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<小説>ハロー・サマー、グッバイアイスクリーム 第十六回 空港の特別ラウンジ

少女売春組織の中間管理職鈴木が名古屋によく似た街で爆弾テロと政治的陰謀に巻き込まれていく。
全てを放り投げて半ばヤケクソで逃げる決意をした鈴木は空港で足止めされ雲隠れしていたボスと再会する。

 そしてボスがいた。夏用の下に着たシャツが透けそうな薄手のジャケットを着ていた。    
 来てくれると思っていた。本当に馬鹿みたいな話だけど。
「留守中は連絡もしないでいろいろと任せて悪かったよ。ようやく話がまとまって戻ってこれたんだけどね」
 ボスはいつもの調子だった。いつもの柑橘と沈香を混ぜた香水、そして葉巻の香りがした。
 そうだ。迎えに来てほしかったのだ。誰かに、迎えに来てほしかった。

あらすじ

Chapter 15 空港の特別ラウンジ

 壁にはイルカの絵がかかっていた。ジェットの排気音が申し訳程度に開いた曇りガラスの小窓から聞こえた。
 予約した便はとっくに出発していた。ぎりぎりで押さえた最後の1席だった。その席はキャンセル待ちの誰かを乗せて飛んで行った。
 素っ気ない長机を囲んで椅子が4つ置いてあって、壁の一面は鏡張りだ。マジックミラーだろう。まるで警察の取調べ室だ。それなのにイルカの絵だ。
 出国カウンターでセキュリティが寄って来て有無を言わさず部屋に押し込まれてからたっぷり3時間は絵を見る以外にやることがなかったのだからよく覚えている。
 部屋には愛想もなにもない。入国審査のあら探しに引っかかった運の悪い連中を押し込むために使われているのだろう。愛想なんて必要じゃない。座っているだけで自分が価値のないゴミでこの国に立ち入る資格のない人間だと思えてくるようにしないといけない。
 それでもイルカの絵がかかっていた。イルカは不自然なほど明るい月に照らされた海面で飛び跳ねていた。
 調度品としての絵は人を和ませたりするためのものだろう。部屋の目的と全く一致しない。その生暖かさが気味悪い。
 イルカを食べたことがあることを思い出した。
 ボスに避暑地へ連れて行かれた時だった。俺は車の運転を覚えたてで運転手としてだった。ボスの大きな車をぶつけないように必死だった。
 曲がりくねった都市高速を抜けて、工業地帯を過ぎて山の中を越えると突然に海が見えた。ボスの座っていた助手席側の窓だ。山の切れ目から見えた。
海を見たのは久々だった。母親に連れて行かれて以来だったと思う。
 ボスは大きいサングラスをちらりと海へ向けた。
「かわんねぇな」
 そう呟いたきり黙り込んだ。
 それからは3日ほどホテルに泊まって街へ戻った。夜に部屋へ呼ばれる以外はやることもなく昼間に入った飯屋でイルカを食べた。どんな味かは覚えていない。
 
