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阿部和重『ニッポニアニッポン』を読んで──幼児性、陰謀論、まったくの無意味
阿部和重作品を読むのは、『グランド・フィナーレ』『インディヴィジュアル・プロジェクション』に続いて三作品目である。
『インディヴィジュアル・プロジェクション』でも味わうことのできた読みやすくかっこいい文体を本作でも堪能することができた。特に終盤の、もうトキのことなどどうでもよくなり、「運命とは、まったく無意味なものだ」と悟り、車に乗り込んでラジオから流れてきた洋楽に耳を傾けている場面は、映画的
書物書簡 三通目 『ソフィストとは誰か?』
2021年1月11日
世季子さんへ
あかふしさんへ
世季子さん、そして青蒼藍碧さん、お手紙ありがとうございました。
最近、僕は家にこもって主に本を読んで生活しています。暇をもてあましているのですが、不安に駆られている時間のほうが長く、自分が暇を十分に楽しめるタイプではないということを再確認しました。ですが、今年もまた、読書会や通話などをして何とか楽しく日々を過ごしていきたいです。
自己啓発か社会批判か
今日は4限からの登校だった。昨日勉強し疲れたのか9時間も寝てしまったので、7時半に起きたのだが、それでも登校までに余裕があった。時間的に余裕があると心にも余裕が生まれる。非常にすがすがしい気分で、毎日このような暮らしができたらいいのにと思う。自分だけじゃなく、労働に苦しんでる人たちが人間らしい生活を取り戻せればいいのにな、と思う。8時間(+残業)も労働する必要ないだろう。どうすれば8時間労働制を
もっとみる啓蒙=矯正という暴力と未成年の肯定は両立するのか
啓蒙とは、誰もが成人男性「になる」ことを前提している成熟の教えである。
ここで女性や動物への生成変化を説くドゥルーズを想起してみせるなら、啓蒙=成熟の教えに対して、一歩手前の地点から啓蒙を思考することを可能にするだろう。つまり啓蒙によって男性「になる」ことができるならば、女性や動物「になる」ことも可能なのではないか、ということである。
丸山真男は「である」ことと「する」ことの論理を区別し
しるしについての覚書
1.
「しるし」とは記号のことであり、同時に単なる記号を超え出たもののことである。
パラケルススは『自然の事物について』のなかで「記号を持たないものはない」といっている。全ての物は記号に結び付けられてあり、だからこそ我々は記号を通して物を認識することができる。しかし、ここで言われる記号は、私達が通常考える記号のそれではない。つまり「コップ」といって、ガラス製で、透き通っていて、水を入れ飲む
2019/11/06
10時ぐらいに起きて朝ごはんにカレーを食べた。英作文の課題をやってからスポティファイでストロークスとピクシーズ、Coccoとフリッパーズギターのアルバムを聴いた。Coccoはいわゆるメンヘラ的な世界観の歌詞を書いているが、メンヘラソング?の走りはいったい誰なんだろう。安易な連想かもしれないが、戸川純とか?
昼はスーパーの弁当をたべてキルラキルを22話から24話まで見た。話のスケールが大きい所がト