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「彼と彼とが、眠るまで。」第十四話

第一部 記録/安寧の学園(十二)

 アイはどうにか身体に鞭を打って立ちあがった。冬だというのに蒸されるような熱気を感じながら、園内をひた走る。さいわい、レクサスやレヴ、イナサやほかのクラスメイトたちは大きな怪我もなく、幾人かは転んでひざを打ったとか、ガラスの破片で腕を切ってしまったとか、そういういたって軽いものだった。そのことに安堵したとき、おだたしい雨音が外壁を打った。急激に降りはじめた黒い粒は、吹き抜ける窓から廊下を汚した。滝がそこかしこにあるのではないかと思うほどの嵐。寒気はすぐに舞い戻った。それらと同時に、学園街から逃げのびた島民たちが学園へ救いを求めるように駆けこんできた。その多くが、露出した身体に火傷を負い、びらんした皮膚をぶらさげて痛い、助けてくれとすがるようにうめいた。裸の男も、女も子どももいた。ひどい火傷で全身の皮という皮がずり剥け、顔もろくにわからない。片目がとびだし、あばらがむき出しの者もいた。水をくれ。咽喉が渇いた。痛い。助けてくれ。誰か。誰か――……。
 生きすが慟哭どうこくが押しよせてくる。
 学園街の襲撃後すぐ、教師に待機を命じられていた生徒たちはしばし呆然自失としていたが、たちまち自分がやるべきことを見いだし、目の前の要救護者へ手をさしのべた。だが、あまりにも数が多すぎた。ここにいるのは、教員らと、本大陸へ帰省していない――あるいは、する場所がない――者たちがほとんどで、次々と押し寄せる負傷者を、とうていまかないきれるものではなかった。なさけないことに、アイは同じ人間たちの、人間の形を失ったありさまを目の前に、耐えきれず手洗いに駆けこんだ。吐くものがなくなっても、まだ胃液がこみ上げてくる。
 けっきょく、アイは物資の運搬に従事することになった。いざという時のために、学園の地下にはいくらかの食料や医薬品や衣料などが備蓄されている。それでも、とうてい足りるとは思えなかった。とくに医薬品は間に合わず、応急手当も満足にできるものではなかった。現場へ戻ると、やはり惨惨たるありさまだった。夢ではない。アイは奥歯を噛んだ。
「アイ、こっちぇ」
 レヴに呼ばれて、アイはハッと我に返った。あわてて救急用品をわたしに行く。レヴは休みなく怪我人の救護にあたっていて、彼のひたいには脂汗がにじんでいた。レヴは目のまえの見知らぬ他人に「大丈夫じゃ。しっかりせぇ」と声をかけ続けた。「おめぇにも生きて会いたいヤツがおるはずじゃ」その言葉は、レヴ自身の心の声でもあるようだった。アイは胸元をぎゅうと握りしめた。彼の故郷――イグラシア王国も、同じように爆撃を受けたはずだった。本当は彼だって、今すぐにでも故郷へ駆けだして、親弟妹の無事を確認したかっただろう。痛いほどの切望が、なにも語らないその背中に、にじんでいる。
 手当を受けながら、怪我人はしきりに痛い痛いとうめき、たびたびレヴに「殺してくれ」と懇願した。彼は眉間にシワをよせたまま、ぐっと奥歯を噛みしめた。

