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プールサイド(短編小説)


初夏の深夜、散った春の花々とかつての冬に落ちた枯葉の積もった五十メートルプールのサイドに僕は立っている。梅雨明けの掃除を待つプールは虫たちの棲家になっていて腐った匂いがする。一ヶ月もすれば子供たちが虫を取り、二ヶ月もすればその観察も忘れて嬌声と飛沫が上がる。街灯もクラクションも酷く遠く感じる。
僕は去年の夏の始まりから一ヶ月も生きられなかった夏祭りの金魚の死体を、この頃気温が上がったせいか水槽を密封していても部屋に匂いがするようになったので、捨てに来ている。君の名前を付けた夏祭りの金魚は、あの夏には透き通った赫が部屋の蛍光を反射していたのに、死体がふやけてビニール袋に入れられた今では、今夜は月が雲に隠れているので、もう何も見ることが出来ない。
 暫く僕は立ちすくんでいる。春は夜になれば気温が下がったが、エルニーニョ現象で異常に暑くなると予報されている今年の初夏は湿気も多く、部屋着のまま出てきた僕のTシャツを汗が湿らせる。僕はペルー沖の海水温の上昇とこれから来る強い台風のことを考えながら、サクレアイスを食べて、冷たい果実酒が飲みたい、と思う。
 僕はビニール袋に水槽の水と入った君の名前の金魚を、少し迷って、そのまま出さずに左手で拾い上げる。死体は柔らかく、そして異常に臭い。僕は死体を崩さないように、そっと、水面に乗せる。死体は勿論泳ぎ出さず、腹を横にして浮かんだままだった。僕はもう見ていられなくなって、手で遥か遠くに押しやろうと水面を掻いた。

君が泳ぎ出して遠くに行ってくれないなんて、側にもいないのに、嘘みたいだ。

 君の名前をした、何度も君の名前で呼んだ金魚は遠くに行き、枯葉や何かと一緒になる。街灯の差し込まない初夏の深夜に沈んで見えなくなる。
「君が手を差し出してくれるなら何度でも掴むつもりだけはあったよ、でも君が僕に掴む為の手を差し出してくれないことはもうとっくに分かっていたんだ」
 僕は立ち去ろうか迷ってポケットからハイライトを取り出して火を付けた。ライターの火で明るくなった一瞬に、奥に君の赫や君の透き通った白い左手が見えるような気がする。煙を吸う時に手を口元にやると、君の死体の匂いがする。
 僕はハイライトを吸い終えて吸殻をプールに投げ捨て、それでも足りなかったので、大声を出して水面を蹴り上げる。水が小さな音を立てて、やがて止み、虫の声しか聞こえなくなる。
 プールサイドを立ち去って、今年が異常に暑いだなんていつまでも分からない方が良かった、と思いながら手を洗える場所を探していた。

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