六段の調べ 序 初段 一、傷のない女
前から吹いてきた風にはためく赤い袴の裾を、女はさっと押さえた。長く伸びた黒髪をなびかせ、緩やかな坂を行く。衣を何枚か着ているが、重みがあって少し動きにくかったか。誰も歩いていないこの広い道で、女は久しく身に受けられなかった陽光に目を細めた。
北にある故国より、ここの春は早いと見える。左にそびえる高い建物沿いに植えられた桜は、卯月の初めだというのにとっくに散り、土でもない硬く黒い地面に敷き詰められている。色褪せた所もあるその花びらを草履で踏み、女は本意を果たすべく歩き続けた。
懐から紙片を出し、会うべき者たちの名を確かめる。覚えが正しいなら、彼らが待っている場所はこの近くに間違いない。家々が並ぶ先の細い道を抜けてすぐだ。紙を仕舞って足を進めようとした時、ふと後ろで金具の音が耳に入って女は動きを止めた。
ゆっくりと振り向き、男が二人いるのを認める。一見、町人のような小袖姿だが、後ろ手に隠しているものはどうも怪しい。顔を眺めているうちに、相手の狙いを察する。
「何とのぅ……」
思わず声が漏れる。刀が届かないほどの間合いはあるが、それでも向こうがこちらを用心しているのは伝わってくる。心に浮かんだ恐れを打ち消し、女は笑みを浮かべた。
「そなたたちは、伯母上に従っておったはずであろう? 何ゆえ私の後を追う? さては伯母上、私を殺すつもりではあるまいな?」
言葉を終えた刹那、離れていたと思っていた男の刃が目前に迫ってきた。急いで身を転じる間に、右肘下へ鋭い痛みが走る。傷を押さえて駆けだすと、背後に慌ただしく足音が続くのが聞こえた。長い歩きでさえ慣れてはいないが、今は追っ手たちを撒かなければならない。何度も転びそうになりながら、女は先方にあった小道へ入り込む。次第に流血が少なくなり、痛みもいくらか引いていく。それに力を得て、女は追っ手を引き離すべく道を駆けていった。
入学式は数日後だが、今日は高校に指定された登校日だった。新入生オリエンテーションがあり、クラス発表や自己紹介、教員の話などで土曜日の午前は過ぎ去っていった。校庭を抜けた先では、真新しい白のダブルブレザーを着た生徒たちがいくつもの集団になって固まっている。ほとんどが初対面であろう彼らの親しげな様を横目に、平井清隆は知り合いが一人もいないこの中高一貫の私立校を後にしようとしていた。
今は仲の良いような生徒たちも、本当に親しくなったとは限らない。休みを挟んだ数日後には、互いの顔や名前も忘れているかもしれない。そう考え事をしつつ、群れの合間に出来た隙間を縫って、清隆は門の前に広がる道路へ向かう。その途中にあった集いに、見覚えのある黒い紐を見掛けて足が止まった。自分も少し前に身に着けていた、サックスを支えるために使うネックストラップだ。その女子生徒は吹奏楽部に入る気持ちが早まっているのか、演奏時でもないのにそれをジャケットの胸元に下げている。変わった姿が目に飛び込むなり、清隆の脳裏に苦い記憶がよぎる。拍手の音がすると思って振り返るが、それらしき動きをしている人の姿は見当たらない。晴れないものを覚え、清隆は足早に校舎を離れた。
多くの生徒が向かって右――桜の名所で有名な公園が近くにある駅の方へ向かうのに対し、清隆は地下鉄の駅へ続く左側へ進む。この道を使う人は少なく、自分以外には少し先、マンションの角で突っ立っている同じブレザーの少年しか見当たらない。清隆よりいくらか背は低く、急な撫で肩が気になる。やがて彼が突如こちら側へ歩きだし、清隆とぶつかりそうになった。
「あ、申し訳ない……すみません」
スマートフォンを片手に謝る彼へ、軽く頭を下げる。それから清隆は角を曲がり、右側に車の行き交う歩道を歩き始めた。
