Ideal Leaders が、出来るまで。


『Ideal Leaders が、出来るまで。』は、弊社代表の永井が、新卒入社した野村総合研究所にてIDELEAを立ち上げ、Ideal Leaders株式会社として独立するまでのストーリーをまとめてお客様にお渡ししてきた小冊子です。
本記事は、その小冊子を元にIDELEA及びIdeal Leadersを古くから見守ってくださいましたお客様にお渡しした永井のメッセージを元に、noteで配信することを目的として再編集したものです。
Ideal Leadersと関わりを持つお客様や、私たちの事業・組織に関心を持ってくださった方に、私たちの歴史とPurposeに込めた想いをお伝えするために心を込めて制作しました。ぜひご高覧ください。

はじめに ~謝辞~

『Ideal Leaders が、出来るまで。』をご覧くださり、ありがとうございます。
私、永井恒男はIdeal Leaders株式会社にて、素敵なお客様と仲間と共にとても楽しくお仕事をさせていただいています。
Ideal Leadersは、会社が存在する目的(Purpose)と事業を通じてそれを実現し ていくための戦略(Strategy)を明らかにし、それぞれをつなぎ、実行していくPurpose & Strategy Consultingを提供している会社です。
本記事では、私が仲間と共にIdeal Leadersを立ち上げるに至った経緯、そしてその 背景にある価値観についてご紹介させていただいております。

私は仕事をする上で、大切にしている願いがあります。
それは、ご縁を頂いた方々と、ビジネスパートナーとしてだけではなく、人と人としてお互いの価値観や想い大切にし合いながら、一緒により良いお仕事をさせていただきたいという願いです。
Ideal Leaders を立ち上げてからこれまでに、幸いにも多くの素敵な方々と出会うことができました。そして、単なる取引先や同僚という関係を越え、同じ想いを持つ仲間や同志としてお付き合いさせていただいております。このことは私にとって本当に有難く、幸せな ことです。

私は働き方というのは、生き方であると思います。
人生の貴重な時間を使って同じ課題に取り組む機会に恵まれたのであれば、利害関係だけで結びついたドライな関係ではなく、価値観や想いを大切にし合いながら一緒に良いお仕事をしていきたいと思っております。
このことを実現するためにIdeal Leadersの立ち上げに至ったこれまでの経緯・背景にある想いや価値観をお伝えしようと思い制作したのが本記事です。
ドラマチックな物語は何もないどころか、大変お恥ずかしい話ばかりで恐縮ですが、本記事が皆さまと共に価値観や想いを語り合うきっかけとなりましたら幸いです。
Ideal Leaders株式会社 代表取締役CEO 永井 恒男


第1章:自分の価値観に従って生きる

『花の慶次』のように

Ideal Leadersの立ち上げ経緯をご紹介させていただく前に、少しだけ余談をさせてくださ い。
1990 年代に少年ジャンプに掲載されていた『花の慶次 -雲のかなたに-』(原哲夫氏)という作品があります。
戦国の世を傾奇者として生き抜いた前田慶次という「漢」の 奔放な生き様を描いているのですが、この漫画の中に私の大好きなワンシーンがあります。
慶次が傾奇者として自由奔放に生きている中、ある日、時の権力者である豊臣秀吉からお呼びがかかります。
様々な事件やトラブルを豪快かつ華やかな立ち回りで捌いていくにつれ慶次の名が世に広がり、豊臣秀吉が興味と対抗心を持ったのです。
しかし、慶次は思い悩みます。傾奇者というのは本来権力には従わないもの。豊臣秀吉に 礼を尽くせば傾奇者としての信念を曲げたものとして笑い者になる。しかし、傾奇者を貫けば無礼者として殺される。また、行かなければ仲介者であり叔父である前田利家の面子が立たず、前田家に迷惑がかかってしまう。
いつもは飄々としている慶次ですが、この時ばかりは自分の信念と周りへの信義の間で揺 れ、とても悩みます。そして、最後にはなんと豊臣秀吉を殺してしまおうと決意するので 。
ついにやってきた謁見の日。慶次はいつものように傾きながらも、豊臣秀吉に刃が届く距離へとじりじりと近づいていきます。
豊臣秀吉は、そんな慶次から殺気を感じ、「こいつは俺を殺す気だ」と勘付きます。信念を貫くために自分を殺しにきた慶次。このまま下に見た扱いしていると危ないと豊臣秀吉は 身の危険を感じ、「お前、いつまでそんなに傾いて生きるつもりなのだ」と聞きます。
すると前田慶次は、少しはにかみながら「いつまで出来るかわかりませんなぁ」と応えるのです。豊臣秀吉はこの時の笑顔に、若い頃、敵に窮地に追い込まれた際に自らの命を顧 みず自分を助けに来てくれた徳川家康を思い出し、自分の中にあった前田慶次への対抗心が解けていきます。
そして、豊臣秀吉は慶次の己の信念を貫こうとする姿に感嘆の意を表し、「傾奇御免状」を 授けるのです。また、この一連の出来事を見ていた大名達にも、もっと自由に生きてもいいんじゃないかという空気が広がっていきました。
私は、このシーンを思い出すと今でも胸が熱くなります。
前田慶次の時代と同じように、現代の組織や社会の中にも様々な制約が存在し、多くの方 が本来持たれている個性、価値観、想いを押し殺しながら働いているように感じます。
私はこの状況に対しとても違和感を覚えます。 前田慶次ほどとは言わないまでも、私たちは、
現状がどうであれ、人は自分の価値観や信念に従って枠を越えていくことが出来る。
その中に人としての味わい深い自由さや楽しさがある。
そして、その姿が周りの人に感銘を与える。
と思うのです。

自分の価値観や信念こそがイノベーションの源泉
私は、人が自分の価値観や信念に従って一歩踏み出し続けることをサポートしたい。その ことが会社や社会の発展と、そこにいる人達の幸せにつながっていくと本気で思っています。

