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人生において何を残すことができたか?

40代に入ると、余生を意識する。
と言うと、驚かれることも多いけど、するよね? いつ予期せぬ終わりが到来してもおかしくない。と、近頃ますます想う。余生はなんかそりゃまあ、VRやゲームやインターネッツがあればきっと今とおんなじような事をしていくらでも時間は使えるんだろうし、仮想空間には老人が若者の皮を被って溢れるんだろうから、まあ、なるようになるんだろう、と気楽な気持ち。でも。

何を成し遂げたいか、本当に大事なものはなんだったのか、どんなステージに到達したいのか、家族とどう過ごしていけるか、いつかの終わりに向けていくつかのテーマが去来する中で、いちばん胸の奥に残って消えないもの、それが「何を残すことができたか?」
念願だった子どもは作ることができた。仕事だって時流に影響を受けながら組織の中で何かを残すことに関してはある程度やった。決して一直線ではなく右往左往した人生の中で、これからに向けて想うのは、自分にとって決定的な「何か」を残すことができるんだろうか、ということ。そればっかり考えてる。最後に墓碑銘に刻むことのできる「何か」。

それは逆に言えば、満足の行く何かは何も残せてこなかったということで…。思えば小学校3年か4年くらいの頃、仲間内で新しいヒーローを作るのが流行って、友達はカラーでかっこよくミニ冊子に仕上げていたのに、自分は鉛筆で絵も下手で、あっちのほうがかっこいいね、って言われた苦い記憶。あれ思い出すとそれだけで逆流性憂鬱炎になる。飲もう、キャベジン的なの。

だから、何かひとつ、まずは自分だけで、これだ、って何かを作り上げて残すこと、それが残りの人生の命題で、そんな意思表明を書いたところで夜も明けないんだけど、さて、じゃあどうするんだろうな、やり切れるのかなって、遅すぎる自分との戦いに、頬杖付いて思索を巡らすきっかけくらいにはなる。


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