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自分について”書く”ことと、”書かせる”ことのあいだで考えたいこと

朝日新聞が運営するウェブメディア『かがみよかがみ』において、11月20日に公開された社会学者上野千鶴子氏とライターの対談記事がネット上で批判を浴びている。


上野千鶴子が、労働である「セックスワーク」とプライベートなセックスとを並置し、前者を「肉体と精神をドブに捨てる」行為だと否定的な言葉で説明した。批判の焦点は主にそこにある。

今回の批判において強く発言している方もメンバーに含まれるSWASHが編集した『セックスワーク・スタディーズ』(日本評論社/2018.9)には、社会的にスティグマを押し付けられてきたセックスワーカーが、それらが正当な労働とみなされず、非難の対象になるか、あるいはその人自身の意志や主体性を尊重されずに「かわいそうなひと」としてスティグマ化されてきたこと、それゆえに安全な労働環境の整備が遅れ、差別の対象になってきたことが論じられている ※1。

 「男に求められてするセックス」ではなく、自分の意志と主体性に基づく能動的なセックスに価値を置くストーリーを取っている該当の記事において、劣位に置かれるセックスの例として、「セックスワークと少女売春」が挙げられているのは、例として不相応であるだけでなく、差別意識とスティグマの再生産に結び付きかねない。これまでの歴史的に行われてきた抵抗と闘争を思うと、今回のこの記事に寄せられた批判は、至極真っ当だと思う 。

 しかし、なぜ本メディアが先の発言の掲載を許容することになってしまったのか。そう問うときに、「内面化された無意識の差別意識」や「知識の不足」、「編集の甘さ」だけにその原因を集約してよいのだろうか。もちろん上記は常に自分自身に問い続けなければならないとてつもなく重要な問題であり、それを些末だと言いたいわけではない。ただ私が危惧するのは、今回の件を『かがみよかがみ』という一メディアの落ち度や、参加者の無知、差別意識の糾弾に終始し、その結果正しいフェミニズムとは何か、という教条主義的にもなりかねない議論に回収されてしまうことによって、被批判者が自身の手と頭で考える余地を奪い、より改良可能なレベルの問題に落とし込める道を閉ざしてしまうことである。まさに今、そのようになってはいないか。

本件の炎上には、“書く”ことで、あるいは“書かせる”ことで自らと他者の居場所を作ろうとする「自分語り」メディアが陥る問題が顕れていると思う。そのことについて可能な範囲で考えてみたい。

