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“書く事”は暴力である―それでも僕は拳を解かない

物心がついた頃には既に生来の“記録癖”がすっかり覚醒していて、毎日何かしらを画用紙に記録していた。

近所の公園の花壇で見たチューリップ、道端をビスケットの欠片を背負って闊歩するアリンコの行列、夢の中で見た、ハートの顔をしたゆるキャラが生活するファンシーなメガロポリス……目にしたものも思いついたものも、何でもかんでも見境なく、小さな手の中に唯一おさまる角の丸い蜜蝋クレヨンで描き残しては悦に入っていた。

「フミちゃんは将来画家さんになるのかな?」

周りの調子乗りなオトナにそんな事を言われた日もあったが、僕は気がついたらクレヨンを鉛筆に持ち替え、シャーペンに持ち替え、パソコンのキーボードに持ち替えてあれよあれよと十数年。小学生で本格ミステリに目覚め、中学生でライトノベルの存在を知り、高校生で日本文学を浴びるように読んで以降、絵ではなく文章で見たもの、聞いた事、思いついたものをいちいち書き残すようになっていった。

と、こんな事を書いている傍からアドレナリン大放出でキーボードを打つ手が四つ打ちビートを刻み出す感満点なのだけれど、何よりも文章で物事を書き記す事を愛する変態である反面、僕にはものを書く時に常日頃心に刻み込んでいる言葉がある。

「“書く事”は暴力である」という言葉だ。



最近個人的にアツいWebメディアがある。

朝日新聞社が母体となったWebメディア『かがみよかがみ』だ。

基本的にはエッセイを編纂して毎日掲載するスタイルを取っているメディアなのだけれど、その執筆者は少数の連載企画以外殆どいわゆる素人さん、一般の二十代の女性が中心になっている。大手の新聞社が手がけている割にはなかなかインディペンデントなこのサイトでは、“女性のコンプレックスをアドバンテージに”をテーマに、沢山の女性が自分自身のコンプレックスと向き合ったり、自分のコンプレックスを愛せるようになったり……と言った体験や想いを綴った率直でエモいエッセイをこれでもかと言う程読める。

僕は性自認においては正確には一般的な「女性」ではないのだけれど、女性の身体を持って生まれついたことによって得られた良い事も悪い事も勿論沢山あるわけで、だからこそこのサイトに日々集まってくる、ヒリヒリするような女性達の切なさや苦しさ、楽しさ、愛おしいという感情等々にとても胸が苦しくなったりハッピーになれたりとにかく支えられ、共感する事も多く、四の五の言わずに全人類性別を問わず一度目を通してみてくれ!という気持ちでいっぱいなのだ。

僕自身も是非エッセイを投稿したいと思って編集部主催のイベントにも足を運んだのだが、僕みたいな中途半端な性自認のヤツも心に“二十代女子”がいるというただそれだけですんなりと受け入れてくださった懐の深さにも感銘を受けた。



だからこそ、このサイトに掲載されたとある記事がいわゆる“炎上”してしまった事が、とても悲しく、悔しく、ひたすら残念だった。



問題となったのは、今年11月20日に掲載された、社会学者上野千鶴子氏と読者ライターさん達による対談記事だ。この本文中の上野氏の発言に、いわゆる“風俗のお姉さん達”、セックスワーカーの方の仕事を貶めるような印象を受ける言い回しがあり、そこに批判が集まったのだ。


この件に関して、僕は最初正直「責め立てるんなら発言者本人だけを責めろや!!!メディアはあくまで媒介でしかないやろ!!!」とちょっぴりおこだったりしたのだけれど――無論、この記事に対して向けられた批判は尤もであるとは僕も思う。どのような仕事にだって貴賤はないというのが僕の哲学であるし、セックスワーカーの方がする性的行為はその動機がお金であれ快楽であれお客さんに提供される立派な“サービス”だと思うので、上野氏が対談内で述べたような「肉体と精神をドブに捨てる」ような行為であるとは僕は思わないからだ――、かしだなさんという方がこの記事に関して執筆されたnoteを読んで、考えを改めた。

かしだなさんは、記事内でこの“炎上”案件を、職業差別やフェミニズム的な観点からではなく、あくまでももっとフラットな、普遍的な目線から捉え、わかりやすく解説してくださっていた。何故この記事によってこのメディアが批判されたのか、メディア側はその批判をどのように受け止めるべきなのか、といった視点からの解説だ。

