フェアリーエレファント

どうやら僕の彼女は失踪してしまったらしい。戸崎百美、通称モモ。大学生時代から七年間付き合っていた。「らしい」というのも、突然いなくなったのだ。同棲していた家から中学校へ仕事に出るのを彼女に見送られて、帰ったらいなかった。残っていたのはダイニングテーブルの上の置き手紙と、分厚い冊子。 
そのうちの置き手紙にはこうあった。「遠くに行きます。仕事場には辞めるって連絡している。あなたといて、まともじゃない自分が嫌になってしまった。ごめんなさい」。彼女にそんな非難をしたことはなかった。確かに彼女は、時に他人を顧みないこともあるほど自由奔放な性格ではあった。だが僕はそれを否定する素ぶりだって見せたことはない。何せ怒りを覚えたことがなかったのだから。
もう一つの冊子に目をやる。「思い出」、彼女が小学生の時の卒業文集のようだ。中盤あたりに、彼女がよく使っていたムーミンの柄の付箋が一枚挟まっている。初めからパラパラと流し見してからそのページを開く。将来の夢がテーマらしき作文があった。
「冒険家になりたい 戸崎百美
フェアリーエレファントという、伝説の動物がアフリカにいる。小さいころ、テレビでやっているのを見た。百頭もいない絶滅しそうなレアなゾウで、大きさは普通のゾウの半分くらいで小さい。真っ白で、耳だけはダンボみたいに大きくて、(よう精の羽と呼ばれている)とても美しかった。私はいつか、フェアリーエレファントのゾウゲが欲しい。そのために、いろいろな世界を回って旅するぼう険家になりたい。……」
云々。これはどういうことだろう。彼女は、フェアリーエレファントとやらを見つけるために僕らの元から姿を消したということだろうか。
フェアリーエレファント、とスマホの検索バーに打ってみる。すると困ったことになった。ゲームのキャラクターの名前しか載っていないのである。おまけにその紹介されているキャラクターも、彼女の作文に書いてある特徴と同じであるとはいえなかった。要する、に彼女のいうフェアリーエレファントは少なくともネット上では存在しなかったのである。参った、彼女の言いたいことというのがさらにわからなくなってしまった。
僕はテレビでよく録画して観る程度にはクイズや謎解きが好きだから、彼女もその趣味に合わせて問題を出してくれているのかもしれないと思いつく。何か強調されているキーワードでもあるのか。特に丸囲みや太字のその類はない。ページか。書かれていない。念のため両隣付近のページも確認してみるが、そもそも番号すら振られていない。ならば横読みか。フ、や、分、て、そ……なんだこれ。一緒に置いてあったメモと照らし合わせる必要があるとか。例えば「まとも」が「ま」と「も」になって。いやいやいや。ページを透かしてみると何かが起きて……もしかして何か特殊なライトが必要なのか……
お手上げだ。クイズ王かひらめきスペシャリストならもっと頭のいい解法を試しているのかもしれないが、考えれば考えるほど謎解きの線はさらに薄い気がしてきた。それは彼らのようなプレーヤー同士のやりとりとしてなら美しく成立しても、高度な解答力も作問力もない僕と彼女とじゃ互いを苛立たせるだけのものになる危険の方が高い。たまに一緒にテレビを見た仲ならわかっているはずだ。つまり、彼女は本気だということか。本気で、存在しないフェアリーエレファントの象牙を探しに行ってしまったということなのか。
いや。もしかすると彼女は、でっちあげの嘘を振りかざしてでも僕と別れたかったのかもしれない。
僕は大きくため息をついた。怒りによるものではなかった。悲嘆というのも違う。どうすればいいかわからなかったから、ひとまずため息をついたのだった。

