見出し画像

『はて知らずの記』の旅 #9 福島県・二本松(黒塚・満福寺)下

(正岡子規の『はて知らずの記』を頼りに、東北地方を巡っています。)

岩と杉の集積体

 橋を渡る。
 阿武隈川である。
 欄干に「安達ヶ橋」とあった。
 橋の上から黒塚が見えるはずだった。
 車の来なくなったタイミングで、反対側の歩道に移動した。
 左手前方に、法隆寺かと思うような五重塔が見えた。
 川の上にさしかかった。
 水の中に鯉の形が小さく見えた。

 黒塚は、流れの直ぐ傍にあった。
 見間違えるはずもなかった。
 大きな水位計の裏に、高い杉の樹が直立していた。
 樹の周囲の半分ほどを、瓦屋根のついた塀が取り囲んでいた。
 拍子抜けするほど、あからさまだった。
 周りには、ほかの樹が一本も無かったからだ。

 橋を渡りきって、樹の傍へ下りた。
 樹の根元は、こんもりと土が盛り上げてあった。
《黒塚》と縦に彫られた黒い石が突き刺さっていた。
 案内板は「安達ヶ原鬼婆伝説」として、②の能の内容を伝えていた。
 いわく《祐慶は阿武隈川のほとりに塚を造って鬼婆を葬り、その地が黒塚と呼ばれるようになった。》

 堤防は丁寧に草刈りがされていた。
 塚のすぐ横で、球技ができそうだった。
 ちょっと綺麗に整備しすぎではないか、と思った。
 何かもう少し、おどろおどろしいモノを想定していたのだが……
 ここに鬼婆の死骸が埋まっているとは想像し難かった。
 これだけ川に近ければ、洪水のときに流されてしまうだろう、と思った。

阿武隈川の堤防から見下ろす黒塚

 次に確認すべきは鬼婆の岩屋である。
 岩屋は、観世寺(かんぜじ)という寺の境内にある。
「安達ヶ原大福屋」なる和菓子店の前の角を折れた。
 寺の入口は、すぐにわかった。
 門の下に《鬼女伝説の霊場 奥州安達ヶ原 黒塚》と書いた金色の文字が光っていた。《入口 有料》とも書かれていた。

真弓山観世寺の入口。見えている林の下に岩屋がある。

 受付の箱の中に、暇を持て余しきっていると見えるおばさんが居た。
 拝観料四〇〇円を財布から出した。
「史料館の説明の準備をしておきますから。いつでもどうぞ」
 おばさんは言って立ち上がったが、意味がよくわからなかった。住職が直々に説明してくれるのだろうか。
 はあ、と曖昧な相槌をしておいた。
 他に客はいないようだった。

 岩屋は入口のすぐ横にあった。
 実は、すでに門の外から姿の上半分は見えていた。
 それは、奥多摩の山中に見るような岩と杉の集積体であった。
 岩の種類は火山岩と思われた。
 集積体の縁を、ぐるりと一周した。
 大きな岩が、交通事故を起こした車のように重なり合い、積み上がっている。
 どうやって定着したのか、硬い岩の上から杉が伸びていた。
 鬼婆が棲んでいた、とのことだが、人が入り込めそうな空洞は無かった。
 椎茸の笠のように空中に浮き出ている岩もあった。しかし、雨宿りはできても、その下に眠るような広さは無かった。
 ここに人は住まないし、旅人が訪れて宿を乞うこともないだろう。
 これが鬼婆の住処、というのは嘘である、と直感した。

 集積体の各所には「甲羅石」「祈り石」「夜泣き石」「芭蕉休み石」などの名称と説明が掲げられていたが、盛っている、という感じがした。
「出刃洗いの池」と名づけられた緑の水貯めもあったが、これなどは山主の趣味の延長線上に造られたものではないのか。

 裏手には、岩に寄り添うようにして如意輪観音堂の木造の建築が置かれていた。
 ここには、祐慶が鬼婆退治に使用した如意輪観音像が祀られているという。
 中を覗いてみたが、像は閉じられた箱の中に収められているのか、姿を確認できなかった。箱の装飾にも金色が使われていて、歴史あるもののようには見えなかった。

