啓蒙=矯正という暴力と未成年の肯定は両立するのか

 啓蒙とは、誰もが成人男性「になる」ことを前提している成熟の教えである。


 ここで女性や動物への生成変化を説くドゥルーズを想起してみせるなら、啓蒙=成熟の教えに対して、一歩手前の地点から啓蒙を思考することを可能にするだろう。つまり啓蒙によって男性「になる」ことができるならば、女性や動物「になる」ことも可能なのではないか、ということである。


 丸山真男は「である」ことと「する」ことの論理を区別し、近代化とは、経済活動の広範囲化や流動化などの影響によって、身分制とともにあった「である」の論理から解放され「する」ことの論理にもとづいて行動するようになることだと指摘したが、啓蒙が要請する理性的な「市民」や「男性」という存在に「なる」ことに関していえば、それがまたひとつの暴力的な区別を産むことになるだろう。

 当然のことではあるが、いくら近代化し「である」論理から解放され「する」論理を実践するようになったからからといって、人間社会が存在し、差異が何らかの形で同一性に回収され続ける限りにおいて、「である」は消えさらないのだ。

 それは近代以前の、どの身分のもとに生まれるかという偶然性に基礎を置く身分制社会とはちがって、啓蒙された人間/野蛮な人間という「理性」に基づく分割であり、ある人間が啓蒙されているかどうかということは、その人間の理性の問題であるとされ、この区別の必然性/自己責任性が詐称されるようになるのではないか。ことはあたかも、近代以前の身分制社会において、偶然的でしかなかった身分が必然的であるかのように機能していたこと、否、当時にあってはそれこそが必然的であったということと、似通った事態であるようにも思われる。

 啓蒙的かどうかは本当に「理性」にもとづくのだろうか。私には、その人の「理性」がどうであれ、暗闇の中に自らの魂を置かなければならなくることや、悪をなしてしまうことはあるように思われる。当たり前だが、身分制がなくなったからといって、誰しもが「理性的な成人男性=市民」になることなど、できるはずはないのだ。

 啓蒙/成熟の教えという暴力性を拒否するなら、我々は未成年「になる」ことをどうやって肯定すればいいだろうか。未成年(成人から排除される否定性として規定されるのではなくそれぞれが多様な差異であるような)をそれ自体として肯定し、愛することと、啓蒙/成熟の教えを正義であり、それらの徳を目指すべきであるとして主張することは、容易には両立しえないように思われる。

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