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明日死のうが今日の希望


zornさんの「いたいのとんでいけ」の一節。

生きようの綺麗事よりも明日死のうが今日の希望

毎日を生きていると、何かあったとき、別に何があったわけでもないとき、色んなタイミングであぁ死にたい、と思うことがある。
毎日毎日、一体私は何をしているんだろう。。もういいや。。という気分になることもある。

衝動的に、Amazonでロープをポチったこともあった。
Youtubeで調べた首吊りロープの結び方。
ロープは結ばれたまま、無造作にクローゼットに置いてある。

沼の中にいる時、なぜか死について考えると安心する。
生について考えるより、死について考える方が、心が落ちつくのだ。

あぁ死にたい、、あ、けどとりあえず、片付けなきゃ、、あぁ死にたい、、けど、今はお風呂入らなきゃ、、あぁ死にたい、、けど寝る時間だ。。まぁ布団に入るのは楽だし、とりあえず寝よう。。
明日死のう、、そう思って眠りにつく。
そして翌朝、少し回復している自分がいる。
一日を終えた頃、疲れが溜まってまた死にたいと思ったり、思わなかったり。
それの繰り返しだ。

死にたい、は、心の痛み・炎症、だと私は思っている。
体が痛い時、人は休もうと思えるし、それはまぁしょうがないと思えることが多い。
心が痛い時、なぜか人は余計に頑張ろうとしたり、ここで休むのは自分が弱いせいだ、なんて思ってしまう。

事故などの外傷で骨折した人には、なんて脆い骨!骨を鍛えろ!筋トレだ!動かした方が早く治るぜ!なんて言わないのに、
いじめや悪口で心が折れた人には、弱い、本人にも責任が、、とか言う。
ズダズダになって、死にたい、痛い、と叫ぶ心にギプスをつけるどころか、もっと頑張れよ!もっと楽しいことした方がいいよ!生きろ!なんて言う。

折れた骨では歩けない。折れた心では楽しめないのだ。

生きようより、明日死のう。

心が痛い時どうすればいいのか、明確な答えは私にはまだ見つかっていない。
心を傷つけるものが言葉や体験なのだとしたら、心を労わるのも言葉なのかもしれない。
うまく言えないのがとてももどかしいが、
ただ、この言葉で、私の心はなんだか和らいだのだ。

いたいのとんでいけ。






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