数メートル進んだところで、先ほどの少年がいつの間にか自分の隣にいると気付いた。スマートフォンを凝視する彼を見て、清隆も歩くのをやめる。唇を引き結ぶ少年に、思わず声を掛けたくなった。
「もしかして、道が分からないのか」
少年が驚いて顔を上げる。額に掛からないほど前髪は短く、後ろ髪もこちらからわずかしか見えない。下がっている眉は、その困惑を黙って訴えているようでもある。
「いや、大したことじゃないんですよ。道に迷うのはいつものことででしてね……」
動揺を見せつつ話しだした彼によると、どうやら清隆と同じ駅を目指しているらしい。自分もそこへ行くと伝えた直後、少年は顔を一気に輝かせた。
「本当に!? じゃあ一緒に行きましょう、行こう!」
スマートフォンをズボンのポケットに仕舞い、代わりに小さなケースを出した少年が横長の紙を渡す。「生田信」と書いてあるそれは名刺だった。「信じる」と書いて「まこと」と読む。そう自己紹介した彼は、早速清隆に同じ学校の生徒か確認してきた。一年三組だと清隆が伝えると、相手は特待であることに羨ましそうな目をしてきた。彼自身は八組あるうちの六組だという。そこで思い出したように名前を尋ねられて答える。
「いい名前だなぁ。『清隆』って呼んでいい?」
馴れ馴れしい態度への疑問を隠し、清隆は顔色を変えずに言う。
「……構わない」
「じゃあ、おれのことも『信』って呼んでよ」
駅へ歩いている間、信は絶えず清隆に質問をしてきた。中学校はどこだったか聞かれて返すと、信は清隆の母校から遠くない学校に通っており、自宅も割と近くにあると分かった。乗り換え先も最寄り駅も一緒だと判明し、電車に乗った後も会話が続く。
「清隆ってさ、高校に知り合いいる? 中学からとかの」
「いないな」
「おれもそうだよ! 友だちできるか不安でさ。仲間がいてよかった!」
大げさながらも喜ぶ信に、胸がくすぐったくなる感覚が湧いてくる。しかし清隆はすぐにそれを追いやろうとした。こちらの話を聞いて思い付いた、自分を取り込むための嘘かもしれない。口では良いことを言う傍ら、裏で否定しているだろう人物に関わるのはもう御免だ。
乗り換えも含めて一時間ほど掛かった移動時間は、あっという間に過ぎていった。ほとんど信が一方的に話し、清隆自身はそれに応えたり相槌を打っていたりしただけだった。
「ところで、清隆は中学でなんの部活に入ってたの?」
最寄り駅に降りるなりされた問いに、清隆はしばらく黙り込んだ。今朝の自己紹介でも言うのを躊躇ったことを、ここではっきり伝えるべきか迷う。改札に通じるエスカレーターで上がっている中、一段後ろにいた信の視線を痛く感じる。ようやく口を開いたのは、地上へ出る階段を上り始めた時だった。
「……吹奏楽部だ。笑うなら笑ってくれ」
言葉を吐き出してすぐ、隣の信から顔を背ける。彼がこの名称を答えて受ける反応は、だいたい分かっている。しばらくして、予想通りの笑い声が耳に入ってきた。息苦しい思いに、階段を上る足を速める。
「吹奏楽! かっこいいなぁ。おれも中学で仮入部に行ったんだけどさ、どの楽器もまったくだめだったんだよね。楽器のできる人がうらやましいよ」
思いもしなかった返事に、清隆は立ち止まった。ゆっくり信を見返ると、彼は屈託のない笑顔を浮かべている。軽蔑は感じられないが、それでも油断は出来ない。
信が追い付くのを待って、清隆は地上へ出た。すぐ近くの商店街を横切り、車の往来が激しい国道の脇を行く。楽器は何をやっているか聞かれてテナーサックスと返し、それもまた良いなど喜ばれた。信は本気で、楽器の出来る自分を褒めているのか。その嬉しそうな様と、これまで大半の人からされてきた振る舞いとの違いに戸惑う。同時に再び苦い記憶が現れ、清隆はそっと信から距離を取っていた。それに気付いた信が小走りで近寄る。
「ああ、申し訳ない。おればかり話していて、迷惑だったよね?」
