「慎ましい仕事」をする理由

 私は「100分de名著」というNHKの番組をよく見ている。
 というのも、ここ数年でなぜか本を読むことが難しくなってきたからだ。私は現在三十代だが、二十一歳のあたりまでは分厚い小説を読むことが大好きで、まあまあ読書家であった。なぜ読めなくなってしまったのか、これは私にもわからない。紙の小説を手に持ち、文字を追いページをめくることを心底から愛していたのに、それを行うことが今はできない。読んでいる途中で精神的に辛くなり、とても読んでいられないのだ。
 ともかく、私は現在自力で小説を読むことができない。
 その中でこの番組は私にとっての救世主であった。

 前回の記事では、アーサー・C・クラーク スペシャルの感想文を書いたが、今回はいくつかの回を見て考えていたことを、備忘録的に記事にしようと思う。

 私が最近見て、特に素晴らしいと感じたのはヴァーツラフ・ハヴェルの「力なき者たちの力」であった。
 私は政治に明るくない。これは意識して目をそらしていた部分もあるが、身近に政治とはと語ってくれる大人がいなかったことも大きい。誰も話してくれないことを、子どもは「話題にしてはいけないこと」と感じるものであり、私は社会人になってからも「職場で政治と宗教と野球の話しはしてはならない」というようなことを耳にしたことがある。これが、どういった意図で流布された言葉なのか、私にはわからない。ただ、幼い頃から大人たちが避け続けていた政治と宗教を、これから良好な関係を築くべき職場で進んでしようとなどもしなかった。
 結果として、私に「政治とは」と語る大人は現れず、また己自身も探すことをやめた。
 話しを戻そう。
 政治や思想について詳しくない私は「ポスト全体主義」というものに対してまったくの無知であった。どういったものを指し、何を意味するのか、何も知らなかった。それを「力なき者たちの力」では非常にわかりやすく、それの何が一体危機的なのか丁寧に説明されていた。これは、番組内での指南役の方の解説も良かったのだろう。
 「ポスト全体主義」というものを知り、私はぞっとした。今まさに、私はこの中にいるではないか、と自覚したのだ。そのシステムの中に、疑問を抱きながらも「嘘の生」を甘受していた。職場内で解雇されないために従順な態度で上司からのおかしな命令を聞き、間違っている、改善すべきだと声を上げることを考えてはやめた。私は八百屋の主人だった。職場だけではなく、これは地元の自治体もそうだ。「みんながやっているから、あなたもやりなさい」というセリフは、意識すれば至るところで聞かされる。それは、明らかに異常な状態であっても。
 普通に生活を営んでいくなかで、すでに私は「ポスト全体主義」の装置のひとつであり、抜け出せないまま生きている。
 ハヴェルの言葉によって、私は政治と生活が決して別々のものではないのだと、理解し、むしろ非常に距離の近いものだと知った。

 本文で出てきた「慎ましい仕事」という言葉に特に強烈に惹かれた。
 私はいわゆる夢見がちで日常に対する向上心が乏しく怠惰だ。現状を良くするために「誰か」が立ち上がってはくれないかといつも願っている。その願望のなかでの「私」はどうしようもなく無力であり、決して「私」が主体にはならない。人任せな意見である。
 だが、こういったタイプの人間はおそらくマイノリティではないはずだ。
 例えばSNSで今の政治に批判をする人がいる。彼らはSNSで言うだけで「今の政治家たちがやれないのであれば私が政治家になって政治を変えよう」とはきっと思っていない。誰もが「自分ではない英雄」が現れることを望んでいる。現状に文句を言い、今の責任者を退場させて、新たな責任者=英雄を求めている。
 もちろん、こういった態度は政治に限らない。もっと身近にするならば、地域の代表、学級の代表、学校の代表、家の代表、職場の代表。そういったものに進んで手を挙げる人は少数派だ。少なくとも、私がこの三十年程度で出会ってきた人々は「誰かがやってくれるから私はやらない」という意見を持った人が大多数であった。もちろん、私を含めてである。
 この意見は決して悪ではないと、私は思う。自分自身を擁護するようでいたたまれないが、人には向き不向きというものがあり、またこういった責任ある立場に就くためには大きな覚悟がいる。それは誰しもが持っているものではないと思うのだ。
 私は日々のニュースや出来事に出会いながらそれなりに物事を考えるタイプだ。変えられたらいいのに、どうしたらいいのだろう、と悩むこともある。
 それは政治という大きなものではなく、職場や家庭に求める変化だ。今まさに、私は職場内でどうしたらいいのかと悩むことが多くある。職場には到底英雄など現れないだろう。だから、長いものに巻かれ、多くを諦めるべきなのだろうかと苦悩していた。「ポスト全体主義」が当たり前になった職場で私は「嘘の生」を謳歌できないのだ。
 番組内で「慎ましい仕事」は体制を変えていくと言っていた。(若干うろ覚えなので間違いがあるかもしれないがご容赦願いたい)
 私はこの話しを聞いた直後、そこまでピンと来ていなかった。だが、アルベール・カミュの「ペスト」に出てくる役人グランを知り、ようやく理解できたと思った。見た目がパッとせずおよそヒーローチックとも言えないグランが、ペストが蔓延するオランで保健隊に入り、花形にはならない事務員としてただ誠実な仕事をした。それがどれほど難しく、そして素晴らしくて尊いことか。
 私はグランを知り、「慎ましい仕事」を行える人間になろうとそう強く思った。職場や家庭、地域でどれほど不条理な目に合い、声を上げることが困難であっても、ハヴェルが言い、グランの行った誠実な仕事をし続けていこうと決意できたのだ。
 そして、可能であればそういった思想を少しずつ周囲に話すこともしていきたいと思ったのだ。理解を得て、体制をよくできたらと、そう考えた。

 これは私以外の社会人からしたら、当たり前のことなのかもしれない。今更決意したり、はっとするなんて間抜けだと、馬鹿にされるかもしれない。だが、こんな当たり前のことに気付けないままだった私には本当に目の覚めるような思いだったのだ。
 そして当たり前だからこそ、学んでその重要さを改めて噛み締めることができたのだと思う。私はこの点において、非常に幸福であった。

 私は英雄ではなく、凡人である。
 世界や国を変えるような度胸も覚悟も力なく、政治家に多くのことを一任している市民である。でも私周辺の世間を変えることはおそらくできるのだろう。小さな誠実は決して無駄ではないとグランは示した。それは職場や家庭を変え、もしかしたらそれがいつか大きなうねりになるかもしれないし、……もちろんならない可能性のほうが確実に大きい。(笑) でもまったくの絶望ではない。
 ハヴェルは私に大きな希望を提示してくれた。それが本当に嬉しい。そして、まだペストの回は全て見終わっていないのだが、グランとの出会いは素晴らしいものだった。ああ、続きを見るのが楽しみだ。

 ただこれだけのことなのだが、驚くほどに感動したので、この気持ちを忘れないうちに書き留めた。いくらか手直ししたが、長い文章で主張や意見を書くのは難しい。
 ところで西田幾多郎の「善の研究」も途中まで見ていて、刺激されたことがあったので、また後日それに関しても何か書きたいと考えている。あれは少し言葉が難しくてすぐに理解できず、少し時間を置いている。他にも「100分de名著」は「カラマーゾフの兄弟」も非常に良かったのでおすすめだ。
 ただただ、NHKの番組制作者たちには拍手と感謝を伝えたい。そのうちメールを送ろうと思う。