「イノベーションは、価値観や信念に従った一歩から生まれる」

このようなことを言うと「何を甘いことを言っているんだ」と思われてしまうかもしれま せん。もちろん、ビジネスというフィールドには、守らなくてはいけない様々な前提やルールはあります。
しかし、そのような状況の中でも自分の価値観や信念に従って一歩踏み出し続けることは 可能だと思います。
いや、むしろ現代のような過去の方法では解決が出来ない問題が山積みであり、イノベーションが必要とされる状況だからこそ、このような姿勢が必要なのではないでしょうか。

何かこれまでにない新しい価値を生み出そうとする時、大抵の場合はうまくいくかどうかの確証もなく、周囲からの反対もあります。自分の損得勘定だけで動いていたら、途中で折れてしまうでしょう。自分の価値観や信念こそが、最後の拠り所となるのではないでし ょうか。
私は、社会人としての時間だけではなく、これまでの人生を通じてこのような働き方、生き方を実現するためにはどうすればいいのかということを探求してきたように思います。

いや、正直に告白します。

むしろ、私は人生の多くの時間を“周囲の期待に応える”ために生きてきました。そして、 その限界を身を持って体験することで、やっと“自分の価値観に従って生きる” ことの奥 深い自由さや楽しさに少しばかり触れることができました。

その経験が現在行っているIdeal Leadersやその前身とも言える野村総合研究所 IDELEAチームの事業につながっています。

第2章:新人〜若手時代

永井恒男、社会人になる。

 私は新卒社員として野村総合研究所のコンサルティング部門に入社しました。
一年目は特に周りに置いていかれないようにすることだけで精一杯。このままでは「使えない人」で終わってしまうという危機感に駆り立てられるように働いていました。
コンサルタントといっても新人のやることは基本的にはリサーチです。何かを調べる仕事がほとんど。お客さんから「あれも知りたい、これも知りたい」と次々と頂く要望を、言われるがままに一生懸命に調べていました。

労働時間は非常に長く、平日はほとんど終電かタクシーで帰宅。
土日にも仕事を持ち込む始末でした。
例えば、空港でのビジネスに参入しようとしているある通信業者から、どのぐらいのビジネスチャンスがあるかを調べるプロジェクト。
情報収集のために様々な情報を集めるのですが、自分でなければ入手や分析ができないというわけではありません。空港に行って図面をもらってきたり、話を聞いてきて伝えたりするなどの誰にでも出来る仕事です。
正直なところそこに私自身の知的関心はなかったのですが、周りから褒められること、感謝されることのために必死で頑張っていました。
ようやく仕事のコツを掴み、ある程度仕事が出来るようになってからは、ますます「周囲の期待に応える」というスタンスが強くなりました。
人がやりたくないということを進んでやるということを信条としていましたし、それが出世への近道だとも思っていました。実際に出世するのも早く、入社から7〜8年という最短期間で課長になることができました。

永井恒男、驕る。

大変お恥ずかしい話ですが、出世すると共に私は天狗になっていきました。
今思えばただ単にITバブルだった時にIT担当だっただけなのですが、自分より役職が 上の方よりも、自分の方が業績を出しているということが結構あり、内心、どこかで「稼いでいる方が偉いよね」という感覚があったと思います。
遊びも派手になり、仕事が終わった後、深夜12時集合で銀座に飲み行くような生活。着 ているスーツの値段はどんどん高くなっていきますし、髪は茶髪。ピアスを付けることまで真剣に考えていました(笑)。
人に対する接し方もとても厳しくなっていたと思います。
お客さんの前で部下を怒鳴り散らして、逆にお客さんから注意をされてしまう。 飛行機の出発が遅れたらクレームをつけ、飛行機代を返してもらう。 電車が遅延したら駅員さんを恫喝する。
そんなことは日常茶飯事。私の人生は、一見、順風満帆のように見えながらも、この時から徐々に綻び始めていました。

 
永井恒男、浮気する。

32 歳の頃、私にとって大きな事件が起きました。またまた大変お恥ずかしい話ですが、私 が昔にしていた浮気が妻にバレてしまったのです。
どんどん仕事にのめり込んで行くにつれ、妻と一緒に過ごす時間が減っていき、私の心に 隙と寂しさが生まれたことが原因です。
“周囲の期待に応える”という私の生き方は妻に対しても同じで、自分で言うのも何です が、かなり「いい旦那」だったと思います。妻も働いていたのですが、家事も進んでやる し、家の中でも常に気配りをしている。働く女性をサポートする「いい旦那」を演じていました。
だからこそ、そんな私が浮気をしたという事実は妻にとってとてもショックだったと思い ます。
妻はその事実を受け容れがたく、毎晩のように怒り、なじり、泣き叫びました。しかし、 どうすることもできず、結局、「ごめんなさい」と謝るしかない自分。仕事から帰ってきて からそんなことを延々と繰り返す毎日が続きました。
そして遂に妻は家を出て行ってしまいました。ベランダから見ていた、去っていく妻の背 中が今でも目に焼きついています。
その後、しばらくは別居生活が続いたのですが関係は修復できず、結局離婚をすることに なりました。
「俺の人生、何かがおかしい。」 自分の生き方に疑問を覚え始めた時でした。

