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雑記:16_本の終わり

本の終わり、とかくと紙媒体か電子書籍かという話になりがちだけれども、最近考えたことは少し違う。本を読んでいる時、本はどのようにして終わるのかということである。

どういうことか。例えば、どんな本でもどういう風に読み始めたかは多分覚えているはずである。表紙、見返し、扉、目次、本文、といったように本に触れ始めると思う。では、本が手から離れていく時はどうだろうか。あとがきを読んで、終わりだろうか。

何をいいたいのかというと、本が終わる瞬間というのは奥付に目をやった時ではないだろうかということである。奥付とはとても不思議なページである。目次には含まれない。目次に含まれないといえば、見返しや扉もそうだけれども、奥付はそれらとは少し違う気がする。どう違うのだろうか。

再び本をイメージしてみよう。本屋さんにいって、平積みになっている最新刊を見かける時、私たちはカバーないし表紙をみている。(ところで最近は優れた装丁家が多い。ちなみに私は佐藤亜沙美さんがお気に入りである。あとは伝説の菊池信義さん。)

あるいは、本棚にある本の背をみている。私たちの本との出会いは表面から始まっている。しかし、本の終わりはどうだろう。私は奥付こそが本の終わりであると考える。奥付とはなんだろうか。表紙やカバーに比べてとても地味である。映画で言えばエンドロールである。なんとなく、あとがきがエンドロールっぽいが、実は奥付こそがそうなのである。ほとんどの本には奥付がある。奥付のない本はなんだか気持ち悪い。この気持ち悪さは、句点のない文章に似ている。「。」があって初めて文章は終わる。そういう意味で、奥付は本の句点である

本の美しさは、奥付にあると思う。いくら素晴らしい装丁でも文章でも奥付がなければ本は終わらない。締まらないのである。だらしないのである。

奥付は非常に地味で、紋切り型のまるではんこみたいではある。しかし、なぜ奥付はいつまでも奥付のままなのだろうか。本の始まりである表紙やカバーはとてもきらびやかで、とても自由なのに。

奥付がきらびやかになったらどうだろう。奥付デザイナーはいないのだろうか。なぜ本文の組版デザイナーがいるのに奥付デザイナーはいないのだろうか。確かに、著名な組版デザイナーは奥付も凝ったものにしていることもある。例えば、祖父江慎さんによる「心」(岩波書店)などはそうかもしれない。だけれども、祖父江さんの「心」は奥付よりも装丁や函の方が面白い。函の内側にまさか絵があるとは誰も思わない。

何故奥付について書いているかというと、ウェブ上で発表されている文章がなんだか味気ないのは、奥付がないからではないだろうか、と考えているからである。コツコツ書いている詩も、日々の雑記もなんだか締まりがない気がする。これは、奥付がないからではないだろうか

逆に、オリジナルの奥付をみんなが作れば急に締まってくるはずだ。いや、もっといえば美しい奥付さえあればどんな文章でも急にまとまって見えるんじゃないか。もっともっといえば奥付があるからこそあらゆる文章は終わるのではないだろうか。どんなファンタジーも評論もエッセイも写真集も奥付があることで成立しているのだ。しかも、内容だけにとどまらない。奥付は本という物質を成立させるために存在しているのである。奥付がなければ本自体が成立しない。内容の終わりでもあり、物質の終わりでもある。奥付とは平面的でもあり、立体的でもある。そんな不思議な概念、奥付について私たちは深く考えたことがあるだろうか。

いつも普段気にも留めないような概念があらゆる物事を成立させている。例えば、文法など。文法がなければ言語活動が成立し得ない。だけれども、いちいち私たちは文法を意識しないで話している。奥付とは本という文化それ自体を成立させるための最重要事項なのかもしれない。そして、それは私たちの無意識の中に潜んでいる。本の終わりの方にひっそりいるように。

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