生存書簡 四通目

2019年12月14日

松原礼時さん、幸村燕さんへ


 松原さんからの質問は、「大江とリョサ、サルトルとカミュ、およびソレルスとクリステヴァなどにどのような印象をお持ちでしょうか」とのことでした。大江の『万延元年のフットボール』は中学生の時に読んで衝撃を受けた記憶がありますが、あまり覚えていないので近いうちにまた読みたいと思っています。
 幸村さんからは、「バディウについてお話をお聞かせ願いたいです」というメッセージを頂きました。今回、後期ハイデガーの話につなげてバディウのハイデガー解釈に触れようとおもったのですが、時間と能力的な問題で今回書ききるのは難しいだろうと思ったので、また次回書ければ書きたいなと思っております。

 以下、文体がいきなり変わって論考めいたものを書いています。テーマとしては、戦後思想が話題になっているのでいまいちどポストモダンの源泉になっているハイデガーについて考えてみようと思い、彼の哲学そのものの解釈をするのではなくてツェランという詩人との関係性から見えることについて書こうと思いました。諸事情で用意したプロットの途中までしか行きつかなかったのですが、キリのいい所まで公開しようと思います。

 一通目で実存主義が、二通目で構造主義とポスト構造主義が話題になった。
 サルトル的な実存主義が勢いを失って、構造主義のように主観性から出発するのではなく、現象を構造として把握することでそれらを可能ならしめるシステムを発見し分析するというような手法が主流になっていくにつれて、そこで起きているのは人間学、あるいはHumanismからの脱却である。
 わたしは、思想に対して外野から与えられた、構造主義やポスト構造主義といった名称を使用するのではなく、各々の思想が有しているベクトルの向きによって、いってしまえば、モダンとアンチモダンとの対決構図を作るかたちで、近代と反近代、ヒューマニズムと反ヒューマニズムへの傾向という二極的な軸に従った整理を行いたい。

 そこで鍵となるのが、ハイデガーである。
 ハイデガーは『存在と時間』の著者として知られている。彼をフライブルク大学の正教授にも推薦してくれた恩師である、ユダヤ人教授フッサールの現象学を批判的に継承し、現象学の「ことがらそれ自身へ!」という標語にも表れているように、ハイデガーはその現象学的方法論を「存在」へと差し向けることで、「存在者としての存在」という覆いを剥がして、現象としての「存在そのもの」に迫ろうとした。
 ハイデガーは、そのために必要なのは、現代では「存在」への問いが忘却されており、哲学の歴史自体がこの存在忘却の歴史であるのだから、まずは存在の意味への問いを具体的に仕上げることだという。いま、ここにある現存在を時間性という地平に指しむけながら分析を行うことで、ハイデガーは存在への問いを仕上げようとする。
 『存在と時間』というテクストの難解さには、おそらく既存の形而上学で使用されていた伝統的概念や問題設定を解体しようとする傾向があるために 、たとえば「了解」のような、行為にも認識にも還元できないような存在者のありようをあらわすための言葉が必要になり、その独自の問題設定が既存の枠組みに立脚する思考にとってみれば理解しづらさを生じさせているのではないか、という指摘もある。*1
 このように、ハイデガーの哲学には、道徳や倫理学のような「正義」にまつわる問題や、知や認識に関する「正当化」の文脈の機能を失わせるような側面があり、そのような傾向が『存在と時間』よりもむしろ後期ハイデガーにおいて顕著であることは、ハーバーマスの「体系的哲学」と「啓発的哲学」の区別において特に後期ハイデガーがそのボキャブラリーの変則的な使用という点で後者に分類されるとみなされていることからも明らかである。
 また、逆に言ってしまえば、『存在と時間』にはまだ「体系的」を志向する側面が残されているということでもある。*2
 ハーバーマスの区別を借りて、そこに冒頭でわたしが述べた構図に従って整理してみるならば、後期ハイデガーはその変則的なボキャブラリーの使用とそれによって起こる知の再編成および「正当化」「基礎づけ」の喪失という事態において反近代への志向をみてとることが出来、また『存在と時間』においてもその反近代への志向の萌芽をみることができるといえるだろう。
 ファリアスの『ハイデガーとナチ』以降、なされてきたハイデガー=ナチ論争を追っているとそれだけで書簡は終わってしまうだろうから、ここで敢えて掘り下げることはしない。(興味がある方は平凡社ライブラリー『形而上学入門』の付録になっているシュピーゲル対談を参照されたい)

