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ダサい奴よりもダサい事を隠してダサい奴批判するほうがダサい


僕は昔からリスクヘッジを加味して選択をしている
やりたいことをやるよりも、やってはいけないことをはっきりやらないことが重要だと考えて生きている
だから常に他人の行動や選択を斜に構えていた
しかし、今日の昼食を食べている最中に来る客を見て、そんなに客層にこだわっているのになぜコミュニティに属せてないのか
自分がダサくない、オシャレだと思っているのならば僕は常にそういった集団と絡んでいて仲良くなってるはずだ
しかし現実はどうだろう
音楽は洗脳だ、絵に何も感動しない、映画や漫画はすべからく損と切り捨てた
そんな状態で誰かと感覚を分かち合うことなど出来るだろうか
少なくとも食に関してはセンスがあるという自負があるのだから、その証明のための表現をすべきではないだろうか
あれやこれやダサいダサいと批判しても、それを支持するダサい奴が一定数いるいじょう、なにも表現していない僕に味方する人間はいるのだろうか
だったら自分でも表現しなければならない
たしかに表現しなければダサいと言われることはない
だがそれでいいのだろうか
センスがあると思ったことがダサかったとしてもネットであればダサいやつとして笑ってもらえる
なにもしなければなにも起こらない
それではなにも得られない
だから自分は表現活動に勤しむことにしました
ダサい奴というイメージで通るリスクを背負わない奴にセンスを問う資格はない

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