うまく行っていたと思う。時折小さな文句の言い合いはすることもあったけれど、それなりに固い信頼関係があってこそのもののはずだった。僕は間違いなく彼女を愛していたし、今日いつもの素朴な笑顔で見送ってくれた彼女からの愛も疑っていなかった。そして、互いを尊重していたつもりだ。
彼女は旅行が好きだった。一年に二回は旅に出る。お金の問題で大体は国内のものだけど、時には海外にも足を伸ばす。まさに三度の飯より旅行が好きというべきか。旅行に関するもの以外の余分な物は一切買わない。料理も安上がりで済ませてくるし、化粧っ気もないし。そして彼女の好きな旅行というのは一人旅行だった。僕提案のものなら二人で行くこともあったけど、彼女の計画する旅行に僕や彼女の友人がいたことはない。必ず一人で、しかも唐突に家を空けるのである。
僕だって、連絡のなかなか取れない彼女に居所を尋ねた際「今沖縄。旅行してる」というメッセージを初めて受け取った時はさすがに驚いた。だけどそれだけ。「言ってよ」と送ると、こんな返信が返ってきた。「そうした方がよかった?」。途端に「まあいいや」とどうでもよくなった。僕はどうも、恋人とは互いの楽しみを共有するべき、という理想論に乗っかってみていただけらしいぞと気づいた。人によってはそれも大切な条件なのかもしれないけれど、僕にとってはそんなに困ることではなかった。むしろ僕は彼女のそういう自由奔放さを気に入っていたから。「その代わり土産話はしてくれよ。あとモノも」と伝えると、サムズアップのスタンプが返ってきて、実際小さなシーサーの置物を持って帰ってきて話をしてくれた。それで充分だった。土産のセンスもよかったし(だいたい置物だった)、何より彼女のする旅行話が楽しかった。
だから僕は彼女と大学を卒業するとき、同棲しないかと提案した。二人でやりくりすることで浮いた家計をその分彼女の旅行費の足しにしてほしいというのと、僕もこれからの遅い帰りでおろそかになるだろう家事を少し頼みたいと思ってのことだった。別に帰ってきた時に用意されている料理が簡単なものでもよかった。どうせ一人暮らしをしていたら、コンビニ飯三昧のより悪い食生活になるというのが目に見えていたから。
──さすがに悪いよ。
──そうじゃなくて、互いのためになるんだ。
最初自身を思いやっての提案だと思い込んで遠慮していた彼女を、僕はそう言って説得した。それで彼女は快諾してくれた。
──それなら、私も助かる。
彼女は自由を愛し、他人に束縛されるのを嫌う人ではあったが、だからこそ他人の自由を奪おうとすることは決してなかった。

僕の彼女に対する思いはそういう明るいものばかりだ。だから束縛した覚えは本当になかった。自由な彼女を見ているのは僕にとっての幸せでもあったから、する必要がなかったのだ。

七年も結婚に至れないことに実は嫌気が刺していたのだろうか。それなら僕も少し臆病になっていた自覚はある。彼女の自由を奪う発言になる気がして恐れていた。それでも一度そういう話を持ちかけたのだが、返事は「まだ、どうしたいかわからないから待ってほしい」という正直なもので。一旦はごく平穏に話が見送られていたのだ。それにあの置き手紙にも、その類のことは書かれていなかった。全く関係ないとは言えないだろうが、根本的なものはもっと別にある気がする。彼女は僕に愛想を尽かしたというよりも「自分が嫌に」なった様子だった。何故。結婚という堅実な選択を取る勇気のなかった男の何を見て。わからない。
わからない。どうすればよかったのだろう。どうすれば、彼女はいなくならなかったのだろうか

わからない。どうすればよかったのだろう。どうすれば、彼女はいなくならなかったのだろうか。
僕は呆然としていた。彼女がいなくなったこともそうだがそれよりも、自分が彼女に対して犯していたかもしれない重大な間違いが、全く見えないことに。

一月の半ばの金曜日のことだった。


半年ほど経って、夏になった。彼女は戻ってきていない。友人の家にもいなかったし、連絡先も知らないので尋ねられていないが、不仲だったという唯一の肉親の母親のいる実家には戻っているということもないだろう。フェアリーエレファントもあれから図書館でも調べてみたのだけど、そんな生物を取り上げている書籍はなさそうだった。愛しているという彼女の話よりもネットや専門家の知識を信じようとする僕の方が滑稽なのだろうか。だがテレビで取り上げられたというのなら、ある程度の人に知られていることと考えていいはずだ。いくらなんでもこれで冷ややかに笑われたくはない。

