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『幻想の未来』フロイト

はじめに:宗教批判への入り口

以前フロイトの別の著作を紹介したが、今回は、フロイトが文化と宗教に関して論じた著作を紹介する。

本作では、人間の原始的欲動と、文化維持のための調教手段としての宗教が議題に上がっている。フロイトは、人間の原始的欲動を、宗教によって抑制しようとする当時の現状を非難し、宗教は幻想であるとスッパリと切捨てる。

前回のフロイトの記事でも述べたが、フロイトの多くの理論は後年のエーリッヒ・フロムらの哲学者によって覆されている。しかし、女史は科学の発展の過程として、フロイトの研究を興味深く感じている。

異郷から来た女史が何者か知りたい人はこれを読んでくれ。

そして、女史のnoteをどう読むか、こちらを参考にしてくれ。

文化とは:労働と欲動放棄の強制

文化とは、人と動物に決定的違いをもたらすものである。人は、知能と能力を使用して自然を制御し、自然の財を獲得して欲求を充足させてきた。そして、獲得した財を分配するために必要な制度や規制を設けてきた。これが文化の側面である。

これらの文化を維持するために、人間には労働と、欲動の放棄が強制されてきた。つまり、文化は、財獲得のために人間の労働を必要とする。また、文化を維持するためには、個人が好き勝手に行動することを規制する必要がある、ということである。

大衆と指導者:大衆の調教と弊害

前章で述べた、労働の強制や欲動放棄のための制度を設けるのは、指導者であり、それに従属するのは大衆である。大衆は、常に欲動を抑えて、文化のために労働を担ってきた。

前回女史の記事でも述べたが、人間の本質的欲動を放棄することは、フロイト曰く、不可能である。

故に、大衆は、常に満たされない欲動と葛藤し、文化に対する不満と敵意を募らせてきたとフロイトは主張する。

宗教:幻想と崩壊

ここで、大衆の欲動の抑制に役に立つとされてきたのが、宗教である。指導者層は、大衆のキリストの隣人愛によって争いを抑え、文化維持に努めてきた。実際、ヨーロッパの多くの文化や制度は、キリスト教の教えを基に制定されてきた過去がある。

しかし、ここでフロイトは、宗教は幻想であると切捨てる。

大衆は、あくまでも外面的に宗教的掟を守っているだけで有り、心から信仰している人は少数派であるとフロイトは言う。聖職者は、自分の欲動(利益追求)のために宗教的掟を外面的に行使するようになり、大衆はそれによって踊らされてきた。大衆が変革を求めて不満を募らせているのがいい証拠である、とフロイトは主張する。

宗教は、あくまでも人間が欲動抑制のために作りあげた幻想であり、それが崩れ去った時、宗教を基に作り上げられた制度は崩壊する。

フロイトは、宗教と文化の関係を根本的に変革せねば、文化が崩壊すると予測する。

そして、その関係を変える役目を担うのが、科学であるとする。大衆が宗教という情緒的なものによって操作できる時代は終わった。これからは、科学という理性を基にした制度によって大衆の欲動を抑制し、文化を維持していくべきであるとフロイトは主張する。

おわりに:宗教から科学へ

本作は、フロイトが、人間の文化の本質を研究し、宗教批判と結びつけた作品である。実はフロイトは、徹底した無神論者であり、彼の著作では宗教信仰は神経症であるとまで言い切っている。

かくいうフロイトはユダヤ人の家庭に生まれ、ユダヤ的に育てられた人物でもある。さらに、ナチの勢力がウィーンに迫ってきた際には、ロンドンに亡命するという、哀しい晩年を過ごす。

女史自身、幼少期から徹底した無神論者である。女史の家庭は、仏壇や神棚が家に置いてあるような家庭であった。女史は、幼少期より、家族と宗教的価値観における温度差を感じながら育った。

フロイトが精神分析学的な観点から宗教と本気で向き合い、あらゆる角度から批判する著作は、女史にとって非常に興味深いものである。

*女史は無神論者であるが、宗教を信仰している人に対して批判する気などさらさらない。人が心の拠り所をどこに求めようと、人の勝手である。それが他人に対して被害を及ぼさない限り、社会と個人は、彼・彼女の自由を制限すべきでない。この私の行動規範は、ミルの自由論に基づく。(これも記事を書いているのでご覧あれ)

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