永井恒男、迷う。

妻とうまくいかなくなりだしたころ、仕事にもどこか違和感を覚えるようになっていました。
戦略コンサルタントとしてあるメーカーの経営者のサポートを担当していた頃のことです。 これまでの方針とはガラッと異なる戦略を立案するということで、4~5人でチームを組み、週2~3日は常駐しながらプロジェクトに当たっていました。
約半年間に渡り、チームメンバーの皆で国内外を駆け回って調査分析を行ない、徹夜で企画書を書き上げ、社内の根回しも役員の方と一緒に行っていたので、私たちとしても非常に強い思い入れのある仕事です。
このプロジェクトのフィナーレとして、全社員をランチの時間に集めてその新戦略を説明するという全社方針説明会が予定されていました。
本番当日、私たちは控え室でこの全社方針説明会の開始を楽しみに待っていました。しかし、ランチの時間も近づいてきた頃、突然、館内放送で「本日の方針説明会は延期になりました」という発表があったのです。
びっくりした私たちは急いで経営者の方の元へ向かい、事情を聞きました。
実はこの経営者の方は、代表取締役に就任されたばかりの方で、その上、前社長である会長との関係性もあまり良くなかったのです。当日まで会長と新戦略についての話が出来ず におり、直前になって説明したところ「そんなものではダメだ」と言われ引き下がってし まっていたのです。
半年の間必死の思いでつくった戦略が白紙になってしまったので、ショックのあまりチー ムメンバーの女性は号泣していました。
その時私は、いくら戦略が立派でもうまくいかないことがあるというビジネスの現実に直面しました。
経営者であっても人間関係が原因で正しいと思うことが出来ないことがある。変革を推進するリーダーの覚悟や経営陣が一枚岩であることはこれほどまでに重要なのだということ、 そしてコンサルティングの限界が身に沁みました。
また、自分の仕事に疑問を覚えるきっかけとなった出来事としてこのようなこともありました。
私の元上司が部長になり、その組織内で私が2番手になった時のことです。私はより大きな結果を出すことに燃えていましたので、その上司に「これから何を目指しましょうか!」という話をしたら、「特に何もない」という返答。
「???」
拍子抜けしながらも、「では、私には何を期待しますか?」と聞くと「予算の達成」と一言。
それまではリーダーとなるような人はビジョンを持っているものだという思い込みがあったので、想定外の返事に私は唖然としました。
しかし、色々な経営者の方を思い返してみるとそうでもない。
当時から多くの経営者の方とお話する機会を多くいただいていたのですが、やりたいことやビジョンのようなものを聞いても出てこないことということが結構ありました。

「あれ?これでよかったんだっけ?」という疑問が私の中に生まれたと同時に、その矢印は自分自身にも向き始め、私は自分の生き方に直面しました。
リーダーとなってもやりたいことやビジョンがあまりない人の傾向として、社内での評価や出世が目的に仕事をしてきた方が多い。そして、自分自身が自分もそうであることに気 付き始めたのです。
その時、高校時代の同級生と飲んでいた際に言われた言葉が思い出されました。
「お前がお客さんから何千万貰っていたとしても、それは所詮お客さんの個人のお金ではなくて会社のお金でしょ。確かに、素晴らしい戦略を提案したら、お客さんも「ありがとう」と言うかもしれない。でも、そのお客さんが自分のお金で美味しいものを食べた時や 美容室で髪を切って満足した時に言う「ありがとう」の方がずっと感謝の気持ちが篭って いる。」
それを聞いて私は腹も立たなかった。私も本心ではコンサルティングに本質的な価値を感じることが出来ていなかったのです。少なくとも裕福な人をより裕福にするだけ。それは、 自分が世の中に生み出したい価値ではない。
でも社会人になってからは、世間的に良いと言われることをやること、そして、出世することに一生懸命でした。上司に言われたことは素直にやる。お客さんの期待にはそれ以上の成果で応える。結果、それなりの成績を出すことはできました。
しかし、気付いてみると家庭は破綻し、人とは利害関係でしか付き合わなくなり、世の中に対する価値を考えずに盲目的に仕事をしている。そして、何よりも幸せじゃなかった。

「このままではいけない。」

「自分の価値観に従って生きる」という意志と「自分は世の中にどのような価値を提供するのか」という問いが徐々に芽生え始めていました。

第3章:IDELEA 立ち上げ時代

永井恒男、起業を志す。

その頃から、今までに自分の人生にはなかったたくさんのことが起りだしました。エグゼ クティブコーチングや組織開発を提供する野村総合研究所の社内ベンチャー IDELEA の立ち上げはその一つです。
社会人になった当初から自分で事業をやりたいという気持ちはあったのですが、「価値観に従って生きる」ということを意識し始めてからその想いは益々強くなっていきました。
実は、当時考えていたビジネスプランは、エグゼクティブコーチングや組織開発にといった事業ではなく、働く女性をターゲットにしたマッサージやエステなどのリラクゼーショ ンサービスの口コミサイトでした。
その構想を形にするために、仕事をする傍らで、ABCIという野村総合研究所の企業内ベンチャー制度にエントリーするといった活動を始めました。その頃、情報通信コンサルティング部の後輩であった佐藤裕美子さんという心強い味方も得ることができました。
しかし、野村総合研究所の主要事業は、コンサルティングと IT ソリューションです。働く女性向けの WEB サービスというビジネスプランはあまり良い反応は得られませんでした。
ならばいっそのこと独立しようかと思い、社外の方から投資を募る活動も同時に行ってい ました。
そんなある日、ある大手企業の会社役員のTさんに事業プランを説明した際に言われた一言が、IDELEA の事業が生まれるきっかけとなりました。
その方とはかなり懇意につき合わせていただいており、私の仕事に対しても信頼をしていただいていたので、良い返事がもらえるのではないかと内心期待していました。しかし、結果はNO。
「ビジネスアイディアもいい。永井さんのことも信用する。でも出資は出来ない」と断られてしまったのです。
「利益も出ると思っているし、自分のことも信用してくれているのにダメ?」。不思議に思った私は、その理由を聞きました。
するとTさんは、落ち着いた面持ちでこう答えてくれました。
「確かにこのビジネスプランは面白いし、それなりに利益も出るでしょう。でも、働く女性向けのサービスというのは永井さんにマッチしない。あなたはただ事業が儲かればいい という人ではないでしょう。たとえ事業がうまくいったとしてもたぶん耐えられなくなるよ」
私は頭をガツンと叩かれたような気がしました。散々悩み自分の価値観に従って生きることを決めたつもりが、またいつの間にか事業に成功することで周りの評価を得ようとする 行動に戻ってしまっていたのです。
もっともっと深く自分を見つめなければいけないということを、T さんに気付かせていただ きました。
それからしばらくの間、佐藤裕美子さんにコーチングのようなサポートをしてもらいながら自分は何がしたいのかということを徹底的に考えました。
「自分は本当に働く女性のサポートをしたいと思っているのだろうか。いや、むしろ自分の方が大変だな。離婚までしてしまっているし。働く女性を何とかする前に、自分をなんとかしなくては。」
「じゃあ、自分が本当にやりたいことは何だろう。自分の価値観に従うということは決めた。では、一体何が自分の価値観なのか。仕事を通じて何を創りだすのか。」
自問自答をする中、以前個人的に参加した研修のことをふと思い出しました。
その研修は、人間が自分や人生に対して根本的に持っている囚われを手放して自由になるという、所謂、自己啓発的な内容だったのですが、私自身も含め参加者の多くが劇的に変化していく様子を目の当たりにし、人の可能性の大きさに感動したのを今でも覚えていま す。
「あのようなことを企業の現場できるのであればやってみたい。社会的にはうまくいっているけれども、自分の人生を生きていない経営者を沢山見てきた。自分はそんな人をサポートしたい。でも、教育事業が野村総合研究所の事業として認められるとは到底思えない。」
なんとなくやりたいことは見えてきた。しかし、次は、その実現のためには会社を辞めなくてはならないかもしれないという壁にぶつかりました。