一ヶ月ほどは隠す努力をしなければならないくらいには落ち込んでいたけれど、もう既にその気丈な振る舞いの方に心身共慣れてしまった。さらに新年度になると初めての担任を持つようになって、仕事に忙殺され、プライベートのことを気にしている余裕もなくなっていた。僕の家のテレビの録画リストには、まだ観られていないクイズ番組やミステリードラマが溜まりに溜まっている。食事も結局コンビニ頼りとなった。

夏休みの最中のその日、僕は一年前から副顧問を務めている吹奏楽部の定期演奏会のリハーサルのために会館に来ていた。吹奏楽部、といっても僕は楽器の類をやっていたことも、器楽を聞く趣味も元々はない。余りとして充てがわれたといったところである。とはいえ、大体のことはせっかくだからと一応足を突っ込みたがる僕の性格は、部活動というものにも順応する。放課後時間があるときは音楽室を訪れて、指揮者を兼任する顧問の皆川先生が演奏に出す指示をメモしてみたり、練習後は生徒のおしゃべりに付き合ったりしてきた。そのかいもあってか、今ではこの空間で過ごすことを実際に楽しんでいる。

楽器ケースのみが席を埋める客席の広報に座って音出しを聞いていると、中ほどにある出入り口が開いて、何やら大掛かりな荷物を背負った初老の男性がえっちらおっちらと入ってきた。手伝おうかと席を立とうとしたところで、彼が見知った人物であることに気づく。
「村田さん」
僕は思わず小さく声を上げた。
「おお、キミは……なんとか君」
モモの勤め先である写真館の店主だった。