 ノックもなくドアが開いた。佐々木だ。いつも通り汚職役人には惜しい愛嬌のある笑顔だ。
「いやいやすみませんね。こんな状況でしょ。運行も影響がでていましてバタバタでしてね。お待たせしてすみません」
「待つのはいつものことですよ。しかしラウンジで待たせてもらってもよかったんですがわざわざ部屋をご用意していだいて恐縮です」
「こちらこそ恐縮ですよ。こんなむさ苦しい部屋しかなくて。でもラウンジでは当たり障りがあるなあと思いましてねえ」
 当たり障りなら俺から封筒を受け取った時からあり続けているだろう。しかしそんなことは言わない。
「鈴木さんがいらしたら連絡をするように頼まれていましてね」
 佐々木がそういうとタイミングを計ったように扉が開いた。番犬のような男が立っていた。
 そしてボスがいた。夏用の下に着たシャツが透けそうな薄手のジャケットを着ていた。    
 来てくれると思っていた。本当に馬鹿みたいな話だけど。
「留守中は連絡もしないでいろいろと任せて悪かったよ。ようやく話がまとまって戻ってこれたんだけどね」
 ボスはいつもの調子だった。いつもの柑橘と沈香を混ぜた香水、そして葉巻の香りがした。
「元気だった?っていうか少し痩せた?ちゃんと食ってるのかよ」
 そう言いながらボスは俺の肩に手を置いた。
「お咎めはなしですか?」
「お咎め?なにかしたの?」
「つまり、逃げようと」
 声が上擦る。ボスは声を上げて笑った。心底愉快そうだ。
「お前が俺から逃げられるわけないよ。現にこうして話している通りだ。というかこんな時に置き去りにされて逃げないほうがどうかしている」
 どうかしている。そうだ、と思った。俺はどうかしていた。
「夏だしお前にも夏休みをやろうかと思っていたところだからさ、本当ならこのまま南国へでも送り出してやりたいんだけどね」
 俺はボスのシャツの腹あたりを見ていた。
「でも、お前としては本望だろ?迎えに来てやったよ」
 そうだ。迎えに来てほしかったのだ。誰かに、迎えに来てほしかった。
 顔を上げてボスの顔を見た。いつもと変わらない。いつもと変わったところはなにもなかったんだ。
 番犬が俺の後ろに回り腕をつかんだ。見なくても分かる。俺がなにか変な動きをしたら一瞬で取り押さえられるだろう。
 俺は恐怖と恍惚のためにほとんど何も聞こえなかった。ボスの声だけが聞こえた。
「お前にも夏休みをあげようと思っていたんだけどさ、そうもいかなくなってな。悪いけど」
「どういうことです?」
 声が震えた。どういうことか、わかっていた。でもボスの声は甘い。砂糖漬けの拷問みたいだ。舌が痺れるみたいに甘い。番犬が俺の腕を掴む力が強くなった。
「大原さんの後任の人と連絡がついてね。今回の件の落としどころがまとまって、大原さんは殉職したってことになるよ。テロリストに爆殺されたってことで」
テロリストという部分だけボスはそこだけゆっくりと発音した。
「俺がテロリストってことですか」
 番犬の力がますます強くなる。動脈まで絞まっていそうだ。
 ボスはふふんと軽く笑って続けた。
「あの杉浦さんっていうブン屋さんもこっちでどうにかするっていう条件だけどね。まあここじゃあれだからさ。車用意しているんだ。詳しくはそこで話そうよ。そうだ、田中くんも来てるよ。彼、あんなことあったらかりなのに本当にタフだよな」
「死ねということですか?」
 声は震えきっていた。小便を漏らしていたかどうかは覚えていないが漏らしていてもおかしくはないだろう。漏らしていたならきっと射精もしていたはずだ。
「それは任せるよ。大人しく警察へ行ってもいい。まあ正直、被疑者としてまともな扱いされるとも思えないでしょ。でもこっちに任せてくれるなら色々と用意はするよ。悪いようにはしないからさ」
 できるだけ楽に死なせてくれるというのだろう。
「なんならこのまま海でも見に行くか?海なんて行ってないだろ。昔一緒に行ってからさ」
 その場合は入水自殺をしたことになったのだと思う。水死の苦しさをなくすために睡眠薬でも用意してくれるのだろう。あとシャンパンも。
「さて、行こうか。どちらにせよ送るよ。田中くんも挨拶したいって言ってたしね」
 番犬が腕を握る握る力加減で歩けと促した。こいつは牧羊犬でもあるらしい。
 部屋を出るとドアの脇で携帯をいじっていた佐々木が声をかけてきた。
「あれ、もう済みましたか。いやあ、今日も安藤さんはいらしていないんですね。嫌われちゃったかなあ」
 佐々木は一人で勝手に笑った。軽口を返す気にはなれなかった。当たり前だ。
 ボスは牧羊犬に向けて顎を軽く動かす。牧羊犬はジャケットの内ポケットから茶封筒を取り出して佐々木に渡した。佐々木は牧羊犬とは目も合わせずに素早くズボンのポケットに突っ込んだ。
 茶封筒の厚さはいつも俺が渡していたのと同じくらいだっただろう。
「じゃ、安藤さんによろしくお伝えください」
 俺の無表情に構わず佐々木はオフィスに戻っていった。
 ボスはジャケットのポケットから電話を取り出してしばらく耳に当てると話しはじめる。
「ごめんごめん、待たせたね。鈴木くん拾ったからさ、こっちに車回してよ。そうそう、裏側の職員用の方ね」
 牧羊犬に促される前に自分で歩き始めた。牧羊犬は予想していなかったのか、奴の手を一瞬引っ張った。すぐに握り直した犬の手に警戒心がこもるのがわかる。
 何も企んじゃいない。むしろ企みは予想通りに失敗したところだ。 
 通用門を出ると台風が雲を吹き飛ばした空はもうオレンジ色になっていた。西側には紺色に色付けされた雲が数筋浮いていた。アスファルトと排気と潮風が漂っていた。
 ボスはすたすたと歩いていく。俺はその後斜め後ろに着いていった。
「どこへ行っていたんですか?もう戻らないと思っていましたよ」
「いつものところだよ。昔一緒に行っただろ。お前が運転覚えたてで冷や冷やしてたよ」
 ボスは顔をちらりと向けて答える。薄暗い中で表情が見えない。
 懐かしいですね。
「本当はもっと早く迎えに来てやるつもりだったんだけどな。ほったらかしにして悪かったよ。でもいいだろ?ちゃんと来たんだ」
 はい、大丈夫です。
 そう呟いた。すぐ横にいる犬にも聞こえなかっただろう。
 いつだって、誰かが迎えに来るのを待っていたんだ。
 ボスも俺にアイスを買ってくれるのか?
 飛行機のエンジン音の隙間を埋める波の音、そして近付いてくる車のエンジン音が聞こえた。

第十七回に続く
隔日更新予定
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