。「接吻」みたいな直接的な行為は描かれておらず、気が付いたら朝になっているなど、やたら「匂わせ」「ほのめかし」が多い

うぶな高校生に国語の問題文として出題するには、無理があると今では思います。ですが、毎年読み返していると、なんとも言えない味わいに気づきます。以下では、私が感じた味わいをお伝えしたいと思います。

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越後湯沢の街、川端康成さんが逗留した宿「高半」より

とにかく、どエロい

大人になって再読し驚いたのは「なんてエロい小説なんだ」ということ。けしからん。たとえば、高校生の時に読んだ時は分からなかった、こんな描写。

結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、(中略)
この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていた

はい、ド変態。主人公・島村ったら、この話を相手の女性と再会したあと、わざわざ披露するんですよ。「指見てたら君のことを思い出したんだよね」って。どんなプレイでしょう。

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主人公・島村が「ゲスの極み」

『雪国』? よう知らんけど「純愛小説」なんでしょ?…くらいのイメージで読み始めると面食らいます。主人公・島村のあまりの「ゲスの極み」っぷりに。

作者は冒頭で気合を入れて、ひとりの女性を美しく描きます。(この描写は神業)そこで描かれた葉子というこの女性が、純愛の相手かと思いきや、実は電車で乗り合わせただけの初対面の女性。

その後、ようやくヒロイン・駒子が登場。どんな恋愛が始まるのかと思ったら明かされる「主人公には東京に妻がいる」という事実。100歩ゆずって、その駒子と「禁断の愛」を育んでいくのかと期待したら、主人公・島村は電車で乗り合わせた葉子が、どうにも忘れられないという体たらく。

どこが純愛や! 騙された!

そして、葉子と出会ったことを駒子に言わずにいると「なぜ言わなかったの?おかしな人」と指摘され、「島村は女のこういう鋭さを好まなかった」とひらきなおる。すがすがしいまでの自己中っぷりです。

あげく、三味線を弾く駒子を見ながら、
「ああ、この女はおれに惚れているのだとおもったが、それがまた情けなかった」
と自惚れながら自己嫌悪に陥る。紛うことなき「ゲスの極み」です。

作者の川端康成さんは、男主人公・島村のモデルについて「存在しない」というようなことを語ってるそうです。
この主人公のゲスさというのは、男の中にある狡さや弱さ・孤独みたいなものを具現化したような存在なのかもしれません。


それでも妖しく美しい 圧倒的な日本語5選

そんな「どエロ」×「 ゲス極」な物語にも関わらず、たまに無性に読み返したくなるのには理由があります。ときどき、目が覚めるくらい美しく妖しい一文に出会えるからなのです。

川端康成さんの筆力が特に発揮されるのは女性を描く時。下記は、私の中で強烈に印象に残っている忘れられない文章5選です。

まずは、電車で会った葉子についての描写。

悲しいほどの美しい声だった。高い響きのまま夜の雪から木魂して来そうだった。

あまりに美しいものにふれると、なぜか悲しくなることってありますよね。葉子といえばこれです。Wikipediaにも「葉子=哀しいほど美しい声の娘」と紹介されているくらいですから。
ただ、Wikipedia に一つ言いたいことがあるとすれば、原文は「哀しい」ではなく「悲しい」です。葉子の声は哀しいのではありません、悲しいのです。

「悲しいほどの美しい声」とは、どのような声なのだろう。その答えは永遠にわかりません、読者それぞれが自らの想像力で補うしかない。
これが川端節です。

どんどん行ってみましょう。
駒子が三味線を弾き始めたシーンです。

「こんな日は音がちがう。」と、雪の晴天を見上げて、駒子が言っただけのことはあった。空気がちがうのである。劇場の壁もなければ、聴衆もなければ、都会の塵埃もなければ、音はただ純粋な冬の朝に澄み通って、遠くの雪の山々まで真直ぐに響いていった。

ゲスの極み・島村が急に文学的・感傷的になります。しかし、悔しいながら強烈に興味をそそられます。どれほど空気が冷たく澄んだ朝なのだろう。そして、そんな張り詰めた空気に響く、駒子の三味線はどんな音だったのだろう・・・と。

続いては、ふだん明るい駒子が少し感情的になるシーンです。

「いやよ。そんなみじめな、いやよ。奥さんに見られてもいいような手紙なんか書かないわ。みじめだわ。気兼ねして嘘つくことないわ」
駒子は早口に叩きつけるような激しさだった。
(中略)
女の耳の凹凸もはっきり影をつくるほど月は明るかった。深く射しこんで畳が冷たく青むようであった。
駒子の唇は美しい蛭の輪のように滑らかであった。

蛭っ!!!

