観想的/実践的

 僕は現状ほとんど何もしなくていい状態で生活を送っている。課題はあるのだが、そこまで忙しくはない。夏休みみたいな状態だと想定してもらっていい。友達がいるわけでもない人間は、たいてい暇をもてあますはずだ。しかし、余裕をぶっこいている訳にもいかない。よくあるパターンとしては、どうでもいいことをしている内に、夏休みは終わってしまうものだ。不安な気持ちに支配され、焦燥感にかられながら宿題をやったり、何もできずにそのまま終わりを迎えたりするものだ。

 暇な生活とは、身体的に楽ではあり精神的にも安楽ではあるのだが、生きている実感を失いがちだと思う。精神的に不安を抱えていないからといって、逆に不安を抱えていないからこそ虚無が胸に迫る。暇な生活に対してしばらくのあいだは満足していられるのだが、不思議なことに、やがてその満足している状態の退屈さに、満足できなくなったりもする。

 趣味の追求者であれば、やりたいことが無限に湧いて出てくるだろうが、趣味を追求しているだけでは心が満たされない人もいるだろう。僕もそのような人なのかもしれない。もちろん、映画や音楽を聴いて面白いな、美しいな、という感情に包まれることはあるのだけれど、しかしその感傷が案外すばしっこく過ぎ去ってしまい、だからどうしたのだ、という虚無感が残ることがある。

 心の隙間を埋めるものとして、長い生の隙間を埋めるものとして、観想よりも行為・実践に生きがいを見出す生き方がある。広義の意味で労働とも呼ばれる。この2つの種類の生き方は厳密に分けることができない代物であると思うが、さしあたりは、分けて考えてみることにする。いずれ私や、あらゆる存在は消滅するだろうという予測や悲観をみつめたりしても消滅という運命が変わらないのであれば、多少つらい思いをしながらでも目先の労働に追われていれば、年を取り、なすすべも無く死ぬことができ、無駄に思い悩んだりせずに済む、という思考はある種の合理性を備えていると思う。最期の瞬間に、後悔して死ぬか満足して逝けるかは各人次第であろうが、どうせ最後に後悔するのなら今はつらいことは考えないでおこう、という考えはリスクの勘案の仕方にもよるが、合理的な選択になりうる。

 それに対して、死や生き方を見つめずして、ただ生きるだけでは動物の生と変わらない、という意見がある。しかし、そもそも、それらを見つめないで生きようとすることは困難だろう。また、動物の生でいい、と思える人は、皮肉なしに快楽を追求して死ぬのも悪くないだろう。死の間際になって、後悔する可能性もあるが、後悔しない可能性や、事故や発作かなんかで後悔する暇も与えられない可能性もあるから、完全には否定できない。

 人間には感覚の喜びも観想の喜びもそなわっている。他の動物とちがって、感覚だけでなく理性も所有しているからだ。しかし、アリストテレスのように観想の喜びを行為・実践の喜びの上位に位置づけるのは、どうなのだろうか。仮にそうだとしたら、人間は何もせずただ、認識しているのがいちばん幸福なのだろうか? 一定以上の暇は退屈を生み出すし、認識がそれ自体で幸福に寄与しているとも思えない私には、そのような言説に違和感を抱かざるを得ない。

 学問は暇な人間がやるものだという学問認識がある。アリストテレスがいうような純粋な学問が本当にあるかはさておき、言葉の定義上、純粋が、外部に目的を持たず、それ自身の追求を目的とするという意味である以上、純粋な学問は少なくとも生存の必要性に縛られていない人にしか行うことができないだろう。そして生存の必要性に縛られていないのは、日々の生活に心配がない富裕な市民である以上、純粋な学問とは、暇をもてあました市民がやるものということになる。

 たとえば政治学のような実践的要素を含む学問は、原因の追求は蓋然的にとどまってもよく、むしろ当の学問の本性に従えばそのようにあるべきであり、現実の可変的・偶然的な政治体制や国家に対して何らかのアプローチを構想しうる、外部の目的を持ちうる学問であるのに対し、形而上学は、ただ自然の厳密な意味での原因の認識をのみ追求するとされる。

 しかし、形而上学をやる人間の動機といったものを考えてみれば、暇とか不安とか何かネガティブなものからの解放という、自然の純粋な認識の外部にある目的をみてとることができるような気がする。つまり、自然の純粋な認識を追求する形而上学によって、幸福な状態に到れるのだとすれば、その幸福な状態を目的として、形而上学を手段化することも可能なのではないだろうか。この場合、形而上学はある種の玩具として供されていることになり、それはその他の快楽を得る手段と同じ次元に置かれうることになる。そのような意味で、観想の喜びが必ずしも感覚の喜びの上位に来るとはいえないのではないだろうか。つまり、私たちが厳密な意味での自然の原因を知ろうとする純粋な動機によって形而上学をまなぼうとしない限り、純粋な学問としての形而上学は存在し得ないということだ。動機は、純粋な学問の、厳密な意味での「自然の原因」の探求という定義とは関係がないようにみえるが、ここでは定義よりも実質、すなわち、言わんとしようとしていることを考えたい。

 つまり、何がいいたいのかというと、観想的な喜びと、行為・実践的な喜びというものは、さしあたり分けることはできるけれど、それが現実に適さない場合もある、ということで、ここまで一般化してしまうと、主張とすら呼べないガバガバの相対化でしかない。むしろ、そういう相対化よりも大事なのは、どんなタイプの学問をやるにしろ、その学問の本性から帰結するように思われている目的とか想定可能な成果によって分類が可能であるのと同じぐらいには、その学問を学ぼうとする人の動機や、動機と絡み合って意図的にだったり非意図的にだったり生み出される成果もまた決定的なのではないか、ということだ。形而上学以外の学問の目的が成果にあり、形而上学だけは外部に成果を求めない純粋な学問であるという分類の仕方は一見すると確からしくおもえるが、私はそうでもないと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?