 夜更けになると雨は白くなり、鋭い冷気をさらに尖らせて、重傷者へつめたい死をそそいだ。はらはらと雪がつもり、明け方までに多くの人間が息絶えた。
 二日目になると、さらに要救護者は増えた。元々足りていなかった人手が、さらに足りなくなる。教室の床に敷くものも、じゅうぶんに用意できず。怪我人は冷たい床に転がるしかなかった。生徒たちは総出で応急手当にあたったが、万全にできたものはまずなかった。追いつめるように、冬は厳しさを増していく。気温はいっそう下がり、多くの者が亡くなった。学園街のほうから逃げ出してきた重傷者の多くが、途中でバタバタと折り重なるように倒れたまま、こと切れていた。そのどれもが、見るにたえないありさまだった。
 昼になった。
 責めたてるような冷気を感じながら、アイは白い息を吐いた。外で除雪・屍体回収作業にあたる生徒たちの元へ、炊き出しを届けるためだった。生徒たちは除雪した雪を固めていくらか壁をつくり、そこに薪をくべて火を焚いていた。大きなかまどのようにも見えたそれは、集めた屍体をその場で火葬しているのだった。祈るように手を合わせる者もいれば、しずかに黙祷もくとうする者。手ですくった雪にくちづけをする者と、それぞれだった。その生徒の中には、イナサの背中もあった。彼は茫洋とした翡翠色にその炎を映していた。アイの姿に気がつくと、彼はいつものようにやわらかな微笑をたずさえた。今ばかりは、彼の平生としたそのさまがありがたい。アイもまた、弱い笑みを返した。
 作業場から少し離れたところで、二人は腰をおちつけた。
「あったかいものを、って急いできたんだけど、冷めちゃったな」
 アイは苦笑しながら、炊き出しの芋煮を手渡した。イナサは「お腹ぺこぺこだったんですよぅ」と大げさにお腹をさすりながら、すっかり冷めた椀を嬉しそうに受け取った。
「レヴ、すごいですよね。俺は応急手当のかってがわからなくて、ずっとこっちなんですけど、どこもかしこも筋肉痛で」
 明朗と笑いながら、彼は汁物に口をつける。美味しいです、と彼はまた微笑んだ。
「進捗はどう?」
「なかなかですね。せめて、雪に埋まってしまう前にと思って、みんなで急いでいるんですけれど、数が多くて。運ぶのも一苦労なんですよね。火傷でびらんしているので、つかむと皮だけ剥げちゃって」
 イナサは鶏肉のかけらを口に放りこんだ。小さいものだったので、すぐに飲みこんでしまったらしく、スプーンの先で椀のなかの芋を転がした。
「名前が確認できる場合はそれを記録するんですけど、ほとんどの方が服もいっしょに焼けた状態で、所持品もほとんどなくて。子どもなんかは性別がわからないほど損傷していたり、誰かがここまで抱えてきたのか、頭部だけのものがあったり」
 アイが青い顔をしている前で、イナサは芋をぱくりと食べると、ほっぺたに芋のまるい形をつくって、しばらくもぐもぐと咀嚼した。彼はいたって平生であり、世間話をしているとでもいうようだった。
「ひとりひとり埋葬してあげることも難しくて、まとめて焼くしかないんです。場所もない。人手も足りない。回収作業にあたるのも、とうぜん人です。いま学園に残っているのは、この島で育った方ばかり。知人の顔を見つけて、泣き崩れる生徒もたくさんいます。でも、やるしかないから手を動かす」
「イナサは?」
「どうでしょうね」
 イナサはまつげを伏せた。
「思うところはあります」
 そのうちに、彼は汁物をぺろりと平らげると、「ごちそうさまでしたぁ」と明るく両手を合わせた。彼は終始、平生とし、また明朗であったが、死が横たわる雪景色をたびたび見つめては、また目の前の屍体に向き合った。

 四日目の夕方、しんしんと降る雪景色の中に赤色が見えると、アイは片手間にコートを羽織って、外へとびだした。
「レクサス!」
 彼は学園の調査隊に志願して、この数日、島内の各所を歩いていたのだった。垂れた耳と尾が、ちからなく揺れる。多少持ちあがるばかりの赤色は、冷たく落ちこんでいるように見えた。
 彼はなにかを抱えていた。小さな子どものようだった。体格からして、五歳ていどだろうか。身体の半分以上がただれていて、溶けた服が皮膚と混ざるようにくっついている。とくに顔はひどく爛れていて、もとの造形もわからないほどだった。まだ薄く息をしているが、弱っているのは明らかだ。今夜はこえられないかもしれない。
「身体を温めてあげて」
 レクサスの言葉に、アイはうなずいた。すぐに毛布を用意して包んでやる。この子どもを抱いたとき、アイは懐かしいように思えたが、この感覚がなんなのか、すぐに思いだすことができなかった。連れだって廊下をあるいたが、レクサスは黙ったきり。二人分の靴音だけがやけに響いた。通りざまの教室では、疲れ果てた生徒たちが身を寄せ合って雑魚寝している。壁際には、レヴとイナサの姿もあった。薄闇の中で、レヴの右耳の黒曜石がキラリと光っているのが見えた。
 暖炉のある部屋へ入ると、アイは壊れものをあつかうように、腕の中の子どもをそっと寝かせた。レクサスは口数少なく街のようすをつげると、対策本部へ寄ってから寝ることを告げ、この場を去っていった。アイはしばらく、暖炉の炎を見つめていた。
「……、……」
 ただれて半分もあかないまぶたの奥で、子どもの目に暖炉の熱が反照したときだった。
 アイは懐かしさの正体に気がついた。
「ロロ。まさか、ロロか!」
 彼女は、ふにゃ、と笑ったらしかった。
「ロロ、ロロ!」
 アイはロロを抱いた。彼女は息をもらした。なにかを言いたいらしいが、咽喉が焼けているのか、かすれてほとんど聞こえない。
「……い、す、」
「なんだ? どうした。教えてくれ」
 アイは必死になって呼びかけた。彼女のくちびるの動きを追う。すこしでも、とりこぼしてはいけないと思った。

