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科学者ぶる私たち

「都合のいい時だけ科学者になる私たち」は、人間のある側面を見せてくれる鏡です。私たちは経験を何年も積み重ねることでできるようになり、理解がかなり遅れてやってくるような学びをしているとき、できないことに都合の良い言い訳をし、できない・分からない不快さから逃れようとします。

例えば、水に浮かないときに「物理学的に重いものは沈むのは当然です」と言うのは、都合良く科学を部分的に利用した、単なる逃げ道です。同様に「どうすればできるのか、分かりやすく教わっていないからできません」とか、「できない原因と解決方法が分からないからできません」と言うのも都合の良い言い訳に過ぎません。経験から学ぶものだから時間がかかると理解していると言いながらも、既存の学習方法や知識に固執し、科学的な言葉を盾にしているのです。

しかし、そういった方たちは面白いことに、できるようになったときには、何も言いません。たとえば椅子から立ちあがることから、ある事を学んでいるとします。

でもあなたは立ち上がることができましたよね?」と相手に尋ねても、

立ち上がったか分かりません」と答えることがあります。

でもあなたは今、立っていますよね?」とさらに尋ねても、信じられないかもしれませんが、

立っているか分かりません」と答えることがあります。もし科学的に論理的に考えることを貫くのであれば、できたときのことについても考えてみたほうが良いと思うので、

あなたはできなかった時には科学的な分析をしようとしたのだから、今できたことも同様に分析してみてください」とお願いすると、
先生は意地悪ですね」と答えることがあります。一体どういうことでしょうか?

これらは、自分が立ったと認識できる感覚があり、その感覚が得られなければ、立ったと実感できず、実感できない事は認めることができず、客観的に自分が立っていることすらも受け入れられなくなってしまうのでしょう。受け入れると、自分の感覚に対する判断が誤っていることを認めることになります。自分の感覚に対する判断が誤っていることを認めるということは、自分のその他の感覚に対する判断や、感覚に対する判断から作り出した考えすら総点検しなければならなくなり、自分の信じている自分らしさや自己同一性が揺らぎ、下手をすると生存に関わるからでしょう。生き残るためにあらゆる手段を講じ、その1つに科学を都合よく持ち出すということが起きているのでしょう。

この興味深い現象は、高学歴で因果律(エビデンス、論理性)を好む人々に特に顕著です。彼らは自分の学習方法と知識に絶大な信頼を置いており、自分の知っていることに寄せて理解しようとしたり、自分の得意な学び方に置き換えて学ぼうとしたり、科学的な考え方や言葉を巧みに使います。しかし、真の学びは単なる知識の蓄積ではなく、自己の学習方法と知識を横に置いて、新たに学ぶことです。私たちの感覚に対する判断は不確かで誤りを含むことが多いため、常に自己を疑い、客観的に物事を考える必要があります。

また、何でもかんでも「良い」「悪い」と判断してしまう人もいます。例えば、教える側は何かを知っていてできるため「良い」と見なし、生徒はできないため「悪い」と見なし、自分ができない事が苦しいから、できる・できないで判断しないでほしいと言われることがあります。しかし、赤ちゃんが言葉を話せないことは、ただの事実であり、それを「良い」または「悪い」と判断する必要はありません。物事を「良い」や「悪い」に分類し、自己を苦しめるのはなぜなのでしょうか。安心と安全を求めるあまり、自己の成長と変化や、できないありのままの自分を受けいることを拒否しているのかもしれません。

経験からしか学べないことに取り組んでいると、できない・理解できない・できていると感じない・正しい感じがしない、など様々な理由で、時には不快や不安、恐れを感じることがあります。その際、人々は安心と安全を求め、自分を包み込む「カプセル」に逃避します。カプセルに入り、感覚を遮断し、思考を停止させ、見たくないものを見ないようにし、感じたくないものを感じないようにします。その様は時に「ゾンビ」にも「お化け」にも見えます。学ぶことが目的ではなく、理解することやできるようになることを目的としている時も、カプセルに入っています。これまでの経験と学び方に固執している時もカプセルに入っています。残念なことに、日常生活でカプセルに入っている人も多くいます。海外に行き、日本に戻ってきて満員電車に乗ると、周りを見ていないうつろな目ばかりの光景を見て、びっくりした人も少なくないかと思います。このカプセルに囚われることは、生きることを放棄する可能性があることを理解する必要があります。安心と安全を求め、失敗を避けるあまり、新しい経験や考え方、ありのままの自分を受け入れることを拒否してしまうことがあります。その結果、自己の成長は停滞し、カプセルの外に出て、現実の人生を豊かに送ることが難しくなります。 

したがって、私たちはカプセルから出る勇気を持ち、現実の世界で生きていくことが重要です。そのためには、常に自分がカプセルから出ようとする意欲が必要ですなぜなら、カプセルからは自分でしか出られないからです。先生もカプセルから連れ出すことはできませんし、扉を開くことすらできません。しかし、先生がノックし続けて、カプセルの外があと気づくのを待つことはできます。私たちは安易な逃避や自己正当化を避ける姿勢を持ち、不快さえも受け入れることが必要です。このような姿勢を持ち続けるのは思っているよりも困難ですが(私も未だに立派なカプセルの住人であることが多いです)、持ち続けることは経験から学ぶことを可能にするでしょう。

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