僕は決して頭の良い人間ではないのでかしだなさんがこの文章の中で伝えたかった事をどこまで汲み取る事が出来たか自信がないのだが、彼女の書かれた文章を読み、編集者という存在には、メディアに掲載される“個人の発言”にある程度のブレーキをかける、という、とてもとても重大な責任があるのだと改めて感じたのだった。特に、『かがみよかがみ』のような個人の“自分語り”を受け止める事で成り立っているメディアにはその責任がより重く存在するんじゃないか、と。


これは先日掲載された、『かがみよかがみ』編集長の伊藤あかりさんによる、件の記事に関する謝罪を兼ねた意見文を読んだ際に投下した僕のツイート。別に、「この意見は誰かを傷つけるかもしれないからダメ!」「過激な言い回しは火種になるから×!」と過剰にゾーニングしろと言いたい訳では決してないけれど、僕が最初に思ったような「喧嘩したいなら敵に直接殴り掛かれよ!暴言吐く場を設けたヤツは関係ねェだろ!!!」という意見は正直暴論だったのだなあ、と今は反省している。過激な事を言いたいひとに拡声器を手渡した側も、責められても仕方ないのだ。いっそのことこの日本で拡声器持って過激な事言って良いのは椎名林檎と常田大希だけって法律でも作れば良いのかもしれませんけどね。



冗談はともかくとして。

今回この件について考えている時、自分自身が編集職に就いていた時期の事をふと思い出した。

僕は二年程前に医療系の情報サイトの編集部に派遣社員として籍を置いていたのだけれど、当時いわば同業他社である医療系情報サイトがトンデモ記事を掲載してしまって色々と問題になってしまったのだった。勿論僕が当時籍を置いていた会社が運営していたメディアにも火の粉が飛んできて、毎日編集作業に追われ続けた。

当時出火元となった記事はそれはそれはトンデモ中のトンデモで、たとえば「肩こりの原因とは?」みたいなよくある凡庸な健康豆知識記事の中に「肩に霊が取り憑いているのかも!?」みたいなセンセーショナル通り越してオカルト案件な見出しがあったりしたわけだけれど、たとえ内容がごく真っ当であったとしても素人ライターがコピペで記事を量産し、専門家の監修も名目ばかり、なんて記事が当たり前のように乱立するインターネットでは、きっと誰もが震えて眠る地獄の季節だったのだろうな、と今となっては思う。

僕が籍を置いていた会社では記事の監修を現役のお医者さんにお願いしていたのだけれど、「改めてエビデンスを確認すべし!」との編集長の鶴の一声を受けて、言われるがままに必死に医学書とにらめっこし、サイトにアップされている記事ともにらめっこし、にらめっこし通しで眼輪筋ガチガチの生活を送っていた。当時は文字通り編集のへの字もわからなかったので言われるがままに頑張っていたわけだが、その会社を退社してからフリーライターとしての仕事により力を入れるようになった事をきっかけに、この“炎上”案件の真の重大さにやっと気がついたのだった。



世に放たれた文章には、たとえその内容がどのようなものであったとしても、誰かを傷つけたり、大きな不利益をもたらしてしまう可能性が存在している。誤った情報や歪んだ思想をいかにも正しい、世間一般で“正解”とされているものであると読み手が思い込んでしまう事で、読み手の生命すら脅かしてしまう危険性だってゼロではないのだ。

最近は特に「生きづらさ」を感じているひとに向けられた文章が注目を集める風潮が強くなっているのもあり、元来「書く」「編集する」という拳を行使するひとの多くは、自分を過剰に弱いと思っているところがあるように思える。昔っから“文豪”と呼ばれるようなひと達は往々にしていわゆる社会不適合者で、ある種、その繊細で過敏で危なっかしいあり方でしか存在出来ない自分自身の心を守るために拳を行使していたのだと思う。

だけれど、たとえその拳がどんなにか弱く細く、奮うフォームもふにゃふにゃで到底敵を打ち倒す事なんか出来ないように見えたとしても、それが拳である限りは当たり所によっては、相手に致命傷を負わせてしまう可能性だってないとは言いきれないのだ。小さく薄い掌で、爪も短く、打撃を繰り出せば指の骨の方が折れてしまいそうな拳をむやみやたらに振り回し続ける僕達は、それでも誰かに暴力を奮う心得を確かに知っている。



僕はいわゆるノンバイナリー、日本で言うところの“Xジェンダー”なのだけれど、これまであまり自分のこのややこしい性自認について文章で表現しようとは思ってこなかった。その覚悟がなかったのだ。

