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音楽の中の「武蔵野」 ―エレファントカシマシ『武蔵野』について−

 地名を歌詞に組み込む。そこには往々にして大した意味はない。殆どの場合がそうである。そこに意味があったとしても、大抵の場合は作詞者当人の個人的な思い入れであり、またそうである以上、作詞者に対して興味がなくば、特定の地名が入っていようがいまいが、魅力とは言い難いと断じてしまったとしても何も強引ではありはしまい。
 だが、幸い聴き手が歌われている地名についての記憶を持ち合わせている場合。その場合は、当該の地に関する往昔の光景が甦りエモーションに繋がるのには違いはない。とはいえ、それは結局の処、作詞者の使用語彙と聴き手の個人的記憶が偶然重なっただけであり、作詞者の手柄でなければ、その歌詞全体の評価(少なくとも対外的には)には直結しない。

 エレファントカシマシの『武蔵野』はその土地の「風土」そのものが主人公である、という類稀な曲である。作詞者である宮本浩次はこの歌詞に個人的心情を託したのみでは決してない。勿論、素直にそれを描いてはいるが、それ以上に特筆すべきは、「武蔵野」という風土に注目してそれを自身の心情に結びつけつつ、一つの詩的芸術に昇華した事である。

 次に歌詞全文を掲ぐ。

俺は空気だけで感じるのさ
東京はかつて木々と川の地平線
恋する人には 輝くビルも
傷ついた男の 背中に見えるよ

武蔵野の坂の上 歩いた二人
そう 遠い幻 遠い幻

悲しい気分じゃないけれど
ニヒルなふりして笑う男の
電車にガタゴトゆられてたら
まるで夢のように蘇る

武蔵野の川の向こう乾いた土
そう 幻 そんなこたねえか

俺だけ 俺だけ 知ってる

汚れきった魂やら 怠け者の ぶざまな息も
あなたの優しいうたも 全部 幻 そんなこたねえか...

俺はただ頭の中 イメージの中笑うだけ
俺はただ 笑うだけさ

武蔵野の川の向こう 乾いた土
俺達は 確かに生きている

エレファントカシマシ『武蔵野』

以上、歌詞である。一見すれば分かる通り、地質的特徴を述べたものが多い。
 「武蔵野の坂の上」というのは、これは「ハケ」の事を述べている。武蔵野台地は多摩川へ向かって狭山丘陵から傾斜をなしている。そして、随所に「崖線」と呼ばれる小さな崖が点在している。その崖を境にして急な坂道を形成している。大岡昇平は恋ヶ窪近辺のハケ舞台にした恋愛小説『武蔵野夫人』(一九五〇年)を書いた。
 「武蔵野の川の向こう乾いた土」は具体的に関東ローム層を指している。かの土は元火山灰故乾きやすくまた赤褐色である事が特色である。「赤羽」、「赤坂」、「赤塚」などの地名があるのは地質的特徴の現れと言っても大きく外れてはいないだろう。
 この歌詞中に地質的特徴とは一見思われないような「武蔵野」の特徴もある。それこそが歌詞の中で何度もリフレインされる「幻」である。宮本はいたずらに「幻」という単語を挿入した訳では決してなく武蔵野文化を知っている上でそうしたのであろう。
 天保年間に出された『江戸名所図会』なるものが存在する。江戸各地の名物を時に図入りで説明してくれる地誌である。そこにおける「迯水」の項を紐解けば「武蔵野の名物」とある。そして『日本国語大辞典』には「春や夏のよく晴れた日、地面が異常に熱せられて水蒸気が立ち、水たまりあるいは流水のように見える現象。近づくと水たまりも先の方へ移って、逃げるようにみえる。武蔵野の名物とされた。地鏡。《季・春》」との説明があり『角川古語大辞典』には「蜃気楼現象の一種」と見える。
 よって「幻」とは光の屈折現象・蜃気楼の譬喩表現であると言える。となると、『ライフ』に収録された「マボロシ」の「郊外のあの丘」はやはり武蔵野を指している可能性が高いといえよう。
 余談だが、観世元雅による四番目物『隅田川』の末尾において亡き子の霊が立ち現れるというシーンがあるがこれもまた「迯水」の見せた幻である可能性もない事はないのではあるまいか。

 縷々、宮本浩次作詞による「武蔵野」の歌詞を「武蔵野文化」という観点から覗いてみた。ここまで広がりのある歌詞をただそのままではなく、宮本自身の心情と結びつけロックミュージックとして成立させてしまう彼の手腕は一寸他に出来る者がいようか。
 近はかくの如き作品も創らなくなった(最後に歌詞観点から類似している曲はRAINBOW収録のシークレットトラック「歩いて行く」)が、またいずれその日が来るだろう。

(了)

 

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