病弱な広瀬淡窓を癒したネコ、そして妹の存在。
江戸時代を代表する教育者である広瀬淡窓は、ネコ好きでした。
彼は多くの著作や日記を残していますが、日記にはネコの話題も出てきます。
日記に出て来るネコの名前は、麿墨、村雲、三星、白雪などです。
名前から察するに、麿墨は黒ネコ。三星は三毛、白雪は白ネコでしょう。村雲は難しいですが、サバトラだったのではないかと勝手に推測しています。
麿墨が亡くなった日のこと。子猫を拾ってきて、白雪と名づけたこと。白雪がどこかに出ていって、帰ってこないことなどが日記には記されています。
江戸時代の儒学者と呼ばれる知識人は猫を好んで飼っていたそうです。
彼らにとって何よりも貴重なのは本ですが、その本をダメにしてしまう動物がいます。
ネズミです。
そこで、ネズミを退治する猫を儒学者達は飼っていたのだと思います。
広瀬淡窓は大阪や江戸へ出て、儒学者として名を成したいという思いがありました。これは、当時の知識人共通の夢でした。(今の芸能界と同じですね)
ですが、病弱であったためその夢は絶たれてしまいます。
そんな病床の彼を慰めたのがネコたち、そして彼の看病をしていた妹の有(あり)でした。
妹の有は、淡窓の病が治るのなら自らの命を与えるという誓願をかけ、仏門に入ります。
彼女の誓願は叶い、淡窓の病は落ち着きますが、彼女自身は流行り病で命を落としてしまいます。
妹の有が亡くなった日のことを、生涯一の悲しみと書き残しています。
実は妹が亡くなる直前、広瀬淡窓に亀井昭陽からのつてで彦根藩への仕官の話がもたらされていました。
当時の彦根藩の当主は13代目井伊直中。彼の息子が15代目藩主となり、安政の大獄を指導した井伊直弼でした。
一度は承諾した仕官の話を断った淡窓に、師であった亀井昭陽は怒りますが、事情を知ると「それはやむなし」と言ったそうです。
もし、広瀬淡窓の妹が流行り病で命を落としていなかったら、彼は彦根藩に仕官していたでしょう。そうなれば幕末の情勢も変っていたかもしれません。
歴史とは様々な人物が影響を与え合いながら、築かれていくものということです。
もう少しだけ広瀬淡窓のことを書きたいと思います。
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