”自分について書く”ことが時に見失わせるもの

 他愛もない私の他愛もない言葉がかけがえのないものになる。そのことにたいする憧れと執着は、決して鼻で笑うことができないくらい、現代において大きな欲望を成している。その欲望が託されてきたのが良くも悪くも「エッセイ」というジャンルだったのではないか。
 自分自身の言葉を自分自身で綴ること。自分の輪郭と存在を言葉によって確かに把握し、書くことで理解すること。それは、自分の中の起点となり、安易な自己否定に振り回されることなく、自分の価値を認め、時には社会的抑圧に対する抵抗の手段になる。
 だが、「他愛もない私の他愛もない言葉」を「かけがえのないもの」にするには、常に自分以外の誰かに読まれること、見出され、他人から評価されることが往々にして避けられない。それゆえ、「他愛もない私の他愛もない言葉がかけがえのないものになる」ことへの欲求を明け透けに掲げることは、ためらわれがちである。どういうことかというと、「わたしは他者からの承認を得るために書くのだ」と、あけすけに言って回ることはなんとなく自意識まみれているようで恥ずかしいと思ってしまうからだ。
 だがそういった社会常識的恥じらいの感情とは別に、「わたしは他者からの承認を得るために書くのだ」と口にしてみるときになんとなく感じる居心地の悪さがある。それは、「書くことによって他者に認められる」ことを目指すことよって、ヒエラルキーの構築に加担してしまうことに対する抵抗感であると思う。(うーん、ややこしい言い方だな。)
  まず、書くことによる承認のプロセスにおいて、≪書こうとする→書くことができる→他人に読まれる→他人から「よい」と言われる≫この4段階があると考える。書くことでよりよくなろうとすること。それをここではさしあたり「書くことまつわる上昇志向」と呼んでみる。
 だが、この上昇志向の段階の背景には常に、≪書こうとしない人→書くことができない人→読まれない人→「よい」と言われない人≫、すなわちより劣位に置く対象が発生する。つまり、各段階において“それができない人”を想定することになる。そして、「書くことができるようになりたい」と願い、結果、「書くことができた」とき、“それができない人”に対して一抹の優越感を抱いてしまうことがある。差異化と差別化が常にヒエラルキーの構築と親和性が高いことは、書くことにおける承認のプロセスにおいても無縁ではない。つまり、”「書くことによって他者に認められる」ことを目指すことよってヒエラルキーの構築に加担することに対する抵抗感”とは、「書くことによる承認のプロセス」の上昇志向における競争的側面に対する抵抗感のことである。平たく言えば、誰かよりも抜きんでたいという欲求を自身の中に見出すとき、そこには妙な居心地の悪さがある。そのことだ。
 だが、そんな「書くことができた人」が自分よりも劣位に置き、乗り越える対象とみなす“それができない人”とは、必ずしも明確に顔と名前を持った自分以外の他者であるわけではない。
 つまり、「隣のクラスの〇〇さんはできないけど私はできる」「〇〇さんは書けないけど私は書ける、〇〇さんは愚かだ」というような、明瞭な他者が想定された、絵に描いたような蔑視がそこにあるとは限らないということ。名前と顔を持った”誰か”が想定される隙もなく、直ちに差異化の対象とされるのは、往々にして、”過去の自分”だ。
 今のダメな自分から、書くことができる自分へ。書くだけの自分から、それが読まれる自分へ。そして褒められる自分へ。つまり、「書くことによる上昇志向」の背景にあるのは、≪書こうとしない自分→書くことができない自分→読まれない自分→「よい」と言われない自分≫であり、そこに根付いているのは、過去の自分に対する断続的な自己否定だ。その自己否定と克服への力動が、「書くことにおける承認」における上昇志向のエネルギー源になる。そして、過去、すなわち今の自分を否定する(し続ける)ことで、よりよい自分になるために書き続ける。常に”過去の自分”を否定し、書くことで克服し続ける。
 それ自体が悪いといいたいわけでは決してない。しかし、書くという行為の中身が「自分」で充足してしまうことは、今まさにそこに存在する明確な他者に対するまなざしを失う危険性がある。つまり、「書くことができない(過去の/今の)自分」しか見えなくなると、「書くことができない/書こうと思わない他者」を想像しなくなる。たとえ想像できたとしても、その他者は単に「書くことが"できない"」人、すなわち能力の優劣に基づく他者認識に終始してしまいかねない(「書けないかわいそうな人」)。その時、「自分の意志によって書かないことを選んでいる他者」、つまり自分が持っている欲求を持っていないような自分とは相いれない存在を想像することは難しくなる。これは、書くことにおいて「自分」の存在が膨張し、それ以外の存在に対して盲目的になる状態だといえる。

 そんなとき、「過去/今の自分」についての否定的な認識と語りが、自分とは異なる、それでも確かに存在する「他者」に対する否定へと流れ込んでしまうことがある。それが該当記事において起こっていると思う。
 該当記事においてある参加者は、過去に金銭を受け取って性行為をしたこと、男に求められることに価値を置いてセックスをしたこと、この2つの「昔の私」のエピソードを挙げ、そこからの脱却と、よりよくなった今を語る。
 その乗り越えられた「昔の私」が、本記事においては上野によって、「セックスワークや少女売春」と重ねられてしまっている。過去の自分に対する否定的な語りが、明確に顔を持つ今まさに存在する他者に対する否定へと、非常に曖昧に接続されてしまっているのだ。これは上野の発言によるものであるため、参加者を批判するのではない。だが、なぜこの重ね技が本メディアにおいて許容されてしまったのか、それを考えるときに、過去の自分への否定的な感情を書くことを通して乗り越えることを推奨するこのメディア自体の特質を考えなければならない。
『かがみよかがみ』は、「私のコンプレックス」を「私のアドバンテージにする」ことをテーマに、一般女性のエッセイ、すなわち「自分語り」を募集し掲載している。自分の中の負の側面、苦しみ、生き難さを突き詰め、書くことによる自己肯定を目指すこのメディアは、「書くことにまつわる上昇志向」をかなり露骨に押し出すことを引き受けていると思う。そこでは肯定されるべき「自分」だけでなく、否定されるべき劣った「自分」、「”弱い自分」というものの存在感がとてつもなく大きい。つまり、「”弱い”自分」に充足しやすいメディアだったといえる。ゆえに、否定的な自分語りが自分の範囲内をせり出し、安易に重ねるべきではない自分とは異質な存在である明確な「他者」に対する評価へと流れ出てしまうことに対して、無自覚になってしまったのではないか。その時、”弱い私たち”像が肥大化し、自分は誰かを脅かすはずがないと思ってしまう。自分が誰かの脅威になる可能性を度外視してしまう。今回の発言が許容されてしまったのは、自己肯定のために自己否定的言説を扱う本メディアの、「”弱い”自分」を肥大化させやすい体質ゆえであると考える。