午前中のリハーサルが終わり、生徒たちが昼食を取りにいっている間、僕は村田さんと話をした。聞けば毎年うちの学校の活動の撮影を頼まれているらしい。
彼とは一度だけ実際に会ったことがある。モモとの写真を撮ってもらった。もっともそれは彼から「是非に」と呼んでもらってのことだったのだが、できあがった写真は確かにどれも素晴らしかった。なんというか「証」と呼ぶにふさわしい一瞬が切り取られているのだ。それだけに彼女の去ってしまった今の家では、時たまフレームの中のそれが目に入ると不安な気持ちになる。
「フェアリーエレファントって、知ってますか」
簡単な挨拶を終えて少し無言の間ができた後に、僕はそう尋ねた。
「はあ……聞いたことないねぇ」
「モモが残した置き手紙に書かれていたんですけど、調べても出てこなくて」
名字を用いるべきだったかとここまで言ってから気づいたが、その必要はなかったと思い出す。村田さんも彼女のことは「モモちゃん」と呼んでいた。
「ん? 朝井先生、知り合いなの?」
ステージ側から声がしたので見てみると、皆川先生が客席を上ってきていた。僕らの元にたどり着くと、今日はありがとうございます、村田さんに小さく会釈する。
「どうもどうも。ええと、彼はね……」
「あー、いいですよ村田さん。僕の彼女の勤務先の方なんです」
村田さんはちらりと気遣う視線を送ってくれたが、彼には素直に話すことにした。
「ええっ、朝井先生彼女いたの? いや、まあ……いてもおかしくない歳か」
「もしかしてバカにしてます?」
「だってあんた真面目人間だからさ、仕事とプライベート両立するの下手くそそうだもん」
「ひど」
「ハハハ、センセイの言っていることはわからなくもない」
「ちょっと村田さんまで」
僕の苦情をよそに年長二人はニタリと笑い合う。……実際できてなかったらしいから今に至るのだけど。
「センセイ、フェアリーエレファントって知ってる?」
二人は勝手に僕持ち込みの話を始めていた。
「へえ、なんですかそれ。曲のタイトルにあったらメルヘンなものになりそうだなぁ」
結局先生の回答も、ちょっとらしさが入っただけの同じもののようだ。
「だって」
「ですよね」
「朝井先生の話?」
「ええ……僕も実在するのかは疑っているんですけど。普通の半分ほどの大きさの、白くて、耳だけダンボみたいにでっかい象だと」
「ふうん、神秘的だね。いるなら会ってみたいなぁ」
皆川先生がステージを見る目を細める。戦隊ヒーローを呼ぶ少年のような瞳は、二十近く若いはずの僕よりもずっと何かを信じるのが上手そうだった。
「じゃ、僕は譜面の確認もあるしこの辺で」
不意にそう言って、皆川先生は村田さんにもう一度頭を下げた。近くの出入り口へと歩き出してしまう。単に用事というだけでなく、僕に気を利かせてというのもあったと思う。ただの茶化し好きに見えて、実はそのひょうきんさも含めて思いやりのある人なのは、彼の普段の生徒への接し方から知っている。
皆川先生がいなくなると、村田さんは独り言のように語り始めた。
「モモちゃんは本当にいい写真を撮る」
僕ももちろんモモの撮る写真を見たことはあるし、最も身近なファンであるつもりだ。なのに「知っています」という肯定も「どんな風に」という彼女の上司への質問も今の自分がしていいことじゃない気がして、僕は黙って頷くだけだった。確認してもらえるかわからないくらい小さな首の動きだったけど、僕のそれからほぼ正面を向いたままの彼の次のことばまでの空白はちょうどいい長さをしていた。
「風景にしろ人物にしろ、被写体の眼が素直なんだ。山や塔がどんな心で人々を迎えているか、人がどんな志でそこに立っているかが、どうしてだか、ちゃんとわかるんだ」
客席にいる人間の視線というのは、どうしてだか、度々ステージに向かう。僕もそう。たとえそこに演者もスタッフもいない時でも。ただ他に目をやるようなところがないからかもしれないけれど、そこで誰かが演じているときに感じるのとほとんど変わらない熱が、目の奥の方から湧いてくるのだ。
「だけどね、彼らを撮っている彼女の眼は違う。笑ってはいるけれど、それがすごく眩しいものを見るようで悲痛そうでもあるんだ。決して自分はなれないと、カメラで壁をつくっているように見える」
その熱の正体を何というのか、僕にはわからない。
「僕はちょっと人と違っていても、自由な彼女が好きでした」
それでも、彼女に注いでいた愛とは違うもののはずだ。僕は彼女にステージの上に立てるような人間でいてほしいと思ったことはない。定まった場所で大勢から注目を浴びる人でいてもらう必要はなかったのに。
「キミは、本当にいい人だね」
村田さんは穏やかに言う。僕は真逆の位置にいて、ますます増える見えないものに胸をざらつかせていた。
「よくわかりません。自由が好きというのは真面目と正反対な気がしますが」
「だけどキミがそれを勧めるのは、常に自分じゃなくて他人に対してでしょ」
ああ。それは、ぐうの音も出なかった。蜘蛛の糸ほどの光の爪先に、ちょんと刺されたようだ。確かにそうだった。僕は自由の尊さをモモや生徒に説いていただけで、自分がそうでなりたいと願ったことはない。僕には、怖かったのだ。自分が何か願うことで、今ある大切なものに見放されるのが。
「自由はいいものだ。責任が伴うという枷の話はよく聞くが、それでも好きなことができるということほどありがたいものはない。だから、キミの考え方はもちろん悪いことじゃあない」
村田さんは多分僕の恐怖まで知っている。それでも彼は、相変わらず穏やかだった。
「キミは何も間違っていない。真面目で、とても優しい。キミが間違わないからこそ、彼女も間違わないようにしていたのかもしれない」
「じゃあ、僕はどんな人間でいたら彼女を傷つけずに済んだと言うんですか」
冷静には言えなかった。半笑いで、空を引っ掻くようだった。悔しかった。
「それが真面目人間なんだよ」
村田さんはかかかと笑う。
「もう一度言うが、キミは間違っていない。誰の敵にもなっていない。だから、何も改めようとしなくていい。彼女に対してもう正しくあろうとしなくていいんだ」
彼が言うのは「しなくていいこと」だった。「すべきこと」は何なのだろう。そう考えたところで気づく。おそらく彼は、知っていて言葉にもできるのに、あえてそうしなかったのだと。
僕が自分で探さなければいけないのだ。いや、探せることなのだ。他人に縛られることなく、自分の自由を望んで。
僕の瞳が、村田さんの微笑みかける眼を映す。
「ボクはまだ、そのうち彼女がいつもの数倍の写真を引っさげて帰ってくると思ってるよ」