永井恒男、限界に達す。

いまいち腹が括れずにいるうちに期が空け、私は課長になり、部署も変わっていました。
ある日、大きな仕事の切れ目にある新規のお客様の元に営業に行きました。商談は順調に進んで受注の見込みが立ったとき、私の中に「あ、やれば出来てしまうんだな」という感覚が芽生えたのと共に緊張感がするすると抜けて行き、半ば燃え尽きに近い状態になってし まったのです。
その帰り道、天気が良かったので皇居の横を歩いて帰りました。緊張感が抜けたからでしょうか。とても感覚が研ぎ澄まされ、太陽の光が川面や木々の葉に反射しキラキラしてい るのを見ているととても澄んだ気持ちになり、ふと「ああ、もう会社を辞めて自分で事業をやろう」という想いが湧き起こってきました。
その日から私は本格的に企画書をつくり始めました。でも、考えれば考えるほど、やっぱり今の会社ではできない。やっぱり会社を辞めることでしか実現するイメージが湧かない。
そして、いつ周りに辞めることを言おうかと迷いながら仕事をしていると、ついにお客さんの前でしゃべれなくなるという症状まで出てきてしまいました。
商談中に上司から話を振られたのでしゃべろうとしたのですが声が出ない。緊張して頭が真っ白になるというのとは違って、声を出すことができず、適当に話をはぐらかすことすらできませんでした。私の様子がおかしいことを上司が気付きフォローをしてくれたので、 その場は何とか事なきを得たのですが、このことが私の中で「ああ、もう無理だ。」という確信となりました。
帰りのタクシーで私は上司に「実は辞めようと思っている」と告白をし、その日中に担当 役員など主要な関係者にメールで退職の意思を伝えました。

永井恒男、ATDへ行く。

突然の話に担当役員も驚き私はすぐに呼び出されました。
「急に一体、何なんだ」
「実は、企業のエグゼクティブクラスの人向けに教育事業をやりたいと思っています。でも、そんな事業はうちでは認められないと思うので、独立してやろうと思っています。」
と私が答えると、担当役員の方は「そういうのは土日を使ってやるものだ。出来そうになっ たら辞めればいい」と私をなだめました。
「でも、私、来週から ATD のカンファレンス(人材開発・組織開発に関する国際的カンファ レンス)でフロリダに行きたいんです!!」
担当役員は半ば呆れ顔で「しょうがない奴だな。わかった。出張申請をして、領収書だけ もらっておけ。帰ってきたらまた相談しよう。」と言ってくれました。
ATDでは多くの収穫がありました。
人材開発・組織開発分野の先達であるヒューマンバリュー社の方々や今でもビジネスを超えたパートナーとしてお付き合いさせていただいている 方々との出会い。
そして、具体的にお客さんに提供するサービスとして、エグゼクティブコーチングでも十分ビジネスになるのではないかという希望が生まれました。当時、自分自身はまだコーチングのトレーニングを積んでいなかったのですが、これまでに出会った方とパートナーシップを組めば可能だと思えたのです。
帰国後、また担当役員と面談をするお時間をいただきました。しばらくゆっくりさせてや れば少しは頭を冷やして帰ってくると踏んでいたのだと思いますが、私はよりノリノリになって帰って来ていました(笑)。
この方も、「これはもう止めることは出来ないな」と思ったのでしょう。
「全くしょうがない奴だな。ABCI (企業内ベンチャー制度)に出してやるから、まずはそこで頑張ってみろ。」と最後には応援をしていただきました。