 私はこのサイトがスタートした当初コンセプトを読み、このサイトは、この社会で誰にも目を向けられず、自己否定を抱える女性の声を、たとえどれだけそれが自己満足的、自己閉塞的だとしても、この世界にかろうじてその居場所をつくろうとしているメディアだと思った。私はそのビジョンに共感を持っている。ただ、「自分」を語るときにその背後には常に明確な顔と名前と肉体を持った他者が常にいやおうなしに含まれるということへの繊細な配慮と想像力を引き受けることができていなかったのだと思う(※2)。
 しかし今回の件を『かがみよかがみ』の自己責任に回収して終わらせたくないのは、私自身が、確かな顔と名前と肉体を持った他者に対するまなざしを失わずに、自分について語る、そのことの難しさを、そして、そのようなメディアを作ることの難しさを思うからだ。

”書かせること”の権力性にどれだけ自覚的であれるか

 私は自身が発行する同人誌で、編集長を名乗っている。今回の炎上の件を見て、自分のメディアにおいても無縁な問題ではないと思い、背筋が凍った。
 私が作る同人誌は、個人的なこと(生活)と、社会的なこと(批評)、その隣り合う共存を目指している。その点で、「自分語り」的な内容を認める立場にあるし、私もたくさん書いてきた。それは、自分の個人的な事情の探求を突き詰めた先に、広く自分以外の他者や、社会に接続する可能性を信じているからだ。しかし、だからこそ余計に、「自分語り」が他者への想像力の欠如へとつながってしまう危険性を常に恐れていたし、今私が作る雑誌において、それに対する対応に十分かというと答えに窮してしまう。また、その歯止めとなるには、私個人の力は大変不足している。
 つまり今回の一件は、安全な自分語りが可能なメディアをいかに作るのか、という問題だと思うのだ。当事者性を根拠とした自己表現が乱立する現在において、それを考えることは大きな意義があると考える。
 本稿で安全な自分語りメディアの構築についての答えを提示することはできないが、一つ考えるべきは、”書かせること”への権力性に対して、編集者が、いいかえれば”場の主”が、どれだけ自覚的であれるか、という点にあるのではないかと思う。
 これを考えるとっかかりとして、結局「自分」かい!という突っ込みを覚悟して、4年前の2015年、私が自身のFacebookページに書いた文章を晒したい。

時々、言われることがある。
「カシダさんはほんとーに話を聞いてくれるねえ」と。
(いえ、私は決して聞き上手ではないことはみなさんご存知かと思うのですが、ごくたまーに、いらっしゃるのです)
その時私は大きな喜びを感じるが、
その直後に喜びよりももう一回り大きな切なさを感じる。
もしかすると、誰かに自分の話を聞いてもらいたくて仕方ない大学生ってたくさんいるんじゃないか、と。
きっと、誰かに何かを表現したくて仕方ない大学生、たくさんいるんじゃないか、と。
「自己満足」
って言葉は良く出来たもので、自己が満足している、っていう単なる状態説明なのに、なんかマイナスなオーラをびんびん放つんですが、なんででしょう。
自己満足、って言葉が、自分の表現をいかに萎縮させているか。これは考えてみるとちょいと恐ろしいです。
表現の場をなんとか見つけられた人はまだ、いい。でも、自分の大きな表現思考の小さな小さな当てどころを探して彷徨っている人も、きっとたくさんいて。当てどころが見つかんなくて、ただ、自分の脳みそをじんわり手のひらで温めながら眠る、そんな人も、たくさんいて。
きっと、私も。
努力が足りないよ!って言われりゃ、それまでなんだけど。
そんな人になんらかの当てどころを作れないだろうか。紙媒体がいい。落ち着いて、考えて、書けるから。書きたい人、募集中。
ぼん!と二ページなにしていいページを与えたら、あの人はなに描いてくれるんだろ?って人、たくさんたくさん、いる。

(2015年11月20日Facebookタイムラインより)