  アイ 大好き

「あ……ぁ」
「あ、い。す……き」
「オレも。オレも大好きだよ。愛してる」
 ロロは、ほほ笑んだ。目じりから透明な雫をひとすじこぼして、彼女の息がすうと消える。
「おい、おい。ロロ。なぁ、嘘だろ」
 呼びかけても、呼びかけても、彼女の乾いたくちびるはずっと、ほほ笑んだままでいた。
「成人したら、オレと結婚するんだろ? なぁ、だから、それまで生きて、生き……」
 彼女は、息を引き取っても軽かった。

 泣き疲れて眠った深夜のことだった。腕の中で、気配がモゾと動いた。アイは、ハッとまぶたをひらいた。夢かもしれないと思ったが、それでも、ロロが生き返ったのだと信じたかった。
「ロロ」
 彼女の頭がわずかに持ちあがる。彼女のまなざしが、アイを見つめた。瞬間。彼女はアイをつきとばした。子どもの、それもあの傷だらけの腕で。アイはとっさに受け身をとることができず息を詰めたが、意識をどうにか留めたまま、暖炉の灯りに照らされる彼女を見あげた。ロロはぼろぼろの両足で立ちあがっていたが、じっと、うつむいたままでいた。炎の輪郭がわずかに動いている。彼女は震えていた。異様だと思ったのは、それがわななきでも身震いでもないように見えることだった。まるで、なにか必死にあらがっているような。
 耳鳴りがする。直感が告げる。
 今すぐ逃げるべきだ。
 あるいは殺すべきだ。
 ギ、と不可解な音を立てて、彼女はただれた腕をもちあげた。

 白色だ。

 ただ、目を見ひらいた。
 雪のように真っ白で。けれども、ぶくぶくと水気を帯びて濁っていて。ただれた生々しさが、炎の熱を帯びたまま反照する。死と生がまだらに乱れた有り様は、彼女を異質なものに仕立てあげていた。これは夢だろう。きっとそうだ。そうでなければ。こんなこと。
「……」
 ロロはまた、なにかを言った。

 わたしを ころして

「ッ!」
 アイは跳ねるように身体を起こした。ブレザーの内側で、魔導拳銃に触れる。けれどもそれ以上、身体を動かせなかった。目の前で、温かな彼女の輪郭がかつてのように微笑んでいたからだ。――どうして、この銃口を向けられるだろうか。
 揺れ動く影だけが、暖炉の爆ぜた音だけが、声もないこの刹那を繋ぎ止めている気がした。いま動いたら、この繋ぎ止められた時間は終わってしまう。だから。お願いだから――。
 そのとき。
 後ろから抱きしめるように伸びてきたのは、すらりと長い指先だった。
「俺がやります」
 平生とおちついた声が、炭が弾ける音をさえぎる。足元に捨てられた革手袋。日焼けのない彼の左手の甲に居座る黒紫の紋様が、これから彼がなにをしようとしているかを語っていた。
「だめだ。だって、約束したのに」
 アイはイナサの左腕へすがりついた。イナサがさえぎっていた視界の向こうで、ロロがうなずいたように見えた。
「お前には兵器以外の生きかたを見つけてやるって、オレは!」
「アイ。俺の価値は、きっと、ここにあるのですよ。それは兵器ノアとしてではなく、あなたのイナサとして」
 イナサの手が、この手に重なった。
 だめだ。アイは叫んだ。
「ごめんなさい。アイ」
 彼は、いくぶんか悲しげにほほ笑んだ。
 ちがう。ダメだ。お願いだ。待ってくれ。しかしイナサの手は、この手をたやすく解いた。必死に止めようともがいたが、ちからがかなわない。力負けした身体がなさけなく床に転がったとき、ロロがイナサの元へ自らとびこんだ。イナサはまちがいなく彼女を抱きとめた。彼女の白い体躯は、黒に侵されてぼろぼろとくずれてゆく。しずかな滅びだった。薪の弾ける音が鼓膜を叩く。彼の手のひらの上で崩れていく。髪のひと房さえもこぼれて、塵となった瞬間に、アイはイナサの背中へ拳をぶつけた。
「んでだよ! なんで……なんで奇病が。ロロが。お前が!」

――こんなことになるくらいなら、あのときサファイアを。

 無意味な慟哭。
 これが、革命だと。
 これが、未来だと。
 これが!