永井恒男、フィージビリティースタディーに挑む。

ABCI (企業内ベンチャー制度)では、佐々木さんという新任担当者の方が大変目を掛けてく れました。
約三ヶ月の間、現場の仕事はやらずに実際にそのビジネスの実現可能性を検証するフィー ジビリティースタディーだけに取り組めばよいという許可をもらい、予算までつけていた だきました。これは ABCI(企業内ベンチャー制度)では異例のこと。本当に優遇していただきました。このことには心からとても感謝しています。
そして、当時は私自身がまだコーチングのトレーニングを受けていなかったので、以前同期に紹介してもらったコーチの中土井僚さんに声を掛け、フィージビリティースタディー から一緒に事業を立ち上げてもらえることになりました。
準備が整い、いざフィージビリティースタディーを実際にやってみるとこれがとても大変。
「野村総合研究所がやる事業なのだから、対象は社長に絞ろう。そうすれば一人当たりの単価が高まる。社長を集めての集合研修というのはない。じゃあ、やはりエグゼクティブコーチングか。」
というような経緯でまずはエグゼクティブコーチングを主力商品として実 現可能性を検証しようということは決まりました。
しかし、当時はエグゼクティブコーチングはまだまだ世間的に知られていないばかりか前例も少なく儲かるということが証明しづらい。
コーチングを教える教育機関はいくつかあったので、それを基にプレゼンをしても
「うちでやるのであれば、ラーメン博物館のような他社のサービスを寄せ集めるスタイルではダメだ。野村総合研究所秘伝のスープのような、うちオリジナルのものでないとダメだ。」
と言われてしまう。
逆に、オリジナルのサービスを創るという方向性でプレゼンをしても、それで商売ができるかと詰められる。その堂々巡りでした。
とにかく必死だったので、少しでも参考になりそうなものを聞けばすぐに調べに行きまし た。念力でスプーン曲げる人から、気で病を治すブータンでは国賓扱いのお兄ちゃんまで (笑)。
それでも、やはり納得してもらえませんでした。
その上、私が最初に会社を辞めると言ったことに対して ABCI 事務局の方から「折角、目をかけてやったのに不義理な奴だ」という反感を買ってしまっており、「辞めたきゃ辞めろ」 というムードが次第に強くなってきていました。
また、同僚からも白い目で見られる日々。
自分の想いや構想を伝えてもほとんど理解されず、「そんなことがやりたいのだったら会社 を辞めればいいじゃないか。それは絶対にうちのビジネスにはならないですよね」という 反応がほとんど。3分の1ぐらいの人が自分の周りからさーっと引いていった実感があり ました。
こんなこともありました。三ヶ月間ほどフィージビリティースタディーに取り組むことが 決まった際に、椅子に荷物を乗せて一人で社内引越しをしていた時のことです。その様子 を遠くから見ると机や棚で荷物が隠れてしまっていて、私が前のめりになってただただ何 往復もオフィスをウロウロしているように見えたらしく、「とうとう永井の気が触れてしまった」という噂まで立つ始末。
周囲からしてみると気が触れてもおかしくない状況に私がいると見えていたのだなと思います。
「きつい・・・。」
週に一回定例面談の時間をもらっていたのですが、プレゼンをしてはダメだしをされ、職 場でも白い目で見られるという日々にだんだんと自信を失い、そのことによって余計にプレゼンでもうまく応答できなくなるという、悪循環に陥っていきました。
そんな私の様子を見かねてか、ある日役員の此本さんから呼び出されました。
「永井くん。君はコンサルタントとしてはまあまあ活躍していたけれども、事業家としてはダメだ。私は沢山の事業家を見て来たけれども、社長の仕事はやると言ったことは絶対やることだ。自分で出来ないのであれば、出来る人を雇ってくる。今の永井くんのように 合理的に説明出来ないからダメだと言われて折れているようでは事業なんか出来ない。そんな有様では事業家は向かないからコンサルタントに戻れ。」とガツンと言われました。
図星を突かれ声もなく黙ってしまっている私に、此本さんのお叱りは続きます。
「そもそも ABCI(企業内ベンチャー制度)のメンバーだって事業を立ち上げた経験があるわけでもなければ、コーチングに詳しいわけじゃない。何でそんな人達に言い負かされているんだ。そのままではとても事業なんて立ち上げられない。次からは反論をされても、出来ますと言い切るように」
というアドバイスをもらいました。
私にとってはとても耳が痛い話でしたが、此本さんが私に対する愛情から敢えて言ってくださっているのを感じ、再度奮い立つことができました。

永井恒男、腹を括る。

此本さんのアドバイスから、私はただ言われっぱなしになることはなく、何度ダメ出しをされても食らいつくようになりました。
その成果でしょうか。結局、フィージビリティースタディーでは結論が出ないということになり、一ヶ月以内に一社顧客を見つけてくれば承諾するということに決まりました。2005年8月初旬のことです。
そこから何としても顧客を見つけようと必死になって営業をしました。しかし、興味は持ってもらえても導入にまでは至らない。
時間ばかりがどんどん過ぎていき、残り一週間を切っても顧客は0社。
もうダメかもしれないと諦めかけていた頃に、渋谷のスターバックスで中土井さんと話していた時の一言がまた転機となりました。
「最悪、期限までに顧客が獲得できなくて ABCI で承認されなかったとしても、それならそれで会社を辞めてゼロから一緒にやるだけなのだから永井さんが落ち込む必要はない。でも、これは永井さんが自分のミッションとしてやっていることなのだから最後まで諦めず にやるべきでしょ。それに、僕から見るとまだまだ永井さんは全力を出し切っているよう には見えない。お客さんに300万でサービスを導入してみてもし無駄だったら、自分が 300万お返しますというぐらいのことはできる。」
この言葉を聞いた時、「それはそうだな。まだまだ出来ることはある。最後まで全力を尽くそう」とようやく腹を括ることが出来ました。
それからは色々なものが吹っ切れ、プレゼンテーション漬けの日々。「ダメだったら御社に転職して300万円分稼ぎます」と言って回りました。
大手製薬会社に勤めていた私の父親に相談することは嫌で避けていたのですが、勇気を出して相談し、知り合いの子会社の役員を紹介してもらうなど、普段だったらやらないようなことを無我夢中でやりました。
すると次第に、共同出資で事業をやろうと言ってくれる人やお客さんを紹介してくれる人 が現れ出しました。
「いけるかもしれない。いや、絶対にやる!」

約束の期日まで幾日も残ってない頃、この時より少し前にご挨拶をさせていただいたばか りであった株式会社 オデッセイ コミュニケーションズ代表取締役の出張さんにチャンスをいただきプレゼンテーションを行ないました。
一通りサービス内容を説明し終えた後、出張さんは「社長は孤独だから色々相談できるのは相手は必要かもしれない。でも私には全くニーズはない。応援はする。」と言っていただ きました。
これまでの私だったらここで引き下がっていたと思います。でも、もう自分には後がない。 「今日決まらないと事業自体が立ち上がらないんです!」と必死で想いを伝えていました。

そして、少しの間沈黙の後、「そこまで言うならいいよ」と言ってもらえたのです。
この時の気持ちは今でも忘れられません。「飛び上がらんばかりの喜び」とはまさにこのことでした。出張さんに感謝を伝えると、意気揚々とオフィスへと帰りました。
自分には必要ないと思っているにもかかわらず、私のために一肌脱いでいただいた出張さんには今でも頭が上がりません。
結局、残りの一週間で三名の方に顧客になっていただくことができ、法人化はしないけれども、コンサルティング事業部で新規事業を行うチームとして IDELEA が立ち上げることが決定しました。

