見出し画像

僕にとってのクリスマス。半端な信仰

クリスマス。
ミサに行くのでも、人と過ごすのでもなく家で1人で過ごした。
自分はどのように今日を過ごすのが良いのか考えた結果、昼は遠藤の『私のイエス』を読み、夜は『イエス・キリストの生涯』というドラマを見ることにした。せっかくなので、どちらもイエスの生誕から洗礼者ヨハネが処刑された頃までの箇所に限定してみた。
同じ部分を扱った2つのものを見ることで、イエスをどう捉えるべきかということを改めて考えさせられ、またそこから発展して信仰という問題にも意識を向けてみたので、少しそれを書いてみます。
中学入学からずっと10年間キリスト教に触れてきて、今が一つの節目かもしれないと、過去をも振り返りながら話すことにしたい。

今日は、イエスという人物自体に着目した一日になった。もちろんイエスを直接知ることはできず、福音書や歴史書などから「イエス像」を作りあげることしかできない。その「イエス像」を構成するものとして、大きく3つの要素を考える。史的イエス、福音書の記述、福音書に表れている旧約の預言の反映である。
ここで「イエス像」と言って指したいのは、僕自身にとってイエスがどんな人であって、彼にどう向き合うかという問題である。すなわちそれは千差万別、十人十色である。これから書くのは僕がどう捉えているか、信仰や人生の問題をどう扱っているかについてである。願わくば皆の「イエス像」もいつか聞かせて欲しい。

イエスがどんな人であるかを知ることは、彼がどんなことを説いていたかを知ることと同じくらい重要だと思う。人物史を知ることで、彼の思想の理解度や、自分にとってのその思想の深みが増すものである。実際に、マズローや遠藤を読んだ時にも強くこの実感を得た。まるで一人の人間として向き合うことができるようになるかの如く。
イエスは神の子である前に、ユダヤ人の政治的指導者的立場であり、そもそも一人の大工の息子であった。30歳頃までは普通の大工であったのだろう。彼の周りに人々が集まるようになり、救世主とされることは、反ローマの指導者という意味合いをも持っていた。ヨハネから洗礼を授けられ、神の声を聞いた。
彼一人を見るにしても、様々な側面がある。現代に生きながら、2000年前のイエスという人物のイメージを作り上げることは容易ではない。全ての資料を一つに統合しようとする努力は無駄であるとさえ言える。今までどれだけの叡智が「イエス像」につぎ込まれてきたことか。

僕にとって重要なのは、歴史的に、また教義的に正しい「イエス像」ではなくて、僕が信じようと思う限りのイメージである。信じるという言葉は些か不適切かもしれない。僕は「信仰」は持っていない。
僕にとってイエスは、処女から生まれたとか、全人類に救いをもたらしたといった人というより、あくまで倫理的模範であり、遠藤が「愛の教師」と呼んだ姿である。
こんなことを言うと、宗教を倫理に還元しているとも言われそうだが、こんなイエス像を持っているのは中学生の頃の経験からかと思われる。

中学3年生の頃、洗礼を受けようかとひどく悩んだ。これを読んで初めて知る人もいるだろうが、ずっと悩んだ。その頃の僕は自分がどうしても嫌いで、けど自分を認めれるようになりたくて苦悶していた。何か人生の軸と呼べるもの、それに従えば善い人間に近づけるような支えが欲しかった。中1から聖書を読む会に参加していたこともあってキリスト教にその答えを求めたのだろう。イエスのように愛に溢れた人間になりたかった。
結局、洗礼を受けたいという気持ちが完全に固められず、洗礼を受けないまま今に至る。この頃から、自分の問題として信仰とは何かと考えるようになったのだと思う。だから、イエスに倫理的模範としての像を投影しているのは納得できる。

さて、信仰とはなんだろうか。未だに答えが出ない。「全人格的な傾倒」とか「究極的関心」とか言葉で聞いても、実感としての理解が追い付かない。多分中3の時もこれでめっちゃ悩んだんだろうな。

そうは言っても、この投稿を締めるために仮の結論を出すことにしよう。
ずっと「イエス像」という言葉を使ってきたが、自分の実存的な問題とかと照らし合わせてできた「イエス像」は、教会の教える「イエス像」に包含される必要があるのではないか?それらが凡そ一致することももしかしたら求められるかもしれない。(実際的な問題として、必ずどこかの共同体に属することになる)
「信仰」という概念を、どんな神学者がどんな言葉を用いても、おそらくそれは自己同一性の問題であるし、自分が求めているものが凡そ与えられるようでなければ信仰はなし得ないのではないかと思う。

求めるとか与えられると言うと、人間の要求と神の無為性が対立するという問題が起きるが今回は触れないでおこう。


節目だというのを言い訳に長いこと書いてしまったが、これからもおそらく考え続けていくのだろう。
洗礼をこれからも受けないにしても、おそらくキリスト教、そしてイエスという人物は、自分と「究極的なもの」との媒介として付き合っていくことになるんだろうなと思います。

もうクリスマスも終わってまうわ、、

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?