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「彼と彼とが、眠るまで。」第二十二話


情景/消えゆく景色

 夢、だろうか。ああ、ならそれでもかまわない。
 生きてくれと。そうせがんだとき、わたしは目の前で黒翼が薄く広がる光景を見た。
 わたしはうすく笑っていたのだと思う。澄んだ黒翼の向こうで枝葉を伸ばす黒紫が見えたものだから、つい安心してしまったのだ。きっと、この黒紫の魔導術式が彼の返事なのだ。わたしは悟った。
 翡翠の瞳が濡れそぼるさまは、まるで宝石がこぼれるように美しかったものだから、わたしは翡翠にまつわる話を彼に聞かせてやろうと思った。そうしたら、きっといつもみたいに彼はうなずいて聞いてくれるだろう。だが、あいにくこの口は動かなかった。夢さえ、ままならないなんて。
 刺さるような青さがまぶしくて、思わず目を細める。
 ああ、空が青いのだ。
 ようやく気がついた。わたしは彼の腕のなかで、横たわっているらしかった。
「生きます」彼はぼろぼろと涙をこぼしながら、何回も言った。「だから、死なないでください」彼は何回も懇願した。「いかないで」と言う。ああそうか。お前はこんなふうに、涙をこぼすのか。こんなふうに、泣いてくれるのか。わたしは彼が愛しいように思えた。いや、愛しかった。ずっとずっと。それはおそらく、学生時代にあったような劣情でもなければ、淡い恋心でもない。こうして触れた温度をわけあい、となりにいることで安堵し、彼が笑っていると、なぜだかわたしも幸せな気分になる。長い間つれそった情愛とたしかな信頼を、わたしはこうして今感じているのだろう。そうか、わたしはまだ生きていたのか。

「ねぇ、アイ。生きてください。お願いです。じゃないと、歩けそうにないんです。あなたが正気でなくてもかまわない。白くたっていい。俺はさびしくて、たまらないんです。あなたがいない生き方なんて、知らないんです。言ったじゃないですか。俺に、兵器以外の生き方を教えてくれるって。だから」

――んなもん、大丈夫だろ。だってお前はもう、知ってるはずだ。

 わたしは笑った。
 彼は駄々をこねる子どものように、首を振った。

「嫌です。嫌だ。いなくならないで。俺を置いていかないで」

 わたしは彼の半生を思った。

――じゃあこうしようぜ。お前に、オレのぜんぶをやるよ。そしたらもう、怖くないだろ? 記録も、記憶も。ぜんぶ、ぜんぶさ。最高の贈り物、お前にくれてやる。お前が死んだら、オレも終わる。お前が終わるまで、オレはずっと、お前のそばにいるよ。見えなくたって、ずっと一緒だ。なぐさめだって? ばか。告白って言えよ。ほら、よくあるだろ。愛を伝えて、死んでくやつ。ちょっとやってみたかったんだよなぁ。まぁ、相手がお前になるなんて、思わなかったけど。どうせなら、可愛い女の子とか……うそうそ冗談。オレは、お前のことだって、ちゃんと好きだよ。小説でいうような、恋、とはちがうかもしれないけどさ。お前のこと、ちゃんと愛してんだよ。愛してる。ああ、オレは、お前のことを愛してる。あんがとな、ずっと、ずっとそばにいてくれて。面倒かけるけど、これからも頼むよ。オレの代わりに、生きて、この世界を見守ってくれよ。きっとさ、そんなに悪くないと、思うんだよなぁ。許せないことも、おかしいこともたくさんあるけど、きっと、オレが白紙だと思ってたところに、ずっと、もっと愛しいものがあったりするはずでさ。だから、そういうのを、見つけてくれよ。オレ、けっこう人を見る目には自信あってさ。お前なら、できるって、思うんだよね。ああ、でも、そんなに泣いてくれるのは、想定外。あと、ちょっと優越感、かな。

 わたしはすっかり白くなった手のひらで、彼のほほをなでた。温かいような気がした。感覚はもう、わからない。助かったな、と思ったのは、わたしの身体がおびただしく変容していった過程で、痛覚が鈍麻していたことだった。おかげで、なにも苦しくはない。ただ、現実感が失われていくことは、すこし寂しいように思えた。手のひらの彼の熱がこぼれるように、うしなわれてわからなくなっていく。耳鳴りが遠くなって、声が淡く溶ける。思考があいまいに混ざって、物心つく前のような混沌へ還ってゆく。――ああ、これは、ちょっと悲しいな。大事なものが、輪郭が、言葉さえうしなわれて、わたしはわたしでなくなっていくのだ。まだわたしは、わたしでいるだろうか。彼はまだ、わたしを抱いているだろうか。伝えなければいけない。音が聴こえない。暗い。なぁ、頼むよ。これきりなんだから。だから……。
 暗闇のなかで、翡翠色をさがす。
 ふと。
 ひとすじの光がこぼれた。
 綺羅きら星のしずくだ!
 かるくなった身体で、わたしは青々と広がる草原を駆けていく。
 そのうちに、まばゆい砂浜がわたしを温かく迎え入れるのだ。
 みずみずしい潮騒が輪郭をなぞり、わたしは大きく笑う。
 めいっぱいに息をすいこんで、わたしは叫んだ。

 愛してるぜ イナサ! またな!

 どこからか声が聞こえた。
 やわらかなこの声を、わたしはよく知っている。
 わたしはほほ笑んだ。息がすぅと通りぬけ、風がわたしの髪をさらっていく。

――おやすみなさい。

 世界が、白く閉じる。
 温かくてやさしいその音を、わたしはただ抱きしめた。


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