道に迷っていた際と同じ顔で言われ、返す言葉が出てこない。確かに彼の話は少々騒がしかったが、気に障りはしなかった。よく話が途切れないものだと、内心で若干驚きもした。
「そんなことはない。気にするな」
そう口にしたが、信は何度も謝り続けていた。角を曲がって国道が遠ざかり、清隆の自宅が近くなっても態度は変わらない。信の家はどこなのかと話を変えようとした時、清隆は目の前を過ぎていった光景に足を止めた。
地面に届くほどあるだろうか。まとめてもいない長い黒髪を揺らし、赤い袴に何枚もの着物を着た女が、交差路を左へ駆け抜けていく。その後をやはり着物姿の男二人が追い、揃って腰には刀を帯びているのが見えた。
「時代劇の撮影かな?」
清隆と同じく呆然としていた信が呟く。周囲を見回したが、カメラやスタッフの姿はない。そもそも時代劇らしきセットもない中で、撮影を行うはずがない。
今進んでいる道をまっすぐ行けば自宅だが、どうしても今の奇妙な場面が頭を離れなかった。女たちの行った方へ足を進め、近くにその姿がないか探す。そして駐車場のある角に差し掛かった辺りで、再び女を見掛けた。今度は左から右へと走ってくる。よく見るとその右袖が大きく切り裂かれ、血が垂れている。清隆が言葉を失う中、女が横を過ぎ、駐車場に止めてあった自動車の陰に身を潜めた。しばらくして彼女を追っていた二人の男が現れ、じっと周囲を窺った。
男の一人が立っているこちらに気付き、声を掛けてくる。探している人の出で立ちを説明され、狙いが明らかに先ほど追われていた者だと分かった。相手の話しぶりは冷静に見えて、その眼差しにはぎらつきが隠し切れていない。
清隆はそっと、女の隠れている方を見る。車のせいで彼女の姿ははっきり捉えられないが、息を詰めて慎重にしているとは感じられる。傷を負っているのも確かだろう。そんな彼女を思うと、言葉は自然と出てきた。
「ずっと先の方に」
自分の後方に続く道を指差し、女がそこへ向かったと清隆は伝える。男が礼を言い、仲間に一声掛けて清隆の言った通りの方向へ走り去った。彼らの姿が見えなくなってから、清隆は女のもとに歩み寄った。しゃがみ込んでいた彼女が身を震わせ、ゆっくりと顔を上げる。黒い瞳の揺れる、どこか勝気そうでもある吊り目と視線がぶつかる。その瞬間、女は驚いたように立ち上がった。懐から小さな紙を取り出し、清隆たちの顔と交互に見比べている。
「何とのぅ、ここで会えるとは奇遇じゃな。そなたたちは、平井清隆と生田信で間違いはないか?」
教えてもいない名を呼ばれ、清隆は信と顔を見合わせる。知り合いか尋ねるが、信も彼女のことを知らないらしい。その言葉が本当か問おうとして、女が怪我をしているかもしれないと思い出した。彼女の右袖をもう一度よく見ると、確かに刃物で斬られたようである。
「そこは怪我をしているのか」
清隆に指摘されると、女は少し袖の破れを見ただけで笑う。
「何、この程で案ずる必要はないぞ。それより私は、そなたのご家族に用があってな」
負傷も気にせず歩きだそうとする女を引き留め、清隆は袖をまくるよう頼んだ。あの追っ手が差していた刀で斬られたのなら、手当てが要る。しかし女は軽くこちらを睨んだ後、溜息をついた。
「仕方ないのぅ。これを見せれば良いのじゃろう、ほれ」
肘まで露わになったその白い腕を見て、清隆は目を見張った。肌には血の流れた跡があるのに、傷自体はどこにもない。近付いて注視してもそれが明らかだと分かると、清隆はやはり驚いている信と共に首を傾げた。
「この通りじゃ。私の身は、傷を受けてもすぐ癒えるようになっておるからのぅ」
袖を元に戻して平然と話す女の声を、清隆は黙って耳に入れるしかなかった。
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