 当時、イルフォール島にいたもののほとんどが、あの日あの瞬間、いったいなにが起こったのか理解におよばなかっただろう。事実、わたしもこの日の全容を知れたのは、ずいぶんとあとになってからだった。稲光のような閃光と、耳を打ち破るような衝撃と熱風がイルフォール島を襲い、国際会議場を中心に、学園街のほとんどが瓦礫と化した。さらには二次的に火災が発生し、灰が降り積もったという。そして、同様にヴァリアブルやマユウヌス連邦もまた同じような被害にあったが、ことイグラシアにおいてはやや事情がちがった。イグラシアはに爆発が連鎖した。これは後に、イグラシア王国が秘密裏に開発していた次世代型の兵器によるものだったが、それゆえに、イグラシアはもはや生命が暮らせないほどに汚染されたのだった。これはつまり、レヴの家族もまた同じように黒に吞まれてしまったことに、他ならない。イグラシアはまちがいなく滅んだのだ。

 さて、このとき。調査隊の帰還により、イルフォール島内の状況はいくらか明瞭になったものの、国外の状況は以前不明のままだった。いわく、通信機器のいっさいが不具合を起こしたまま、各国との連絡は途絶え、転移魔導門はどれも元々の機構に設定されていた安全装置が作動して一時的に閉鎖されている。これを開通するには、専門の者が直接操作してやらねばならなかったが、その人らもまた、爆撃にまきこまれていたのだった。復旧の見通しは、まだ立っていない。
 アイはレクサスとともに、第二回の調査隊へ入った。
 市街の中心部はほとんどが爆砕し、荒涼と灰が降り積もったまま、常緑の街路樹もいっさいが焼け、豊かな緑色はなく、色彩を失った街の亡骸を包むように雪の薄布が降りていた。爆心地から逃れた建物には軒並み重傷者が集まっており、どこも園内とそう変わらない。かたく口を閉ざしたままの転移魔導門には、市街地から命からがら逃げだしてきた島民たちが集まり、折り重なって死んでいた。
 街で生き残っていたほとんどは、地下街にいた人間だった。どろりと黒い河川に浮き沈みする屍体の処理と、転移魔導門の復旧が急がれるなか。二週間、三週間と過ぎると、今度は生き残った者たちのうち、いくらかが異常を訴えはじめた。下痢や脱毛。高熱。さらには、肌が黒く変色し始め、表面がぼろぼろと乾燥してこぼれていった。その者たちは多く、爆発後の驟雨しゅううにうたれた者だったが、けっきょくのところ対策という対策を。処置という処置をしてやれないまま、彼らは苦しみ悶えながら息絶えた。

