雑記

ツイッターの使いかたについて

 それぞれが持つ目的の違いによって、それぞれにとってのいいツイッターの使いかたは変わってくるだろう。勉強法と同じで、万人にとっていいツイッターの使いかたがあるわけではない。

 一方で、悪いツイッターの使いかたというのは、ある程度共通して抽出することが可能だと思う。

 たとえば。一つ目は、文字数制限にあまんじてそれで思考を停止してしまうこと/何かを考えた気になってしまうこと/「やった」感は、実際に一歩も進んでないにもかかわらずそう錯覚してしまうことがあるという点で有害であるといえる。

 二つ目は、ただの紙に記された日記とちがって全てのツイートにいいねやリプライなどの反応がつく可能性を(意識するにしろ無意識であるにしろ)ある程度予期して使っていることである。このことは人の感情の体制、認識の体制をアーキテクチャに適応/馴致したものにする。この点に限らずSNSというアーキテクチャが持つ様々な害悪を回避するために、脱出(Exit)することで、この体制から逃れようとする人たちも表立って目立つようになってきた。しかし、オルタナティブな空間(新世界)が用意されていなければ人はなかなか脱出しようとしないのであり、現在主流のインターネットとは全く違ったありかたのインターネットが出てこない限り、Exitの流れは一時的なもの、個人的な実践にとどまり、新たな公共性が構想されることはないだろう。

 三つ目は、政治的なニュースや時事的なニュース、人々を感情的に惹きつける情報に対して、過度に反応してしまうこと、そのことによって精神の安定が侵されてしまうことがある。これらはすでに常に、過度な反応や不安定な感情が、リプライ、いいね、RTなどの機能によって増幅されてしまったものを受けとることで起こる反応である。

 四つ目は大量の情報がチェックなしに流れてきているにもかかわらず、実際には自分でろくに確認することもなしに、あるいは確認する手段/知識を持っていないなかで、これは正しいだろう/これは嘘だろうという判断をすることが常態化してしまうことである。このこと自体は日常生活においても、全てを懐疑するリソースが人間にはあり得ない点で非インターネット世界においても起こっていることだが、しかしそれが前述三つのポイントと合わせてみると、容易にデマが正しいことになり、事実が嘘だと思われやすい環境が形作られていることになる。

 この事態は、災害時や混乱時に限ったこと、つまり例外的なものであるのではなく、知識の蓄積の増大に従って起こらざるを得ない専門分化の現象の一側面として見ることも可能だろう。人間社会は、もともと一人間が把握しえないほどに複雑かつ広大なものだが、しかしそれを知識によって補い「分かったフリ」をすることすら困難な時代が訪れたということだろう。知識人の難しさは新たなメディアの興隆に深く関わっており、雑誌やテレビなどが主流のメディアだった時代までは、知識人像が、場所性と場所性を超えた公共性のゆるやかな連帯のおかげでかろうじて成立しているように見えたものの、場所性がエコーチェンバー的なものに成り果て公共性へ接続される可能性を喪失しクラスタ化してしまった現代の日本では、安定的で開かれた公共性を参照することが以前より困難になっているために、特定の場所に引きこもるか、かつての公共性の残滓に縋るしかなくなっているのではないか。そして、知識人であることや健全な公共性を諦め、居直り、開き直った人々が蔓延るようになる。

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