 わたしが今回着目したいのは、戦後ドイツの代表的詩人であるツェランによる、ハイデガー訪問である。
 その前にまずツェランについておさらいしておく。
 ルーマニア出身で、ドイツ系ユダヤ人の血筋に生まれたツェランは、かれ自身、ナチスによって強制労働を強いられたばかりでなく、両親を強制収容所に送られ、父親はチフスに感染し死亡、母親は射殺された。戦後、パリに亡命し、1952年には、絶滅収容所をモチーフにしたとされる代表作「死のフーガ」を含む『罌粟と記憶』が出版されている。
 アドルノの「アウシュヴィッツのあとで、詩を書くことは野蛮である」という言葉には、文芸の実践をおこない教養を形成することで人格の陶冶がなされるという=人文主義と、人間性や人間が持つはずの理性、人間的権利などを擁護する人間主義との乖離・破綻・矛盾が示されており、表現行為の持つ傲慢さへの批判の意味がこめられているとされている。*3
 しかし、ハンガリー出身のユダヤ人文学者である、ペーター・ソンディによると、アドルノは、晩年にツェランの詩を読んで、自身の宣言が誤りであったと考えるようになったという。*4
 アドルノの「アウシュヴィッツのあとで、詩を書くことは野蛮である」という言葉にいいあらわされているものは、近代と反近代という構図に沿って整理するならば、「人間」の漸進的な進歩という表象の崩壊との直面であり、ヒューマニズムへの信頼の喪失という事態であり、根本的な意味での〈近代〉が有していた価値観への問い直しである。
 そういった局面において、ツェランは自身の生、喪失をどのように引き受け、またなぜ敢えてナチスへの加担の疑惑が絶えなかったハイデガーのもとを訪れたのか。
 ハイデルベルク近郊、トートナウベルクにあったハイデガーの山荘を訪れたツェランは、その時のことを「トトナウベルク」という詩に詠んでいる。


 アルニカ、アウゲントロストの花、
 星型の台のある
 井戸からの一口、
 山荘
 の中で、
 (中略)
 きょう、思索するひとから
 聞ける
 言葉
 心のうちに
 期待して
 
 森の草地、均らされぬまま、
 オルヒスとオルヒス、ひとつずつ、

 さだかならぬもの、のちに、車中で、
 明らかに、

 車を駆る人間、
 ともに耳傾け、
 山の沼地に
 半ばまで足踏み入れた
 丸太の小径、
 湿ったもの、
 多く。*5


 せっかくなので、もう一つ、彼の詩の一部を引用する。
 
 
 頌歌


 ぼくらは かつて
 無であり 今なお無であり 将来も
 無のままであるだろう 花咲ながら──
 無の
 だれでもない者のばら*6


 「頌歌」には彼が、現在のみならず将来にわたって無であり、喪失が癒されることはきっとないだろうという予期を受け止めているようにみえる。一方で、「トトナウベルク」の方には、思索者としてのハイデガーに対するかすかな期待をみてとることができる。

 ツェランは1958年の自由ハンザ都市ブレーメン文学賞においてこうも語っている。

 ……かずかずの損失のなかでただそれだけが──言葉だけが──届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。……しかし、その言葉にしても、それ自身がそなえている答えのなさの中を、おそろしい沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの暗闇の中を通ってこなければなりませんでした。そのようなものの中を通ってきて、しかも起こったことをいいあらわすただのひとことも生みだしはしませんでした。*7

1960年のビュヒナー賞受賞講演ではこのように語っている。

 それはおそらく存在の投企、みずからを先立ててみずからへおもむくこと、おのれみずからをもとめに行くこと……一種の帰郷です。*8

 両親も、故郷も失い、「かずかずの損失のなか」にいるツェランにとって唯一残されたものが「言葉」であったこと。しかし、「言葉」には「答えのなさ」が付きまとっており、それは時に「死をもたらす」弁舌でもあったこと。そして「起こったことをいいあらわすただのひとことも生みだしはしなかった」こと。彼がギムナジウムでの教育のおかげでフランス語もドイツ語も堪能であったにもかかわらず、あえてドイツ語での詩作という道を選択したのは、そのような唯一残されたものとしての「言葉」に縋ることで、故郷の喪失という現実がありながらも、かろうじて詩作に「ひょっとして心の陸地に流れつくことがあるかもしれない」という「帰郷」の希望を託していたのかもしれない。
 この「帰郷」という言葉は、後期ハイデガーにおいても重要な概念のひとつなのだが、後期ハイデガーについてはまた次回書こうと思う。


*1門脇俊介『破壊と構築』p5~7
*2同掲書p8~12
*3福田和也『奇妙な廃墟』p16
*4同掲書p20
*5同掲書p21
*6同掲書p20
*7同掲書p23
*8同掲書p23

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