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シンガーソングライター広瀬淡窓

晩年の広瀬淡窓は「西海の詩聖」と呼ばれていました。

今でも詩吟という漢詩に節をつけて歌う芸能がありますが、広瀬淡窓は「詩吟の祖」と言われています。

詩吟は漢詩に節まわしをつけて詠んだのが始まりで、淡窓の師である亀井南冥も独自の節まわしで詠っていました。(現在でも亀井神道流という詩吟の流派があります)

江戸時代の著名な漢詩人である頼山陽や菅茶山もそれぞれの節まわしで漢詩を詠っていましたが、広瀬淡窓の節まわし(作曲)が塾生達によって全国に広められ、現在の詩吟のもととなったのです。

彼の作詞である「桂林荘雑詠書生示(けいりんそうざつえい、しょせいにしめす)」の2首目「休道の詩」と呼ばれる詩は、現在でもよく歌われるベストヒットです。

この漢詩は4首で構成されていて

1、生徒が各地から集まってくる様子。
2、塾の寮での生活の始め
3、在学3年目、故郷の両親を思う
4、卒業していく塾生へ、卒業後の戒め。

と構成されています。2首目である「休道の詩」はあまりに有名なので、ここでは省きます。

自分としては1首目のほうが好きで、特に「両筑双肥前後豊」この言い回しが凄いと思います。

幾人か笈(きゅう)を負いて 西東自(よ)りす
両筑 双肥 前後の豊(ほう)
花影簾に満ちて 春昼(しゅんちゅう)永く
書生 断続して 房櫳(ぼうろう)に響く

九州各地から生徒が集まってきた。
春の昼は長く、花の影がすだれに写り
塾生の声が、部屋に響いている

地図で見るとわかるのですが両筑(筑前、筑後)、双肥(肥前、肥後)、前後の豊(豊前、豊後)の中心地が日田となります。

当時、日田は街道が集まる交通の要所でした。だからこそ天領(幕府直轄地)だったのです。

咸宜園が成功した背景には、こうした地理的要因もあったのだと言えます。

さて、広瀬淡窓は咸宜園での授業の中に作詞と詩吟を導入していました。(現代でいえば音楽の時間です)

彼は詩を学ぶ意味をこう書いています。

「詩は人の情を述べるものである。詩を好む人は人の情がわかる者である。詩を作ることで、情に溢れ、穏やかになり、偏屈でなくなる。それこそが、詩を学ぶ意味です」

知識だけでなく、情操教育も必要だと言っています。また、作詞の真髄についてはこう詠っています。

歌詩は情性(じょうせい)を写す
詩は人を現すというが

実は民俗に随(したがい)いて移る
時代にしたがい変わっていくものだ。

風雅は一体に非ず
変らないものはなく

古今(ここん) 固(もと)より多岐なり
今も昔も多種多様である

作家 時変に達し
詩は時代を読み

沿革 互いに之有り
つなぎ、変わり、繰り返す

苟(いやしく)も敦厚の旨を存(そん)すれば
それでも真心さえあれば

風教 維持す可(べ)し
それは、人の心を打つのだ。

表現が時代とともに変化していくのは当然だとして、詩は時代を読むものだとしながら、それでも最終的に人の心を打つのは、自分の「思い」であると。

これは、現在でもあらゆる芸能に通じることだと思います。


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