往々にして、決して一般的ではない性自認や性的指向、性的嗜好などを持っているひと――セクシャルマイノリティ、とでも言えば良いだろうか――が自分自身のものの考え方などを言葉で表現すると、そのひとが所属しているひとつのカテゴリ(たとえばノンバイナリー、ゲイ、バイ、異性装を好む女装子さんや男装女子など)に所属するひとみんなが、その発言者が言葉にしたのと同じような考え方を持っていると思われてしまいがちに思う。つまり、僕がXジェンダー(ノンバイナリ―)として自分の意見を発した場合、僕の意見がまるで“Xジェンダーの代表的な意見”であるかのように受け止められてしまうリスクがあると言う事だ。たとえ僕自身にそんな気はなくても、「このイガラシってひとの意見よく理解出来るなあ……もしかして、私もXジェンダーなのかも……」「このイガラシってヤツの意見全く共感出来ねえな、俺もXジェンダーのはずなのに…もしかして俺はXジェンダーじゃないのかもな……」なんて、僕の書いた文章を読んだひと達の頭を無益に悩ませてしまう危険性があるのだ。僕にはそんな重たい責任を請け負えるほどの筋力はないと思い込んでいた。卑怯な僕は責任から目を逸らし続け、“音楽ライター”と言う唯一の肩書きを笠に着て好き勝手な事ばかり書いていた。

でも、そもそもジェンダーについての文章に限らず、物書きである僕につきまとう責任は、どのような文章であったとしても等しいものなのかもしれない、とも思う。音楽ライターとしての仕事だってきっと同じだ。とある楽曲の、またはとあるミュージシャンの素晴らしさを伝える文章を書く事になったとして、結局はそこに記されるレビューは自分自身の主観でしかない。どんなに書いた内容を客観視し、幾度も推敲を繰り返したとて、そこに記された「好き」は「(※個人の感想です)」に過ぎない。だけれど、然るべき場所で世に放たれた瞬間に、それは“世間の絶対的評価”であると読み手に捉えられてしまう危険性を孕んでしまう。それはある意味で権威だ。僕は権威を手にしている。これまでも全力でその権威をむやみやたらに振り回す拳として使わないよう意識してきたつもりだが、時々どうしても怖くなってしまい、せっかく仕上げた原稿を半分以上泣きながらデリートし、書き直す夜を迎える日もこれまでに何度もあった。

それでも、どんなに責任を負うのが怖くても、僕達は書かずにはいられないのだ。何故なら、書く事でしか世界と繋がれないからだ。そして、そういう人種は一定数、意外と身近にいる。


文章で記さずにはいられない。目にしたものも思いついたものも、何でもかんでも見境なく、書き記しておかずにはいられない。好きなものへの愛、執着、目下の悩み、決意、恋心。何でもかんでもとりあえず言語化して、稀にそれなりに美しい世界が描けたらめっけもん。物好きな誰かに読んでもらえたら、と密かに祈りながら茶色い小瓶に手紙を詰めて海に浮かべるようにインターネットの大海原へと放流する。


これは、この前僕が不意にTwitterに投稿したら、TLの邦ロックオタク仲間やお絵かきマンに非常に共感してもらえてとても嬉しかったツイート。彼/彼女達もきっと僕達と同じで、絵という媒介を通さずには世界と充分に触れ合う事が出来ないのだ。息をするように絵を描き、排泄するように文章を書く、物語を書く。そうしないと愛情も敬意も苦しみも快楽も、脳味噌の中に無益に蓄積されて腐敗していってしまう気がする。だから、今も僕は一生懸命に、もうすぐ日付の切り替わる布団の上で指を動かしている。



僕達は書かずにはいられない。だからこそ、問い続ける必要がある。自分の言いたい事はこの言い回しで本当に正しく伝わるのか。誰かを不用意に傷つける危険性はないか。自己批判のつもりで発した自虐が、罪も関係もない誰かを傷つけてはいないか。過剰なゾーニングをするのではなく、自分の伝えたい事を、伝えたい相手に、名も知らぬ無数の共感者に、出来る限り正確に伝えられる文章になっているだろうか。

誰かに向かって拳を奮えば当然、自分の拳にも傷がついて血が出る。無茶苦茶に拳を振り回してしまえば、指が折れて二度と拳を作れなくなってしまうかもしれない。



たとえ誰かを守るために奮った拳であったとしても、殴りつけた相手も赤い血の通う人間なのだ。それを忘れないように、胸の奥に刻みつけ、僕達は日々鍛錬を続けないといけない。

弱々しい拳を狂ったようにサンドバッグに叩きつけ、時に鏡と見つめ合い、フォームを再確認し、打撃の反動で跳ね返ってくるサンドバッグによろけながら、それでも僕は今日も、書き続けている。

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