午後の日程の最後に、引退する三年生の記念撮影があった。ステージのひな壇に並んですっくと立つ姿を、僕はまた客席で眺めている。
みんな、笑っている。目を半月に、歯を上品に見せて綺麗に笑う子、反対にそんなに上手くなくて、口角だけを遠慮がちにあげる子。けれども、七五三でカメラマンを困らせてしまう幼子のように全く笑うことができない少年少女はもういない。記念撮影とは笑顔で臨むべきものなのだと彼女たちはわかっている。成長の真っ只中にあるから。身体も、頭も心も。
だけど、君が羨んでいるほど完成した仲間じゃないんだぞ。
僕は姿の見えない僕の彼女を諭してみる。
同級生同士でもギクシャクした関係のところは今でもあるし、後輩に頭を抱えている子もいれば、逆に彼らの陰口に挙げられていた子もいる。何人かは僕ら教員にも文句を言う。去年までは全く練習に来なかった子もいるし、つい一週間前にソロが上手く吹けないと泣いていた子もいる。みんなカメラの前では隠して、あるいは忘れて笑っているだけだ。そういうのがちょっとずつ賢くできるようになってきただけなんだ。
……違うな。
ふと、彼女の背中に語りかけている僕の背中の方から、僕の声がした。
それこそが、彼女にとっては眩しかったのだ。絵画や写真の鮮やかさとは程遠くままならない現実に向かい合い、抗わんとする人たちが。その術にまだ幾多もの可能性のある子どもたちが。そしてその可能性というのは、自由とは少し違うものなのだと思う。

きっと、そこにフェアリーエレファントはいないのだろう。


広い草原に僕は立っていた。大地の緑や空の青の色も、風が巡る音も肌触りも、陽気も、何もかもが完璧で、しかしそれゆえに自分が彼らから隔てられている感覚がある。取り残されないように、大股で歩き出す。サーカスの始まりに響きそうな、愉快で、それでいて魅惑的なラッパの音が聞こえるようになってくる。僕の輪郭がさらに小さくなっていくようで、負けてしまわないようにと呼吸を深くして、腕を振って歩く。
やがて、二色しかなかった世界に二つの影が現れた。モモだ。それから真っ白な象。背は真正面の彼女よりも低いのに、付け根を撫でられている耳だけは地に着くほどに大きくて、儚げな麗しさがあった。
これは、夢だ。その光景を目にしてすぐにわかった。
そしてその瞬間、僕の頭に一年前の春の記憶が脳裏で映画のように蘇った。