第4章:IDELEA 創業時代

永井恒男、出待ちする。

11月、私はIDELEAチームの事業推進責任者という肩書きをもらいました。チームといってもメンバーは私1人です。
無事新規事業として承認されたので一息つきたいところですが、お客さんがほとんどいない状況ですので、そうゆっくりしてもいられません。
まず必要なのは営業です。
しかし、立ち上げの段階で既に知人は当たってしまっていましたし、基本的に既存のお客様には営業してはいけない。どう営業をしていくか悩んだ挙句、 思いついたのが出待ち作戦です。
出待ち作戦とは大手企業の社長の講演会に行き、出待ちをして社長に接触するというシンプルかつ大胆な作戦(笑)。
社長が会場から出てくる瞬間をつかまえてエレベーターピッチ。その場で連絡先を聞き、 その日中にアポをとるということをひたすらやりました。この時期はとても楽しかった。
全く面識の無い方を出待ちするので最初はすごくドキドキしたのですが、何度もアタックするうちにだんだんとコツがわかってきて、後半は会場を見るとどこが狙い目の席かが瞬間的にわかるようになっていました。
今でもお付き合いのある株式会社ベネッセコーポレーションさんは、この時にご挨拶させていただいたのがきっかけです。
いつも通り出待ちをしてご挨拶をさせていただいた際に、ふとしたことから瀬戸内海に浮かぶ直島という島に美術館とホテルの機能が複合したベネッセハウスがあるという話にな りました。
その後、私はすぐさまこのベネッセハウスに宿泊し、「直島に行ってきました!」というメ ッセージと共にアポメールを送ったのを覚えています(笑)。
それぐらい必死でした。

永井恒男、組織開発を始める

エグゼクティブコーチングを行う過程で経営者の方のビジョンが明確になってくると、次はそれを組織に展開したいという要望を自然といただくようになりました。
既存のソリューションを売るというスタンスではなく、経営者の方と深く話をするなかで課題やニーズが明確になり、それ合ったソリューションを提供させていただく。そうすれば、一社の中に深く入りながらじっくりとサポートをしていくことができる。
早いうちにこの事業の流れをつくることができたことが、IDELEAの事業がスムーズに立ち上がった大きな要因の一つだと思います。
最初は人事や人材開発担当の方とお話をさせていただくこともあったのですが、やはり、 社長に対して「コーチング受けましょう」と提案できる方は少ないとわかり早い段階でアプローチさせていただくのは経営陣などトップの方に絞るようにしました。

第5章:IDELEAからIdeal Leadersへ

チームの価値観

その後、様々な課題に直面しながらも順調に事業は大きくなっていきました。2005年9月 には、私一人であった IDELEAも、約11年後には兼任スタッフも含めると8名のチームに なっていました。IDELEAが取引をさせていただいたお客様の数も70社を超えます。
もちろん、事業が大きくなっていく過程で、人・組織の面で大変なこともそれなりにありました。
ただ、そのこと以上に、本当に素敵な仲間と出会い、一緒に楽しく仕事をすることが出来 たことは私の小さな(大きな?)自慢です。
野村総合研究所のオフィスは、一般的な会社と同じように、そんなに騒がしいところではありません。
しかし、私たちは議論に白熱したり、夢中で語ったり、時に大笑いしながら打ち合わせを していたので、周りの部署から「声が大きすぎてうるさい」というクレームをもらうようなことも多くありました。
Ideal Leadersの創業メンバーの一人である丹羽は、そんな私たちの様子を見て「楽しそうにしている人たちがいるな。」と思い、興味を持ったことが IDELEAへの参画のきっかけだったと言っています。
私は、IDELEA の立ち上げ当初から、ある想いを持っていました。
それは、チームメンバーのそれぞれが、自分の価値観に従って生きることを大切にしたい。 そして、チームとしての価値観もきちんと掘り下げ、明確にし、それに従って事業を行っていきたいという想いです。
その想いを実践していくために、四半期に一回は合宿を行ったり、月に一回は勉強会を行ったりと、個人、そして、チームとして価値観について深め、語り合えるような機会をか なり頻繁に設けていました。
Ideal Leadersを立ち上げに至る前の 1 年間は月に一回合宿をしていたくらいです。
今から振り返ってみるととても興味深いですが、対話を通じてチームメンバーそれぞれの価値観を分かち合う中で、チームとして共有している価値観が浮かび上がってきました。そして、そこから事業としての新しい方向性が生まれ、Ideal Leaders の立ち上げへとつながっていきました。
なので、Ideal Leaders の立ち上げメンバーは、全員、元 IDELEA のメンバーです。
この第五章では、IDELEA のメンバーが時間を共にする中でどのような価値観が、どのように醸成され、浮かび上がってきたかを少しお話しさせてください。

ソーシャル・イノベーション(社会変革)について

実は、私は若い頃、国連職員になるという夢を抱いていました。実際に大学在学時と社会人 1 年目の年の2回ほど国連の職員になるための試験も受けていました。残念ながら、試 験には落ちてしまいましたが(笑)。
子供の頃から、社会、世界の役に立つことをしたいという気持ちが心の奥底にずっとあったのですが、国連職員ということを明確に意識したのはアメリカの大学に通っていた頃で した。
大学には本当に色々な国から来た人達がいます。彼らと話をしていると、日本のように平和で、衣食住には困っていません(最近は少し状況が変わってきましたが)という状況で はない国が沢山あるということを肌身で感じ、驚きました。
例えば、80 年代当時は内戦状態であったニカラグア出身の人が、「自分の国では中学生ぐら いからゲリラ軍に入るか政府軍に入るか決めなくちゃいけない。義務教育が終わる前に決 めなきゃいけない。」というようなことを冗談めかしながら話している。
また、最初に知り合った時には、「ユーゴスラビア人です」といっていた2人が、1年後には「俺たちはセルビア人とスラブ人だから、家に帰ったら殺し合わなきゃいけないんだ」 とこれまた冗談めかしながら言っている。
それまでは当たり前に感じていた日本の平和に心から感謝したきっかけであり、同時に、 もっと世界の平和に貢献したいという想いを強くするきっかけともなった経験でした。
このような経験と想いがあったことも大きく影響して、IDELEAは設立初期の頃から、社会 貢献的な意味合いのある活動をすることや、またそういったことに携わっている素晴らしい方々との出会いが多くありました。
IDELEAのCSR 活動としてNPOなどの非営利組織の代表の方々にエグゼクティブコーチングを無償で提供させていただいたり、持続可能な食料について考えるフードビジネスの勉強会など社会的課題についての学びの場を開催してみたり。
思い返してみると、紛争地帯の武装解除に取り組まれており、今でも懇意にさせていただいている瀬谷ルミ子さんとのご縁は、NHK の番組「プロフェッショナル~仕事の流儀~」に出演されているのを観て感銘を受け、「ぜひ、一度お会いしたい!」とお電話させていただいたことがきっかけでした。その流れからエグゼクティブコーチングをご提供させていただきました。
同じく、エグゼクティブコーチングをご提供させていただいていた、病児・障害児・小規模保育の NPO フローレンス代表駒崎弘樹さんとのご縁も、新聞で読んで感銘を受け、「ぜひ一度お会いしたい!」とお電話させていただいたのがきっかけでした。
企業のエグゼクティブコーチングや組織開発のお手伝いをさせていただくと共に、そのような社会貢献的な意味合いの強い数々の活動や出会いもチームのメンバーで重ねていった 結果、「ソーシャル・イノベーション(社会変革)」という価値観が私たちの中に醸成され、 浮き彫りになっていきました。
「社会によいインパクトを生み出せるような事業をもっともっとやっていきたい」。そんな 想いが、私の中にもチームの中にも、どんどん膨らんでいきました。