人を殺めたる凶器

 観音堂の向かいに、《宝物史料館》と書かれた倉庫のような展示室があった。
 入口が開放されてあり、そこから女性アナウンサーのような声が漏れ聞こえていた。
 受付のおばさんの云った「史料館の説明の準備を……」の意味がわかった。
 音声は、寺の縁起を繰り返し伝えていた。
 館内は、一室だけのシンプルな造りだった。
 ガラスケースの前に腰をかがめた。
 祐慶が鉦(かね)として使用していたとされる黒い石と槌が置かれていた。
 ほう、と思いながら見ていると隣に、
《石斧(石器時代)》とあり、滑らかな石が置かれていた。
《先土器文明期で金属の使用を知らず、石の器具を使っていた時の遺物》
 それは、そうであろう。この寺は石器時代の遺跡でもあったのか。
 それに続けて、
《鬼婆岩手が生活の一部に利用していた石おの》
 と書いてあった。
 ん?
 鬼婆は何時代に生きていたのか。
 隣の展示物に眼を近づけた。
《縄文式土器(縄文時代)》とあり、土の器が箱に収まっていた。
 いわく《鬼婆岩手が水等を入れて使用していたかめ》。
 隣には《弥生式土器(弥生時代)》とあり、表面のなめらかな土器が二つ置かれていた。
 いわく《老婆岩手が穀物類を蓄えるのに用いた壺》。
 ここに至って、この史料館のノリを知った。
 やる気あるのかッ、と言いたくなった。
 もう少し頑張ってくれよ。
 他にも、
《老婆岩手が常食に用いていた茶碗》
《妊婦恋衣の赤子の肝を入れた壺》
 白い紙の上に、錆びきった細長い鉄の塊が置かれていた。
《出刃包丁 人を殺めたる凶器》
 もはや主語さえ消失していた。これは警察マターではないのか。
《鍋 薬草や人肉等を煮た器》
 何でもありのようだった。

 史料館は、寺の縁起についても伝えていた。
 それは、②能と③浄瑠璃を都合よくつなぎ合わせたような内容だった。
 受付で渡されたパンフレットから引用してみよう。

ここ安達ヶ原の「鬼婆」は、その名を「岩手」といい、京都の、とある屋敷の乳母であった。永年手しおにかけて育てた姫の病気を治したい一心から、「妊婦の生肝(いきぎも)を飲ませれば治る。」という易者の言葉を信じ、遠くみちのくに旅立ち、たどりついた場所が、この安達ヶ原の岩屋だった。
 木枯らしの吹く晩秋の夕暮れどき、伊駒之助・恋衣と名のる若夫婦が一夜の宿をこうたが、その夜、身ごもっていた恋衣がにわかに産気づき、伊駒之助は薬を求めに出ていった。
 老婆「岩手」は、待ちに待った人間の「生肝」を取るのはこの時とばかり、出刃包丁をふるって、苦しむ恋衣の腹を裂き「生肝」を取ったが、苦しい息の下から「私達は小さい時京都で別れた母を探して歩いているのです。」と語った恋衣の言葉を思い出し持っていたお守袋を見てびっくり。これこそ昔別れた自分のいとしい娘であることがわかり、気が狂い鬼と化してしまったという。
 以来、宿を求めた旅人を殺し、生血を吸い肉を食らい、いつとはなしに「安達ヶ原の鬼婆」といわれるようになり、全国にその名が知れ渡った。
 数年後の神亀三(七二六)年、紀州熊野の僧「東光坊祐慶」が安達ヶ原を訪れ、部屋の秘密を知り逃げた。老婆すさまじい剣幕で追いかけてくる。東光坊今はこれまでと、案座す如意輪観音の笈をおろし、祈願するや尊像は虚空はるかに舞い上って一大光明を放ち白真弓で鬼婆を射殺してしまったという。

 能と浄瑠璃をつなぎ合わせたような……と書いた意味がおわかりだろう。
 ②能でも③浄瑠璃でも鬼婆は死んでしまうから、両方を立てようとすれば、どちらかでは生かさなければならない。
 寺の縁起は、③を先に配置していた。
 すなわち――老婆はわが娘を殺してしまったと知って発狂し、鬼婆と化した。それで人肉食をするようになった。そこに祐慶が現れ、鬼婆を退治して黒塚に葬った、と構成した。
 そうすることで、能のファンと浄瑠璃のファンのどちらをもガッカリさせないようにした……に違いない。

 寺の縁起が刻まれた木版も展示されていた。それには「宝暦一四年」とあった。
 近松半二の浄瑠璃初演の二年後である。
 だから寺の縁起は、あの荒唐無稽なドタバタ劇の内容を踏まえて作られたのだろう。老婆が求めていたのは「月影を映した胎児の血潮」ではなく、「妊婦の生肝」に変えられていたが。

 文献を再度、時間順に示せば次のようになる。

①歌物語『大和物語』および『拾遺和歌集』
②能・謡曲『黒塚』
③浄瑠璃『奥州安達原』
④観世寺両尊の縁起木版

 ②は①を踏まえ、③は②を踏まえ、④は③を踏まえて作られている。展開すると、④は、①②③の全部のせ、といったところか。
 とすると伝説の源は結局、「陸奥国の安達ヶ原には鬼がいるらしい」という平安時代の噂、に絞られそうだ。

鬼婆が住んだとされる岩屋の一部を見上げる

(次回に続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?