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金印について~後日談、亀井南冥のその後~

金印の鑑定によって亀井南冥はその名を上げました。

同時に彼が館長を務める西学問所甘棠館の評判も上がります。ただし、そんな南冥の評判を快く思わない人達もたくさんいました。

もともと市井の身だったのが、士分に取り立てられたのです。

江戸時代は階級社会でしたし、身分の差異を明確にする朱子学派の学者達にしてみれば亀井南冥の存在は疎ましかったようです。

学問の派閥争いを発端とした甘棠館と修猷館の確執も残っていました。

そもそも、実践を重んじる徂徠学のほうが、実際に藩の政治に関わることになる上級武士達が学ぶべきであり、理論や身分の上下を明確にする朱子学こそ、下級武士が学んだほうが良かったのだと思います。

そういった意味では修猷館と甘棠館という二つの学問所は、歪な構造でした。

さて、元号が天明から寛政に変わると、亀井南冥の周囲の雲行きは怪しくなっていきます。

まず幕府では老中田沼意次が失脚し、松平定信に変わりました。 

松平定信は商業優先だった田沼時代を引き締めます。

松平定信は八代将軍徳川吉宗の孫で白河藩藩主でした。

天明の大飢饉でも藩内から一人の餓死者すら出さなかった手腕を見込まれての老中就任で、祖父の吉宗にならって質素倹約を柱とした寛政の改革を行います。

亀井南冥も白河候と呼ばれていた松平定信の老中就任には期待していました。

ところが、松平定信は寛政異学の禁を出します。

これは、幕府が公認とする朱子学以外の学問を禁じるという御触れでした。徂徠学派の亀井南冥にとっては、手痛い政策です。

この寛政異学の禁ですが、実際は幕府の政策に随った藩はそんなに多くはなかっのではと言われています。

江戸時代は地方分権ですから、幕府の直轄地や譜代大名の藩はともかく、外様の藩などは独自の政策を行っていました。

ただ、福岡黒田藩は初代黒田長政の時代から、徳川よりでしたし。さらに七代藩主黒田治之を一橋家から養子に迎えた時から、将軍家とのつながりが強くなっていたため、幕府の政策に随うことになったと思われます。

さらに南冥の後ろ盾であった家老の久野一親が亡くなります。

そして南冥は依頼されて書いた太宰府政庁跡地の碑文に、勤王思想(朝廷を敬い、幕府体制を否定する)を思わせる文字が含まれていたという理由で、甘棠館館長を罷免させられます。

さらに自宅謹慎の命を受けます。

この碑文は大正3年に改めて建立され、今も太宰府政庁跡に残されています。

実はこの事件が一つのきっかけとなり幕末に福岡で勢力を持った筑前勤王党の人達や、彼らが母体となったと言われる政治結社玄洋社のメンバーから「筑前の勤王思想の祖は亀井南冥先生に有り」と言われることとなります。そして「理屈より実践」の精神も受け継がれていきます。

さて、南冥の謹慎は何年にも及びました。その間にも南冥は事件を起こし、気が狂ったとまで言われるようになります。

そして甘棠館は設立から14年後、唐人町を襲った火災で、甘棠館は隣接していた南冥の自宅ともに全焼します。

この火事の話を日田で聞いた広瀬淡窓は、すぐに亀井家に向かいました。

そして火事の現場について見たのは。焼跡に筵をひいて塾生達と酒盛りをしている南冥の姿だったそうです。
(火事で自宅と学校が焼けたら落ち込んでそうなものですが、このエピソードからも亀井南冥がどういう性格だったのか、わかります)

火事で焼けた西学問所の再興を黒田藩は許可しませんでした。学生は皆修猷館に編入することになります。

甘棠館の訓導(先生)だった人達は、学閥の違いからか修猷館の訓導になることはなく、引退するか城代組平士(様々な雑務に就く下級武士)に編入させられたそうです。

南冥の長男であり、甘棠館四天王の一人として名文家と讃えられた亀井昭陽も平士となりました。

そして彼は様々な雑役をこなしながら、父南冥の著述の出版に力を注ぎます。そして、亀井南冥の学問や教育方法は「亀門学」と呼ばれるようになります。

次回からは南冥の息子、亀井昭陽が書き、当時名文と言われた「烽山日記」について書いていきたいと思います。


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