 四週目。調査から帰還したアイは一日の休暇を与えられた。この頃には組織的に指示体制が整い、多くが交代制で働いていた。とはいっても、やることはいくらでもあり、いとまのないことが実情だった。アイはがらんどうの自室で独り過ごす気にはなれず、ふらふらと園内をさまよった。奇病のことは、すでに上へ報告していた。けっきょく、ロロ以外に奇病を発症するものがいなかったのがせめてもの救いだが、教員たちが険しい表情をしていたのがすこし気にかかった。
 まるで変わった世界で、イルフォールの御神木だけは姿を変えていない。それがかつての懐かしさを呼び起こしながら、同時に憎らしくもあった。中庭でたくましく枝を伸ばしたまま、その身にしっとりと雪をまとわせている。イルフォール島の〈禁域〉こそ、この御神木の地下にあり、そこは神の領域とされ、けっして踏み入ってはならない場所だ。――そういえば、学園の〈禁域〉調査はけっきょくどうなったのだろう。アイはこのところの記憶をさぐったが、めぼしい情報はなかったように思えた。いまさら自分で探ってみる気にもなれず、そのまま通りすぎようとした。
「アイさん」呼ばれて、ふりかえる。
「リアちゃん先生……」
 スフィネリア魔導教諭は、あの爆発のあと、うろたえる教員たちのなかでゆいいつ立ちあがり、周りを叱咤しったしたのだという。わたしたち教員が呆然としていてはいけない。この学園には生徒たちがいる。わたしたちは、彼・彼女らを護り導く義務がある。だから、つらくても、このまま立ち止まっていては、いけない。あの子たちにとって頼れる大人は、いまやわたしたちだけ。彼女の演説は絶望のなかにいた大人たちに小さな炎を灯した。
 サファイアのことも含めて、彼女に聞きたいことは山ほどあったが、彼女の牽引があってこそ、避難所としての立ちあがりが早かったこともまた事実だった。
「調査お疲れさま。今日は休息日かしら」
「ええ、まぁ」
「ちゃんと食べてる?」
 アイは苦笑を浮かべながら、あいまいに言葉を濁した。
「らしくないわ」
 彼女は物憂げにアイをのぞきこみ、女性らしいやわらかな手を、アイの肩においた。そっと寄り添うような声色だった。
「わたしでよければ頼って。いまは教壇に立っているわけではないけれど、わたしはいまもあなたの先生なんですから」
「先生」
 茫洋と見上げる。彼女のまなざしは、慈愛に満ち満ちていた。
「……んで、」
 アイは片眼鏡モノクルの奥をのぞきこむように、目を見ひらいた。
「なんで、笑ってんすか? それに、センセ。今どこから出て――、」
 瞬間、片眼鏡モノクルの奥が底冷えしたかのごとく、熱が引いた。笑みの形だけが残ったくちもとが、目の前でゆっくりとうごめく。優しい声が、アイの言葉をさえぎった。
「生徒を安心させるのも、先生の仕事よ」
「それには、含まれるんですか?」
 刹那。彼女からいっさいの表情が消えた。アイは魔導拳銃を引きぬきながら、安全装置を外して教諭の腕をはらった。撃ちこむ前に、彼女のしなやかな脚がとびこんでくる。とっさにかわして、銃口を向ける。しかしそれよりも早く腕を取られる。アイは舌打ちをした。――戦い慣れている。
 腕を外そうとしたその時にはすでに遅く、足をはらわれて組み敷かれていた。
「お行儀の悪い子ね」
「リアちゃん先生がそんなに足グセ悪いなんて知らなかったなぁ」
「失礼しちゃうわ。でも正解。わたしは手段を選ぶつもりはないもの」
 拘束するちからを強めて、彼女は妖艶に微笑んだ。
「あなたが堕ちてくれたら、おもしろかったのに」
「美人なセンセにそこまで見初められてたなんて光栄っすね。けど、サファイアはいいんすか? アレも遊び?」
「半分くらいは本気だったわ」
 すぅ、と彼女の笑みが引いた。
「アレほど使い勝手のいいコマはなかったのに。どこぞの犬のせいで、人族との共存だなんて血迷ったことを言いはじめて、ほとほとこまってしまったわ」
 はぁ、とわざとらしくため息をつく。
「でもねぇ、わたしがしおらしくうなずけば、わたしの心配までしてくれるの。かならずやり遂げますって言って。本当に健気で笑っちゃう。バカな子ほど可愛いっていうのは、このことね。きっといまごろ、彼は信じられない思いでいることでしょうね。だって、彼は演説をして、建国するだけだと思っていたんですもの。こんなふうに、各国が襲撃されて、それが自分のせいに仕立てられるなんて、思ってもいなかったはずだわ。残念なのは、すぐそばでその顔を見られなかったことだけれど。でもいいのよ。彼ならきっと、じゅうぶんに役目を果たしてくれる」
「つまり、先生はサファイアを利用したわけ?」
「あら、そう言っているのだけれど。もうすこしわかりやすく言ってあげれば良かったかしら? 可愛い生徒だものね。いいわ、教えてあげる」
 スフィネリアはぐっと顔を近づけると、アイのほほを片手でなでた。ゾッとした。いますぐにでも蹴りとばしてやりたかったが、拘束されているせいで思うように外せない。
