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『はて知らずの記』の旅 #5 福島県・福島(文知摺観音・松原寺)上

(正岡子規の『はて知らずの記』を頼りに、東北地方を巡っています。)

山の上の神社

 福島駅の東口には芭蕉と曾良が立っていた。信号を待つ間、写真を撮ろうかと、銅像の前でポケットの中にスマートフォンを探ったが、やめた。これは芭蕉ではなく子規の足跡を辿る旅なのだ。
 百貨店が消えた空虚を右に見ながら進んだ。大きな通りにぶつかった。信夫通りと云った。左に折れて北上した。けやきの樹が並んでいた。
 行く手には緑の斜面が見えている。福島市のシンボルと云ってよいだろう、信夫山だ。
 はるか昔、福島盆地は湖だった。そこに、信夫山の高まりが、島のように浮かんで見えた。それでフクシマと呼ばれるようになった、と聞いたことがあるが本当だろうか?
 一〇分ほど歩くと、建物の背が低くなった。かわりに空が広くなった。

 子規は七月二四日に福島に来ている。

福島の郭外、小さき山一つ、横たはれり。これなん信夫山といふ名所にて、其の側に公園の設けありと聞きしかば、そことなく、そぞろありきす。十二日の月澄み渡りて、青田を渡る風、涼しきに、空しく町に帰る心なければ、畦道づたひに迷ひ行くも、興ある遊びなり。
 笛の音の 涼しう更くる 野道かな

『はて知らずの記』

 子規は夜、散歩に出たようだ。
 現在はアスファルトの硬い路面で覆い尽くされているが、当時この辺りは田圃だったのだろう。
 信夫通りは、山にあけられた孔に吸い込まれていた。

公園は山麓稍高き処にありて、監獄署と相並び立てるは、地獄極楽の双幅を並べ懸けたる心地す。上る事、少時にして、平坡の上に出づ。月は大空にありて、四方の山峰、紗を被りたるが如く、福島の町は、それかと許り、足下に糢糊たり。

同上

 トンネルの手前で右折した。山に威圧するような高さはなく、街中に置かれた屏風のようだった。
「監獄署」とは刑務所のことだろうが、それは消えていた。かわりに税務署と検察庁の建物があった。所有権は公権力内で引き継がれたのだろう。コンクリートの高い土台の上に立つ検察庁の白い建物は、威圧的だった。

《信夫山公園 開園一五〇周年》
 ステージの横断幕に、そう書かれていた。
 子規が書き残しているように、この公園は当時から存在した。
 公園は山の斜面に沿って造られていた。
 上を目指した。
 アカマツの姿が目についた。土から出て、ニョッキ、ニョッキと赤い幹を見せていた。
 公園が尽きた処が、平らな土地になっていた。ここが子規の云う「平坡の上」かどうかは不明だが、ひと区切りの感じがした。振り返ると、赤茶けた吾妻小富士と対峙する形になった。福島の街は、吾妻連峰の緑の懐に抱かれているように見えた。

開園一五〇周年の信夫山公園

「平坡の上」は神社のラッシュであった。
 黒沼神社・福島縣護國神社・信夫山天満宮が集まっていた。
 最も立派なのは護國神社だった。
 案内板によれば、創建は明治一二年(一八七九)である。
《現在の社殿は昭和十二年に造営され、戊辰の役から大東亜戦に至るまで、国家平安のための御英霊六万九千余柱をおまつりしてあります。》
 まるで靖国神社ではないか、と思った。市ヶ谷の地名と、大村益次郎の像が泛んだ。
 全国各地にある護国神社は、その土地・土地で、靖国神社のような役割を担わされているのかもしれない。
 子規がここに立った時、護國神社は存在していたはずだが、触れられていない。
 一八九三年はまだ日清戦争も始まっていない頃だから、まつるべき英霊の数も少なく、神社の規模もウンと小さかったのかもしれない。

福島縣護國神社の案内板

石と伝説

 翌二五日、子規は荵摺(しのぶずり)の石を見に行っている。
 これは歌枕の「しのぶもぢずり」にちなんだ石だ。
 聞いたことはあるが、「しのぶもぢずり」とは何なのか?
 自分の調べた限り、これは染物の名称だ。
 信夫(しのぶ)、つまり現在の福島市あたりで古代に生産されていた。
 布に草花を押しつけて色をつけるのだが、その時に作業台として大きな石が使用されていた。それが「しのぶもぢずり」の石だ。布には石の模様が出た。
 その石がなぜ有名になったかと云えば、次の歌があるからだ。