未来教育会議

ソーシャル・イノベーションという価値観が醸成され、浮き彫りになっていく中で、その 流れを更に大きく加速させていくきっかけとなった経験の一つが「未来教育会議」です。 ここでご紹介させていただくエピソードは、実際にはIdeal Leaders の創業後にもまたが っているのですが、私たちにとってとても大きな意味を持つ経験となっているので合わせ てご紹介をさせてください。
この「未来教育会議」というプロジェクトは、未来の社会、未来の人、未来の教育のあり方を、学校、家庭、行政、企業、地域などの多様なマルチステークホルダーで共に考え、 共に豊かな世界を創出していくというものです。

・一般財団法人クマヒラセキュリティ財団の熊平美香さん
・慶應義塾大学システムデザイン・マネジメント研究所ソーシャルデザインセンター
・株式会社博報堂 bemo!
・株式会社教育と探求社

などの異なるセクター・組織が実行委員会となり立ち上がったプロジェクトで、私たちもその中に加わらせていただきました。
実際の取り組みとしては、オランダ、デンマーク、ドイツなど特色のある教育の取り組みで注目されている現場を訪問し、自分の体で実際に見聞きし、体験するラーニング・ジャーニーや、教育に関する課題やビジョンについて対話するワークショップなどが数多く行われました。

2014 年から始まった未来教育会議は現在も行われているのですが、このプロジェクトから 21世紀型の学びを実現するために教員の学びの場を提供し、支援する「一般社団法人ティーチャーズ・イニシアティブ」、地域社会と学校をつなぐ「くんま森の学校」、先生が21世紀型スキルを楽しく体験的に学ぶ合宿型の研修プログラム「Camp 21c for Teachers」といった沢山の成果が生まれていっています。
私たちは 3 年間に亘って関わらせていただいたのですが、中でも私たちにとって最もインパクトがあったのは「2030 年社会・企業の未来シナリオ」の作成でした。
未来シナリオとは、どのような未来が起こりうる可能性があるのかということを、特定の テーマに関する複数のシナリオを描くことで探求していく手法です。
※シナリオプランニングの詳細や、Ideal Leadersが設計した「2030年の社会・経営のシナリオ」はこちらの記事をご覧ください。

未来教育会議では、未来に影響を及ぼす要因に関して「確実に/ほぼ確実に起きること」は共通とした上で、「不確実かつインパクトが大きい要因」として「企業経営のものさしが画一か、多様か」「働き方が画一か、多様か」という二軸でマトリクスを組み、未来に何が起こりうるのかを洞察していきました。
その結果見えてきたのは、国内の人口減少と少子高齢化、世界人口の増大、資源危機、食糧危機、自然災害、国際政治の不安、金融危機リスクの増大などの数々の逼迫した課題や、 AIを始めとするテクノロジーの飛躍的な進化などによって、新しいあり方への転換が問わ れている未来の社会、企業、そして人の姿でした。

簡単にですが、私たちが作成した 4 つの未来シナリオの概要をご紹介します。
① 起こりうる未来1つ目『三すくみシナリオ ~失われた半世紀~』
企業経営のものさし=画一 / 働き方=画一
企業・市民(労働者)・政府の各セク ターがビジョンを共有しないまま自己の行動を最適化しようとした結果の「三すくみ」状 態によって数々の改革が阻害され、世界の舞台からゆっくりと消えていくというシナリオです。

② 起こりうる未来2つ目『個の台頭シナリオ~働き方自由化による大格差の発生とニッチの台頭~』
企業経営のものさし=画一 / 働き方=多様
元気のない企業に変わって、国境を越えて活躍する個人、都市から離れて地域で活躍する個人、NPO、NGO セクタ ーで活躍する個人などが時代の変化をリードしていく。しかし、その一方で、AI やロボットに仕事を奪われるなどの影響でワーキングプアや失業者に転落する人も増えるなど、個人の力の差が顕著に表れる弱肉強食の時代でもあるというシナリオです。

③ 起こりうる未来3つ目『企業の目覚めシナリオ~超国家 CSV 企業主導の社会~』
企業経営のものさし=多様 / 働き方=画一
大規模な自然災害や食糧危機によって企業 は資源調達危機・事業継続危機を眼前とし、経営の最大課題は「持続可能性」になっている。
そのような中、社会的価値と収益の両立への取り組みを早い段階から行ってきた「超国家CSV(Creating Shared Value; 共通価値の創出)企業」が誕生し、国際社会をリード している。
一方で、イノベーティブな働き方を志向しにくい労働環境によって個人は企業 に従属しているというシナリオです。

④ 起こりうる未来4つ目『クワトロ・ヘリックス・シナリオ ~4セクターの相乗効果で、 21世紀型社会へ~』
企業経営のものさし=多様 / 働き方=多様
産学官民の4セクターが一つの未来ビジョンを共有し、それに向かって相乗効果を生み出しながら、社会を共創していく。企業は多様なプレイヤーと時間的、場所的、組織的制約を越えて協働し、 新たなイノベーションを生み出すケースが多く見られるようになる。また、長期的な事業 継続可能性とマルチステークホルダーの包摂を重視し、サステナビリティーも両立している。
個人は、テクノロジーの後押しもあった結果、多様な働き方が可能になり、時間的・ 場所的な壁、職務的な壁、組織の壁をも越えて働き、活躍する人が増加しているというシナリオです。