 この前、ふとこの記事を読み直したとき、強烈に恐ろしいものを感じた。
 この人は、「誰かに自分の話を聞いてほしい」のに「表現の場」を見つけられない、自分以外の誰かの、救世主になろうとしている。そして、その救いたい”誰か”の中には「私」も含まれている。つまり、救いたい他者と、救われたい自分の差異がここでは非常に曖昧で、融解しているのだ。
 この当時の私自身のことを思い返してみて即座に気づかされるのは、当時私は、自分のことをとても”弱い”、と思っていたことだ。そして「表現の場」を求めている誰か自身に対して、私と同じレベルと性質の弱さを持っている、と信じ込んでいた。
 私が過去の自分の投稿に感じた危険性とは、かつての自分が①誰かの救世主になろうとしていること、そして②その救世主である自分と他人に「同じ弱さ」を認めようとしていることにある。では、その危険性とは何なのか。
 一つは、先に述べた”書かせること”の権力性に無自覚である点だ。編集という作業において、対話と議論によって対等に進めていく余地は多分にあるとしても、掲載の可否にまつわる決定権は、その媒体の主である編集者にある。その点で、評価者としての役割は避けられず、明らかに力関係に差がある。その権力性は、先に挙げた書くことによる承認の4段階、≪①書こうとする→②書くことができる→③他人に読まれる→④他人から「よい」と言われる≫における、全段階に内在する。特に強く③④を牛耳ることになるうえに、過去の私においては、①の段階においてすらも介入しようとしている。
 それなのに、その力関係の格差に無自覚なうえに、自分のことを「弱い」「強者ではない」「こんなに”弱い”自分が権力など持つはずがない」と信じ、対等な形で同じ「弱者」とつながれる、と信じ込んでしまっている。
 するとどうなるのか。”書かせる”ことの構造上の権力差に想像をめぐらすことができないだけでなく、その間のコミュニケーションが、(A)不自然にへりくだった無批判なやりとりか、(B)攻撃的な言葉で自分の思い込みを押し付ける、そのどちらかに陥りやすい。そしてそれは、どちらにしても書き手を”わからない存在”として尊重する態度とはかけ離れたものになる。
 そこには、先に述べたような、書き手が、自己閉塞することで自分を通して無自覚に他者を語ってしまい、自己否定と他者否定が乱暴に融解してしまう事態と同じ構造がみられる。「同じように”弱い”私たち」を想定することは、その私たち同士の間にある差異や、格差を見えにくく、語りにくくする。そして(A)不自然にへりくだった無批判なやりとりは、そのコミュニティの内部だけで行われているならまだ様相は平和的だが、それが(B)攻撃的な言葉で自分の思い込みを押し付けるへと変容するのは一瞬であり、また、その言説が外部にせり出したときに思わぬ人を傷つける。
 そしてそんな「同じように”弱い”私たち」の構築は、明確な揺るがざる批判しがたい「強者」を求めたくなる。「同じように”弱い”私たち」において、明確な頼れる権威を想定しないことは、とてつもなく不安だ。
 メサイアコンプレックス的な欲望によってなされる編集が、書き手への抑圧をかえって強化してしまうこと、より強者を設定することで、無思考に至ってしまうこと、そして場の無批判によって皮肉にも安全でないメディアを構築してしまうこと、その危険性をについて、当時の私は想像の余地すらできていなかったのだと思う。


 不自然にへりくだった無批判なやりとりでもない、攻撃的な言葉で自分の思い込みを押し付けるコミュニケーションでもない、それらを、場の主である編集長がどのように作るのか。私は『かがみよかがみ』の内情を詳しく知るものではないが、その優し気で、寛容そうな、かつ同質性の高い構成を見て、「同じように”弱い”私たち」によるメディアの課題を—もちろん私ごととして——みた。

 先の私のFacebook投稿には、信頼するある人がコメントをしてくれた。その人は、おそらくきっと、自分の弱さを盾に救世主になろうとする私の案直さを見抜き、”あらゆる表現には、批評、あるいは批判が必要である”こと、”表現することには、時に嵐のような他人の言葉が突き刺さる”のだということ、そして、”その地平に誰かを連れ出すということは、とても慎重にやらねばいけないことである”ということを、丁寧に、言葉を選んで、提言してくれた。私は自分の案直さに絶望しながら、その批判をとてもありがたく、泣きながら読んだ。
もちろんまだ模索している。全然うまくいっているとはおもえない。しかし、彼の丁寧な批判によって、他者を表現の場に連れてくるときにつきまとう暴力性と、その時問われる態度の模索を、自身の課題に据えることが辛うじてできている。

今回の一件は、単なる敵と味方によるジャンル的炎上の問題ではなく、少なくとも私にとっては、本当は息の長い、じっくりと向き合わなければいけない問題である。そのことを言いたかった。長くなってしまった。整理されてないなあ。これで伝わるのだろうか。読み切ってくれる人すら少ないだろうが、書かずにはいられなかった。


※1 本書の宮田りりぃによる「セックスワーカーにどう並走するか 当事者による経験の意味づけ」では、セックスワーカーが支援者や医療関係者から「そんな仕事」みなされ、「辞めてしまいなさい」などの「お説教」を受けることが語られている。(p.223)。また要由紀子は、「ネガティブな背景を持つステレオタイプなセックスワーカー像は、様々な社会問題を考えるきっかけ作りや啓発、解決のプロセスに利用しやすく」、それがセックスワーカーに対する「社会的排除」を強化してきたことを指摘する(p.32)。またそれらは、「セックスワーカーの労働や環境の改善に還元されないどころか、差別を助長することでかえって後退を招いた」(p.34)とする。

※2 ここでは踏み込まないが、ここに「女性」というジェンダーの因数をさしはさんだとき、さらに多層的な難しさが発生すると思う。ここについてはまたもう少し考えていきたい。

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