「孤独につけこんであげたの。わたしも同じよ、だからわかる。そう言って、彼の心をやさしくほぐしてあげたの」
 彼女のなまめかしい指先が、意味ありげにアイの腹部をまさぐった。
「趣味が悪い」
 アイは意地わるく嗤った。
「やめた方がいいと思うっすけどね。あんな男」
「大丈夫よ。から。魔族たちはもう誰にも止められない。わたしは遠くから、彼と魔族と、人族社会が喚き狂って滅亡していくのを眺めるだけ。実際、この数週間とっても愉快だったわ。だって、魔導術が使えないからってさんざんわたしをこき下ろしてきた連中が、まるで神でも崇めるみたいに縋ってくるのよ。もうおかしくてたまらない。でも同時に吐きそうだったわ。あまりにきたならしくて。みっともなくて。そういうヤツらに限ってしぶといのが残念」
 悩ましげに寄せた眉を整えて、彼女は「さて」と冷ややかにこちらを見下げた。
「あなたはどうしてあげようかしら。監禁して遊んであげてもいいけれど、男たちの慰み者にするほうが面白いかしらね」
「オレとは遊んでくれないんすか?」
 アイは会話の中で、彼女が人族へいだく憎しみは本物だと確信し、またこちらにたいしていっさいの情が見られないことも理解した。腕の一本くらいはもっていかれる覚悟をして臨んだほうが良さそうだが――問題は、隙がなくまるで逃げ出す機会がないことだった。
「あなたのその目が嫌いよ」
 スフィネリアは冷ややかに告げた。
「いつも人を小馬鹿にしたような。みじめだとでも言いたいの。ならなってみなさいよ。なにも選べなかった人生のなかで。自分に与えられた少ない手段のなかで、選んで生きてみなさいよ! 自分の身体を売ってでも生きるしかなかった社会で、混血なんて認められない社会で。さんざんに生き抜いてみなさいよ。混血のくせに魔導術も使えない落ちこぼれよ。いつも、いつだってわたしは女よ。そうでしかあれないの。そうとしか生きさせてもらえないの。だから嫌いなの。ぜんぶぜんぶ、わたしは嫌いなのよ! だからぜんぶ壊れてしまえばいいの!」
「それはちがう」
「わかってるわよ! 正しいことがなにかなんて。でもじゃあ、いったい誰がこの苦しみを救ってくれるの。誰が代わりに背負ってくれるの。ぜんぶわたしのせいなの? ねぇ、教えてよ。教えなさいよ。助けてよ。誰か救ってよ。ぜんぶ終わらせてよ!」
 スフィネリアが腕を振りあげた。瞬間、アイは即座に態勢を回して、彼女を組み敷いた。
「だからサファイアは進んだんだろ!」
 アイは叫んだ。
「未来のために。愛する人のために。そこにはリアちゃん先生のことだって、ちゃんと含まれてたんだ!」
「わかったようなこといわないで!」
「いつまでもわからないフリをするな!」
 アイははっきりと言った。
「オレはあいつなんか大嫌いだからこんなこと言いたくないっすけどね。サファイアは他人を大事にしたいって想ってるんすよ。そのためにわざわざ苦しい道を選ぶくらいの、イカれた頑固者で。本当、駆け落ちでもなんでもして、どっかで静かに暮らせばいいのにさ。そんな選択肢なんて選べないんだよ。いっしょにいたリアちゃん先生が、そんなことわからないわけないだろ?! あいつは先生のことも。ほかの魔族のことも。レクサスのことも、なにひとつ捨てられなかったんだ!」
「……好きだったのよ」
 彼女は汚れた手で顔をおおった。
「好きだったの」
 まるで少女のように、スフィネリアは声をこぼした。
「どうしてわたしの気持ちを置いていくの。ちゃんと言葉にして。もっと頼って。ひとりでかってに大人にならないでよ。わたしだけを見てよ……」
 そのときだった。アイはそこでようやく、ゆらりとうごめく気配に気がついた。背筋を舐めるような悪寒が広がって、肌を逆立てるように走る。視線はおのずと、御神木へ向かった。その幹の根元で、ゆらり、ゆら。ひとつふたつと、白色がゆらめいて、ギチ、と奇妙な歯ぎしりをした。彼らは、いつしか新聞の一面に掲載されていたようななりで、腕には〈禁域〉の調査認可をあらわす腕章が縫い留められている。まちがいない。禁域調査隊だ。アイは考えるよりもはやく、スフィネリアを後ろに下がらせ、かけこみながら落ちていた魔導拳銃を拾った。迷わず一発。二発と撃ちこむが、わずかに逸れてしまう。舌打ちをしながら、茂みに転がりこむ。
「リアちゃん先生! 逃げ――」
 アイは目を見ひらいた。白い手がぬっと伸びて、彼女の首をつかんだからだ。魔導拳銃をかまえたが、遅かった。ごき、とくぐもった音とともに、その頭は角度を簡単に変えてしまった。もういくつか腕が伸びて、彼女の肉を四方八方にぐぅとつかむ。
「なんで……」
 アイは愕然とした。しかし、ふと気がつく。すぐそばに、生ぬるい呼吸があることに。
「クソっ」