この未来のシナリオの作成も含めて、IDELEAのメンバーや様々な立場の方々と一緒に学び、 対話していくことで、改めて、企業のあり方は、教育のあり方、ひいては、人の一生のあり方にも大きな影響を与えているということに気づきました。
いくら教育改革だけを推し進めて行ったとしても、どのような人材を企業が求めているか、また、どのような人材が社会経済で活躍しているかということの引力は大きく、企業のあり方が変わらなければ、教育のあり方も元に戻ってしまうからです。
「個人は自分の価値観に従いながら様々な働き方をしている。そして、企業は利益とソーシャル・イノベーション(社会変革)を両立している。やっぱりこっちだよな。世の中の要請としても、私たちが創りたい未来としても、この方向で間違っていない。」と、私たちの想いが確信へと変わっていきました。

新しい器での挑戦

企業の発展・利益とソーシャル・イノベーション(社会変革)を両立し、両輪としながら進んで行くような会社が増えることに貢献したい。
その想いを強くした私たちは、未来教育会議の他にも様々なプロジェクトや取り組みを仕 掛けていきました。
人口問題をテーマにしたマルチステークホルダー・ダイアログの立ち 上げに奔走したり、「ぼくも、わたしも、ソーシャル・イノベーター!」を合言葉にソーシャル・イノベーションを標榜するサラリーマンの集まりを実施したり。
一方で、新しいことを仕掛けていく上での会社としての制約にも向き合うことが増えてきていました。他社との共催が難しかったり、不特定多数の人を集客することが難しかったり。

それらの取り決めは、野村総合研究所のような多くのステークホルダーの方々がおり、社会に対しても大きな影響力を持っている企業が、その責任をしっかりと果たしていく上で必要不可欠なことです。
むしろ、様々な懸念やリスクもあるにも関わらず、IDELEAという新しい舞台を与えてくださった野村総合研究所の懐の大きさには、今でも感謝の念が尽きません。
また、企業の発展・利益とソーシャル・イノベーション(社会変革)を両立し、両輪としながら進んでいくということを、机上の空論ではなく、自分たち自身が経営者として実践し、体現していきたいという気持ちも益々強くなっていっていました。
IDELEAという新しい事業を立ち上げ、運営をしてはきましたが、あくまでも野村総合研究所の社員という立場です。経営者の方が負っているようなリスクやプレッシャーを、本当の意味では担えていません。
IDELEAでの最後の1年間は、そのような、どんどん膨らんでいく想いと現実との間の葛藤を抱えながらも、私たちは何をすべきであるのかを模索した時期でした。
そして、2015年4月1日。たくさんの対話を重ねた結果、価値観と想いをよりパワフルに実現し、社会に貢献していくために、IDELEAチームという器を卒業し、新しい器で挑戦をすることを決断し、Ideal Leaders株式会社が生まれました。

Ideal Leaders のこれから
~人と社会を幸せにする会社を増やす~

これがIdeal Leadersが出来るまでに私と仲間が体験した物語です。ある意味とても内輪な話であるにも関わらず最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

世の中では、経営者がまるで自分のことしか考えていないような論調で一方的に語られることがしばしばあります。
私はこの論調には反対です。

これまでに色々な経営者の方にお会いしてきましたが、「会社は株主のためにあるのだから、 利益を出して、自分も高い給与がもらえれば社員のことなんて関係ない」「会社でうつ病に なる人が増えているが関係ない」なんてことを考えている方には一人も会ったことがありません。

皆、社員の幸せを願いながら一生懸命苦闘されています。
でも、確かに、色々なしがらみに囚われて社員や自分自身の幸せを蔑ろにしてしまっている会社もあります。とても素晴らしい志をお持ちでありながらも、周囲から短期的な収益を強く求められすぎるが故に、なかなか実行に移すことが出来ずにいる経営者の方がいるのも事実です。
そのような状況を打開し、自分も社員もお客様も幸せになっていくためには、まず自分の心の奥底にある価値観をしっかりと見つめ、明らかにしていく。

そして、やがてそこから浮かび上がってくるビジョンなどの遠大な目的(Purpose)を自社内だけではなく、 組織やセクターの垣根を越えて語り合い、響かせ合っていく。
そのことが、結果的にオープンイノベーションを触発し、長期的な利益や人と社会の幸せにもつながっていくのだと思います。
私自身も、まだまだ半ばではありますが、同じような道をたどってきたように思います。

自分の価値観と向き合う。自分の価値観に根ざした一歩を踏み出してみることで、色々な 応援やご縁をいただく。そのつながりと対話の中から、また新たなアイディアやチャレンジ、そしてビジョンなどの遠大な目的(Purpose)までもが浮かび上がってくる。
そのような自己探求と小さな一歩や試行錯誤の繰り返しの中から、当初から想定をしていたわけではないけれども、人生をかけて取り組む甲斐のある事業が自然と形づくられていったように思います。
そして、このプロセスを支援させていただくこと自体が、私たちが取り組 んでいる Purpose & Strategy Consulting という事業でもあります。
私は、自分自身は社会事業家であると思っています。
お客様、社員、経営者、取引先などその会社に関わる人みんな、また、その先に広がる社会全体を幸せにする会社を日本中に増やしたい。
会社の成長と共に、人と社会が幸せになることだって可能だと信じています。

現在、利益とソーシャル・イノベーションを両立した会社、人と社会を幸せにする会社を創るということに、世界中のたくさんの方が挑戦しています。
そして「こうすればそれが可能だ」という答えは、まだ生まれていません。
これからの数十年、想いを持った経営者、ビジネスマンの方々の無数の挑戦を通じて明らかになっていくのだと思います。
私たちもその一人です。もし、あなた様がその道を歩まれるのであれば、ぜひ私も一緒にお供させていただけると幸いです。

以上


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