苦手〜!の先へ進みたい。もう堂々とするしかない。
人前でしゃべることが苦手、目立つの無理、怖い。みたいな話をよくnoteに書いています。そして、その分だけ、あたらしい対処法を身につけて、怖くないカードを増やしてきましたが・・・
それでもまだまだ、終わりのない怖れがあります。
その怖れの正体。じっと見つめてみると、素話や歌など、自分の意見に関係ないものに関してはわりと平気、ということがわかってきました。
じゃあ、その正体とは?
「自分の意見を言うのが怖い」なのかもしれません。
ちきりんさんの新刊『自分の意見で生きていこう』を読みました
いつぞやにも紹介しましたマーケット感覚の本がとてもおもしろかったので、今回の新刊もさっそく読んでみました。
読んでみて、「もう自分の意見や成果物については、堂々とするほかない」という結論に至りました。
話はごくごくシンプルです。
人生には、正解のある問題と、正解のない問題がある。
正解のある問題は、答えが特定できるまで調べるべし。
正解のない問題は、自分のアタマで考えるべし。答え合わせの必要はない。人のせいにもできない。
シュタイナーっ子なわたくし、「正解のない問題がある」ことには結構なじんでいるつもりでした。
自分なりに怖れと向き合ってきた中で、「いや、違うことはうれしいんだよ」「豊かでいいじゃん」というところまではなんとか言語化することも。
しかしながら、いざ問題に直面したとき「そもそも、これは正解のある問題?ない問題?」を意識して問うことが、あまりできていないことに気が付きました。
そう、悩んでも仕方ないことに時間を使ってしまっていたのです!!
それをわかっていながらも尚、自分の意見の表明に悩むってことは。悩むことで頑張ってる感を出したかったのかもしれません。「頑張ってるから許してね」って具合に、批判をかわしたかったのかもしれません。
あるいは、夢を見たくて、等身大の自分を知りたくなかったか。このままでいたかったか。
あ〜、なんてもったいないことをしていたのでしょう。
ちきりんさんには、その辺をすっきり交通整理をしていただけました。ありがたいです。
さ、反省してばかりいないで(ここで満足する傾向あり)、ちゃんと活かす方向でも動くぞ〜〜〜。
ここからは、具体的な事柄に落とし込んで考えてみます。
正解のない活動①詩を書く仕事
担任として、子どもたちの誕生日に詩を書くお仕事がありますが、毎回うんうん悩んで、ギリギリのスケジュールでつくっております。
芸術活動って、そのままずばり正解のない問題ですよね。
それなのに、これでいいのか?大丈夫か?って、まるで正解があるかのように、過剰に悩み「間違うこと」を怖れていました。
まさに、悩んでる=頑張ってやってる感で許してもらおうとしている自分がいます。うぉ〜、自分で書いていて耳が痛いよ〜〜!
「がんばりました」で丸がもらえるのは、小学生まで!(職業が小学校の先生だからややこしい例えで失礼)
これからは、自分がいいと思えるものをつくって、堂々とします。
正解のない活動②シュタイナー教育
わたしが身を置いているシュタイナー教育業界は、教科書なしで授業をすることが当たり前の、まさに正解のない世界です。みんなで答えを豊かにしていくところ。
なんなら、教科書を使って授業をする公教育の世界でだって、ご家庭でだって。その人が今いる場所から、柔らかく実践可能なはずです。
しかしながら、今までに何度か、
「それはシュタイナー的じゃない」
「もっと勉強したほうがいい」
正解があるかのように「間違い」を指摘されることもありました。(ありがとう)
まだ実践の経験が少なかった頃は、そういう「間違いの指摘」にたびたび言い負かされていましたし、指摘されなくても、批判されたらどうしようと怯えていましたが・・・
さすがに現場に出て三年が経ち、実践しながら考えるにつれて、あれ?あまりそういうことは気にしなくてもいいのかも?と思えてきました。
だって、わたしにとってシュタイナーは、自分で答えを出すために必要な材料(普遍的な知恵)をくれるオジさんです。目の前の子どもと向き合って自分なりの答えを実践しようと思ったら、人それぞれ、微妙に違う現れをとるものではないかな?と思います。
わたしと子どもたちの間で起こることだから、それこそ、当事者として堂々とするしかないのです。ライブ感が命ですから!
進みたくないのか?と問いかけます
どこか、悩み苦しむのが趣味みたいになっているわたし。悩み苦しむ姿で、ちょっとオマケしてもらおうとしているわたし。
もしまた悩んでいる自分に気がついたら、
その時間必要?やるべきことから逃げるためじゃないですよね??
いったん疑ってみたいと思います。
本当に本当に必要なことに時間を使うために!
サポートしていただけたら、毛糸を買って何か編みます☆彡