 肘で殴り倒して、そのまま引き金を引く。銃の咆哮がバケモノの白を穿った。ざっと見ただけで十五体。御神木の根元の影から、さらにぞろろと白色がまろび出る。装弾数は七発。二発むだにして今一発撃ちこんだから、残りは四。予備の弾倉は手元にない。たりない。
「なんで調査隊が、奇病なんかに!」
 アイは寄ってきた異形を最低限撃ち殺して、校舎へ駆けこんだ。校内には白色と、白色に襲われる人間が蔓延していた。いったい何が起こっているのか把握する間もない。アイは異形を撃ち殺して、襲われていた生徒を逃がしながら、事態を把握すべく走った。人間のまま事切れた遺体をとび越え、白く起き上がる異形を踏みぬいた。
「くそ!」
 一通り思い当たる場所へ向かったが、レクサスやイナサの姿はない。さらに走っていると、レヴと出くわした。
「レヴ!」
「アイ、向こうはいけん。白い獣が出できて、人間を襲いよる」
「なんだって」
「じゃけぇ獣じゃ! それも一匹じゃすまん。何十匹とおる」
「奇病は動物にも影響すんのかよ。ほかのみんなは!」
「だいぶ前に先生ん指示で転移魔導門に向こうた。俺ァ残った奴らを捜しとったんじゃ」
「そりゃどうも!」
 アイが魔導拳銃をかまえた瞬間、レヴがとっさに身をかがめた。迷わず引きがねを引くと、彼の背後に迫っていた異形の白獣が鮮血を散らした。
「さすがレヴ。わかってんね」
「たりめぇじゃ。おめぇの動きぐらいようけ見とるわ」
「お、いいね。今のはキュンときたかも。つきあう?」
「おめぇ、そういうとこじゃけぇよ!」
 直剣で前方の白を斬り伏せながら、レヴは目じりをつりあげた。横からとびこんできたバケモノを蹴りとばし、さらに走る。アイはそのあいだに、禁域調査隊が御神木の根元――地下から出てきたことや、さらにどれも奇病にかかっていて正気をうしなっていたこと。それらに襲われてスフィネリア魔導教諭が亡くなったことを手短に話した。
「なぁ、レヴ」
「なんじゃ」
「オレたち、死んだほうがいいと思う?」アイは冗談めかして訊ねた。
「ちばけたこといいなや」
「わりと本気。奇病がもし、なにかしらの原因で伝染するとしたら、オレたちはさ。感染してる可能性もあんじゃん? 状況を見るに、この園内にいるやつらもたぶんそう。だとしたらだよ。その集団感染者が国外に出たら、まずいんじゃないのって。そういう話」
 レヴが足を急に止めたものだから、アイは彼の背中にぶつかってしまった。
「わぷ。急に止まんなよ」
 レヴのまっすぐな瞳が、アイを見つめた。輪郭の太いまなざしは、冷静なままでいる。
「そん話を鵜呑うのみにするんなら、ここで集団自決じゃ。そいでも、そん話を信じとうない奴もぎょうさんおる。生きることに必死なもんは、逃げようとあがくじゃろうて。そねぇやつらが、口先の説得でここに留まってくれるたぁ思えん。感情が納得してくれん。それとも、俺らで生きよる人間を殺しにいくゆうんか? それでもええ。おめぇがそう決めたんなら、最後までつきうちゃる。俺の腹は、もう決まっとるけぇ」
 あまりに静かなまなざしに、アイはたじろいだ。
「いや、はは……冗談だよ」
 レヴはなおも黙ったままだった。沈黙にたえきれず「ごめん」と謝る。その後、校舎で冬期訓練用の装備を拾うと、急いで準備をととのえた。先に行った者たちは夜になるまえに着くだろうが、いまから出るのでは、途中で夜になってしまうだろう。衣類はゆったりと身に着け、上着は防風効果のあるものを着用する。ブーツのうえに、防寒用のオーバーシューズを履いて、かんじき――木の枝やつるを輪上にしたもので、泥土や氷雪のうえを歩くときに用いる特殊な履物――を結ぶ。思えば、市街調査に参加したおかげで、このあたりの準備はすっかり身についてしまっていた。本当は、野外訓練で身につくはずだったことなのに。
 二人は雪の中へ足を踏みいれた。喧騒はどこへいってしまったのだろう。雪の下で眠っているのだろうか。雪が積もる音まで、鼓膜に届く気さえした。ほかのみんなは、もう魔導門へたどりついただろうか。そのうちに森林へ入ると、あたりはいっそう暗くなり、夜闇が落ちた。樹の周りに縦杭を掘り広げ、てきとうにあったもので屋根を作り、風を防ぎながら湯を沸かす。晩御飯を食べ、凍傷になっていないかどうかをお互いに確認したとき、レヴはすこしのあいだ、正面からまっすぐにアイを見つめた。
「んだよ。見惚れたか?」
 冗談めかして訊ねると、彼は「そうかもしれんな」としずかな声色で答えて、ごろりと横になった。
「お、言うようになったねぇ。つきあう?」
 いつもの調子で訊ねると、レヴは声色を変えないまま、
「そういうところじゃ。おめぇの悪いところは」
 と言った。こちらに背を向けているから表情は見えない。
 アイはからからと笑った。
「なんだよ、照れてるわけ?」
「もう寝られ。ねぇんじゃけぇ。日が出たらすぐ移動じゃ」
「へいへい。じゃあおやすみ」
 アイもまた、ごろりと横になった。
 