みちのくの しのぶもぢずり 誰故に 乱れそめにし 我ならなくに

 百人一首に出て来る歌だ。詠み人の河原左大臣は、源融(みなもとのとおる)と云う。
 この歌には次の伝説がある。
 融がこの地を訪れた時、宿を提供した長者の娘・虎女(とらじょ)と契りを交わした。融が帰京した後、恋慕の思いに堪えかねた虎女は、再会を祈って「しのぶもぢずり」の石の表面を麦草で磨いた。するとそこに、融の面影が彷彿と泛んで見えた。やがて病に伏した虎女のもとに、融の詠んだ歌が届けられた。それが、「みちのくの……」だったと云うのだ。私の心も貴女のために乱れていますよ、と。
 ここから、「しのぶもぢずり」の石を麦で擦ると、意中の人の顔が映る、という迷信が生じた。
 これに関して、石を見に来た芭蕉が面白いことを書き残している。

石半ば土に埋もれてあり。里のわらべの来たりて教へける、「昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべるを憎みて、この谷に突き落とせば、石の面下ざまに伏したり」といふ。さもあるべきことにや。

『おくのほそ道』

 迷信を試すビジターによって麦畑が荒らされてしまうので、怒った村人が石を突き落としてしまった、その結果、石の表(おもて)面が下になってしまった、と。
 これが、芭蕉も子規も見に来た「しのぶもぢずり」の石なのである。
 ちなみに「もぢずり」は、「捩摺」とか「文知摺」とか「毛知須利」などと表記されるが、あて字である。自分は音の響きから「文字」を連想し、石には何か文章が刻まれているものと思っていたが、誤りであった。石には何も書かれていない。

 信夫山の裾を回って、東へ向かった。
 途中、阿武隈川に架かる橋を渡った。もちずり橋と云った。
「文知摺」というバス停を過ぎたが、ローマ字表記は「MOCHIZURI」だった。
 地名は、濁らない「ち」で統一されているようだ。確かにその方が発音しやすい。

文知摺のバス停

 文知摺観音・普門院は、住宅が尽きた先の低い山を背にしてあった。
 小さな橋を渡って境内に入ると、正面に祭壇のような物が見えた。
《早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺り》
 高い位置に、芭蕉の句を刻んだ石碑がまつられていた。

段上に小さく黒く見えるのが芭蕉句碑

 問題の石は、祭壇の裏にあった。

其後に、柵もて囲みたる高さ一間、広さ三坪程に現れ出でたる大石こそ、荵摺の名残となん聞えけれ。

『はて知らずの記』

 と子規は書いているが、柵は無かった。
 石、と云うより岩は、低い紅葉の樹々に囲まれて、大きな熊のようにうずくまっていた。
 地面に接する足元は、シダのような植物の葉に蔽われていた。
 頭の方は、苔の緑がはりついていた。
 高さは、自分の身長を少し超えていた。
 これは人の力では動かせない、と直感した。村人を何人集めたとしても無理だろう。
 上方を見た。
 ああ、あそこから落としたのだな、と思われるような崖は無かった。
 岩の表面に手をつけてみたが、ザラザラ・トゲトゲしており、とても鏡のように何かが映るとは思えなかった。
 岩の下の面は平らのように見えた。岩と地面の間に、黒い隙間が見えなかったからだ。
 しかしそれは、岩の面が平らなためなのか、氷山の一角と云うように、岩の尖った根が地中に埋もれて見えないだけなのか、判別がつかなかった。
 人の顔が映った、は嘘。
 村人が落とした、も嘘。
 しかし、表の面が下になった、はもしかしたら本当かもしれない。
 伝説は、真実では決してないが、完全に嘘というわけでもない、との印象を、モノ言わぬ熊は与えた。

伝説の石

 境内は、岩を主役に造成し直した感があった。
 岩の位置をホームベースとみなして、一階・二階・三階がある小さなスタジアムのような立体的な構造をしていた。
 三階の奥は、ちょっとした庭園になっていた。
 池があり、ツヤツヤの蓮の葉が水面を埋めていた。
 芝生の広場があり、茶店でも開けそうなほど、よく手入れされていた。
 所々に、和歌をはじめとした詩歌を刻んだ石が設置してあった。
 寺というより、ちょっとした屋外美術館、歌のテーマパークといった感じがした。
《涼しさの 昔をかたれ 荵摺》
 子規の作も、三階に見つけた。
 資料館は別だが、境内に入るだけなら無料だった。
 どこかから潤沢な助成金が出ているのかもしれない。
《東宮殿下行啓記念碑》
 見上げるような碑が直立していた。
 東宮殿下とは大正天皇のことだろうか、昭和天皇だろうか、平成の天皇だろうか。
 平成の天皇が訪れただけでは、これほど立派な碑は造らない気がした。
 もちずりは、皇室との縁も深そうだった。

(次回に続く)

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