蛭を美しいと思ったことも、女性の唇が蛭に見えたこともなかった私はたじろぎました。ってか、この修羅場っぽいシチュエーション、唇の美しさに見惚れている場合でしょうか。こんな時にも「美しい蛭のようだなぁ」と妄想できるゲス極・島村のフェティシズムに、畏敬の念すら覚えました。

「清潔な美しさ」を持った駒子の情念・妖しさが、月明かりをバックにシルエットとして少しだけ垣間見えた、珠玉の一文だと思います。

こういう説明しすぎない、しかし強烈に印象を残す、モノクロ写真のような文章が作者の特徴のような気がします。

次は、「改行」の使い方に感動した一節。
駒子が練習した三味線を弾いているシーンです。

譜を見ながら新曲浦島を弾いてから、駒子は黙ってバチを糸の下に挟むと、体を崩した。
 急に色気がこぼれて来た。

この文章で私は始めて知りました。
色気って急に「こぼれる」ものなんだ、と。

何が起きたの? はだけたの? 何が見えたの? どこまで見えたの?疑問は尽きませんが、それ以上の描写は何もありません。

そして、主人公・島村はすました顔で
「君はここの芸者の三味線をきいただけで、誰だか皆分かるかね?」
など質問するのです。

そして最後。

個人的には、ここが『雪国』全編の中でもっとも美しいと思っています。
川端康成さんの嗜好と偏愛、才能のすべてが葉子を描くために注ぎ込まれた名文だと勝手に思っています。そう、その技を以って描かれているのは、駒子ではなく、葉子(!)なのです。

物語のはじめ、電車が有名な「あの長いトンネル」を抜けた直後のシーン。電車の中で前に座っていたのが悲しいほどに美しい声の女・葉子でした。主人公・島村は、窓に映る葉子を盗み見るように見惚れていたところ、外の景色と葉子の表情が重なります。

島村は見入っているうちに、鏡のあることをだんだん忘れてしまって、夕景色の流れのなかに娘が浮かんでいるように思われて来た。
 そういう時彼女の顔のなかにともし火がともったのだった。(中略)
冷たく遠い光であった。小さい瞳のまわりをぽうっと明るくしながら、つまり娘の眼と火とが重なった瞬間、彼女の目は夕闇の波間に浮かぶ、妖しく美しい夜光虫であった。

妖しく美しい夜光虫であった!
もう、ワケがわかりません。わかりませんが、このくだりを読んで以来、私は電車の窓に女性が映ると、このシーンをつい思い出してしまいます。

葉子の「悲しいほどに美しい声」のジャブでよろめいていた島村は、「夜光虫のような眼」に射抜かれ、葉子に「落ちた」んだろうなと思います。

そして、高校時代の問題集で出た「本文」がまさにこの一行で終わっていたのです。この問題集の出題者、絶対に葉子のファンです。無性に続きが気になった私は、その後、この小説の沼にハマっていくのでした。

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正直、ストーリーはそんなにドキドキワクワクするものでも、”気づき”が得られるものでもありません。「切なさ」をエンタメと消費したいのなら、もっとおすすめしたい作品はいくらでもあります。
(『とらドラ』とか『月がきれい』とか『風の盆恋歌』とか『錦繍』とか)

しかし、この小説には不思議な魅力があります。
それは、日本語の「余白」の豊かさにあるのではないでしょうか。

紹介した文章はいずれも、その美しさを正確・精緻に描写するわけではありません。しかし、どんな音だろか、どんな声だろうか、どんな質感だろうかと・・・そんな想像の余白を読者に残し、読み手の想像力でそれを埋めさせる。

人生経験を積み、自らの想像力を積むほどに、登場人物が一層美しく魅力的になっていく。

それが、『雪国』という小説なのだと私は思います。

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