 翌日、転移魔導門へたどりつくと、アイはクラスメイトやレクサス、イナサと再会した。一番にとびこんできたのはレクサスで、彼は「アイ!」とひどく泣きながら抱きしめてきた。どうどうとなだめてやるが、どうにも離してくれず、困ったアイがイナサに助けを求めると、彼は苦笑しながら「一晩ずっと泣いてたんですよ」と言った。
 ここにいるのは、わずか数十名だった。話によると、島内にあるいくつかの転移魔導門へ、それぞれ分かれて逃げてきたのだという。イナサはつづけて言った。
「昨日から、技術班でどうにか整備をして、魔素も確保できました。ただし、一回きり。それも片道だけです。本大陸の接続可能な魔導門に繋ぐ予定なので、どこへ行けるかは分かりません。魔導門はおおむね主要都市にありますから、向かったさきが、戦災地である可能性もおおいにあります」
 そこまで言ったときに、レヴが直剣を引きぬいた。
「どねぇも言っとられん状況じゃな」
 見れば、雪原の向こうに、ゆらり、と立つ白色がある。さらに、浅い雪のなかから、ボツボツと手が生えると、たちまち悶えるように身体をビタビタと打ってい出てきた。
「みんな早く! 魔導門へ!」
 アイの言葉を皮切りに、恐怖におののく生徒たちはたちまち駆けこんだ。技術斑が魔導門を起動させると、魔素回路を通した円形の台座が淡く発光し、光の波が揺れ始める。
「アイ、魔導拳銃貸しぃ!」
「なんで!」
「なんでもええ! よせぇ」
 とっさに魔導拳銃を投げると、レヴは後ろ手にそれをつかみ、押し寄せる白魔に斬りかかった。
「バカ! 足止めなんていい。お前もはやく、魔導門が閉じるぞ!」
 正気じゃない。アイが戻ろうとしたとき、裂帛れっぱくはらんだレヴの声が、レクサスとイナサを呼んだ。その瞬間、まるで二人は呼応するようにアイの腕を引いた。
「はなせ!」
 ちからづくで暴れるが、レクサスもイナサも必死におさえこもうとする。その意味がまるでわからなかった。目の前でレヴが戦っているのに。今すぐみんなで逃げなきゃいけないのに。どうして。なんで!
 ふと。レクサスが息を呑んだ音が聴こえた。アイは、握りこまれたイナサのその手のひらが、ひどくふるえていることに気がついた。イナサはまばたきもせずに、レヴを凝視していた。まるで、なにも見落とさないようにしているように見えた。アイはその翡翠の視線を追った。陽の光の下。雪原で戦う、レヴの背中。彼の横顔が見える。
 言葉さえでなかった。
「……んで」
 褐色の肌を侵すイビツな白亜。
 レヴはすでに、白に侵されていた。
「なんでだよバカ!」
 信じられない。
「レヴ! レヴ! なぁ、レヴってば!」
 信じたくない。
「嘘だって言ってくれよ!」
 これは悪夢だ。
「なぁ、レヴ!」
 彼のひたいが、白い爪に裂かれて切れた。彼の赤色が、つ、と滴り、雪を小さく染める。彼は乱闘の中にいた。滾る熱は赤く、彼自身をつき動かしている。彼はまだ人間だ。アイは考えた。きっと彼なら大丈夫だ。白に呑まれたりなんかしない。バケモノになるなんてありえない。だから、一緒に逃げて、どうにかできる手立てをさがして、治せばいい。
 白を殴り倒したレヴが、こちらに顔をかたむけた。白濁した片目が、じぃ、と見すえる。
「っ」
 息がつまる。
よぅ、ね」
 レヴの静かな響きが、ただ雪原にしんと響いた。アイは転移魔導門へ引きずられながらも、ずっとあがいた。
「んで、なんで二人ともなにも言わねぇんだよ! 仲間だろ。トモダチだろ! なぁ。なあ! どうして黙ってんだよ。なんで邪魔するんだよ! はなせよ。はなせってば!」
 光が、視界を覆っていく。転移魔導門に着いたのだと無意識に自覚したが、そんなことはどうでもよかった。それよりも、レヴを――。
 目が眩む。
 まばゆいばかりの白銀のうえで、赤い血潮をこぼした彼は、おもむろに、片手をもちあげた。その手には、魔導拳銃が握られていた。無骨な褐色の手。手まめが何度もつぶれたその手を、アイは知っている。彼はこの学園に来てすぐに、不良生徒の烙印を押されたが、彼から手を出したことなんて一度もなかった。彼はいつだって、立場の弱い下級生を、立場の強い上級生や貴族の子息から守るために、戦っていたのだから。
 無音の焦燥。
 レヴは大事そうに魔導拳銃を握っていた。
 いつだってその手が温かいことを、アイは知っていた。意志の強い金色の双眸が、どこまでもまっすぐであることだって、知っていた。
 信じていた。
 自分にも彼にも、あたりまえに未来があるはずだと。
 転移魔導門がいよいよ起動したとき、いっそうまばゆい光が視界の邪魔をした。向こうで、レヴは銃口をこめかみへ、そっとあてがった。
 手を伸ばす。
 光にさえぎられる。
 それでも手を伸ばす。
 魔導門が閉じていく。
 叫ぶ。

 白く、音が消える。


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