──懐かしい。私も習ったわ。
中学二年生の授業に使う「アイスプラネット」という小説の予習をしていたその日。モモは僕のノートを覗いていた。「僕」とそのおじでほらのような話ばかりする居候の「ぐうちゃん」の話だ。
──あ。
彼女が小さく声をあげたのは、物語の結末をまとめていたときだった。旅に出たぐうちゃんから手紙が届く場面。「二枚の写真」と、僕は彼の旅の話が本当であることの証拠となったものについて、そう一言記した。それを見て、彼女はこんな話をしてくれたのだ。
──私が写真を始めたのも、これがきっかけだったのかも。
かも、という不思議な言い回しだった。というのも、彼女自身もその時に初めて気づいたのだそうだ。
──ぐうちゃんの言っていたことが本当だってわかって、ちょっぴり絶望したんだと思う。
なかなかピンと来なかった。僕にとってぐうちゃんのあの手紙は、絶望よりもむしろ、希望に分類されるメッセージだった。授業の主題にしようとしていたのだって、彼の言う「不思議アタマ」をキーワードにした学ぶことの大切さで。
──たとえば彼の話が、夢で見たものの勘違いだったらよかった。ねえ、あなたは思ったことない? 夢は夢のままだからいいんだって。
彼女はそう続けた。僕はますますわけがわからなくなった。「夢は叶えられた方が嬉しいと思うんだけど」、なんとかそう返した。今だってその考えは変わって……いない。
そうかな、と彼女は伏し目で呟いた。
──それが正しいことでも居心地が悪かったら、素直でいてもいい気がしてしまうの。夢って何もかも、ほんとうにするべきなのかな。
そうだ、その方がいい。はっきりと思っていたはずなのに、言えなかった。それを超えにして彼女を傷つけるのが怖かったからだと思う。でも、君みたく今気づいたことのなのだけど、これは僕が教師の道を選んだ理由の一つだったんだ。誰かの夢が「ほんとう」になるのを、応援したい。
あ。…………ああ。
これも、他人に願っていただけなのか。
目を逸らし「ううん」と唸り続けて、逃げていると、ごめん、と聞こえてきた。
──その方が、いいよね。
僕が視線を戻したときには、彼女はへにゃりと笑っていた。一瞬気にはなったけれど、普段のゆるい表情として、あの時の僕は見逃してしまっていた。今記憶にある笑顔は、雨に打たれた花びらのように、こんなにも弱々しく見えるのに。
──わかってる、いけないって。わかってるから、私もぐうちゃんみたいに「ほんとう」を見つけだして映せる人になろうと思った。夢を『ほんとう』にできる側に憧れたの。

「モモ」
僕は彼女の名前を呼んだ。大声だったのだけど、彼女はピクリともしなかった。
──これはぬいぐるみなの。
返事は返ってきたけれど、自分がフィルムの外にいるような感覚が続いていた。声が遠かった。『白き象と女』なんて名前が付いてしまいそうな、芸術作品を見ているようだった。
知っている。そいつは夢の産物だ。そして卒業文集で君が信じていたフェアリーエレファントも、同じだったんだな。その「勘違い」を悟ったきっかけが、ぐうちゃんの二枚の写真だったんだろ?
──本物はまだ見つけられていない。でも探し続けるから。
彼女は、奇妙なくらいに同じリズムで象を撫で続けている。
「行くなよ」
僕は叫んだ。多分、一年前の僕なら選ばないはずの必死なことばと、声音だった。
はじめて、この世界のものが僕のことに注目したような気がした。彼女もその一つで、
「ずるいじゃない、珍しくわがままを言ったかと思えば。夢を諦めろって言うの?」
モモは「ほんとう」を目指そうとしていた。幼かった自分の夢を無きものにして、教科書や僕と同じ存在になろうとしてくれた。それでもこの景色を忘れられなくて、自分が「まともじゃない」と歯がゆくて、投げ出したくなってしまったんだと思う。
「そうだ。君の夢が僕のそばからいなくなるものなら、それだけは耐えられない」
それでも僕はなお残酷に、僕の「ほんとう」を告げたい。僕は確かに夢とか幸せを良いものだと言いながら、誰かに託して満足してばかりだった。それはエゴと呼ばれても仕方ない心で、認めることを無意識に避けていた。でも間違いだったとは、もう思わない。もう、怖くない。君や生徒たちに願うその僕は、紛れもなく「ほんとう」だったのだから。
なあ、信じてくれ。この夢が覚めて君が帰ってきたら、僕も僕の見たい夢や景色をたくさん話すし、案内するよ。君の夢のフェアリーエレファントほど美しいものは見せられないけれど、一緒に感想を言い合えるなんてのも幸せだと思うんだ。

「だって僕は君を」

この記事が参加している募集

スキしてみて

私の物語を読んでくださりありがとうございます。 スキやコメントをしてくださるだけで、勿体ない気持ちでいっぱいになるほどに嬉しいです。うさぎ、ぴょんぴょこしちゃう。 認めてくださること、本当に光栄に思っております。これからもたくさん書こうと思っておりますので、よければまた。