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ウクライナの歴史 スターリンの恐るべき政策

昨日の記事では、
「クリミア危機」を読み解くにあたり、
ウクライナの歴史を振り返ってきました。

話はソ連が東西のウクライナを
併合したところまで進んでいます。

なお、この記事に関しても
以下の参考文献をもとに
書き起こしたものです。

私自身の主張は含めておりませんので、
くれぐれもご了承ください。

スターリンの恐るべき政策

1930年代、ソ連は全面的な
「農業集団化」を
強引に推し進めていました。

ソ連といえば
「社会主義」の国ですから、
一般国民の「私有財産の否定」が
されていたわけです。

ソ連の独裁者・スターリンにより、
農家の私有財産だった
農地、農機具の一切が取り上げられ、
「集団農場」に一括されました。

抵抗する大農場の経営者は
処刑されるという、
かなり強引な政策だったのです。

既にソ連に組み込まれていた
ウクライナでも、
この政策が実施されます。

ウクライナでは、
ロシア革命(1917)以降、
土地が私有化され、
自作農が主流でした。

そのため、ウクライナは、
ソ連の農業集団化に
激しく抵抗しました。

この政策は長きにわたって行われ、
ウクライナでは餓死者も含め、
400万人以上の死者を出した
と言われています。

なぜ、そんなにも多くの
死者を出したのか、
本書でその内訳については、
詳細に語られていませんが、

おそらく、抵抗して処刑された人も
多かったことでしょう。

そして、何よりも深刻だったのは、
大飢饉です。

これは「社会主義」全体の
問題点なのですが、
「集団農場」の件で言えば、

それまで自作農をしていた
ウクライナの農民たちは、
生産手段を奪われ、
集団農場に集められました。

自作農だったら、
働いた分がしっかりと
自分の給料になりますよね。

ところが、集団農場は、
働いても働かなくても
給料は同じです。

やがて、ウクライナ国民は
生産意欲を失い、
国内の生産力が低下しました。

その結果、豊かな環境に恵まれた
穀倉地帯だったはずの
ウクライナは大飢饉に襲われたのです。

本書にあった佐藤氏の発言によると、
’80年代のウクライナでは、
食料危機で、肉屋で人肉(!)が
売られていた時代もあったんだとか。

ウクライナ民族解放軍とソ連赤軍

ソ連の政策によって、
甚大な被害を被ったウクライナでは、

「ソ連よりも
 ナチス・ドイツの方がマシだ」
という主張が出てきました。

やがて、ウクライナでは
第二次世界大戦のさなか、

ガリツィア地方を中心に、
30万人のウクライナ兵がナチス側に
加わったそうです。

ナチス側に加わったウクライナ兵は、
1945年には
「ウクライナ民族解放軍」として、
ソ連赤軍と戦うことになりました。

※ソ連赤軍には、
 200万人のウクライナ人が加わっていた。

なお、極東のサハリンや北方領土に
ウクライナ人が多いのは、
ソ連に不純分子とみなされた人々が
戦後に移住させられたからです。

ナチスに協力した
「ウクライナ民族解放軍」の幹部は、
その後、ソ連赤軍によって、
皆殺しにされました。

ウクライナの東西では、
属した国が異なるため、
宗教の違いもあったと書きましたが、

この頃になると、
その辺の事情にも変化があります。

1946年には、
西部ウクライナで主流だった
ユニエイト教会が、
ロシア正教会と合同させられました。

これに従わないユニエイト教会の人々は、
処刑か、シベリア送りにする政策で、
やはり、ここでもソ連の強引なやり方が
顕著に表われています。

反ソ武装闘争

ソ連によって不純分子とみなされた
「ウクライナ民族解放軍」
「ユニエイト教会」の人々は、

その後、ウクライナの森や山に身を隠し、
「反ソ武装闘争」をはじめました。

この闘争は1950年代のなかばまで
続いたようですが、
秘密警察、ソ連赤軍がこれを鎮圧します。

1959年には、
ウクライナ独立運動の指導者、
ステパン・バンデラがミュンヘンで
KGB(ソ連国家保安委員会)によって、
暗殺される事態に発展しました。

それでもウクライナが
ソ連の支配下に入ることに
反発していた人々は、
海外に亡命していきます。

この時に亡命した人たちの
亡命先としては、特に、
カナダのエドモントン周辺地域が
多かったそうです。

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