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公共施設に翻るウクライナの国旗〜渋沢栄一翁の志を受け継ぐ深谷市〜

ある日の公民館で


 過日、市内の公民館に所用で行ったところ、入り口の国旗等の掲揚台に青と黄色のウクライナの国旗が掲揚されていました。思わず何かの間違いでは、と目を擦りました。
 公民館の職員にこのことを尋ねると、ロシアが戦争を止めるまで、ウクライナに休戦・停戦が実現するまでウクライナの国旗の掲揚を続ける方針と聞いております。
 また、深谷市では、市営住宅にウクライナからの避難民の受け入れを表明し、すでに二人の避難民を迎え入れているとのことです。
 市民、企業からも避難した人々の暮らしに必要な生活用品が届けられているとのことです。
 さすが深谷市は、「忠恕(ちゅうじょ)の心」を広めた渋沢栄一翁の生誕地だけのことはあるとの思いを深くしました。

我が家の牡丹

青い目の人形を知っていますか?


 栄一翁は、草創期の日本に100を越す事業を起こし、近代資本主義の父とも言われ、また慈善事業や世界平和の実現のためにも献身的に取り組んでこられた方でした。

 昭和2年(1927年)アメリカにおいて「世界の平和は子どもから」のスローガンのもとに、アメリカから日本の子どもに12,379体の人形が贈られました。
 この頃、日本では、当時野口雨情作詞の「青い目の人形」の歌が広く流行していたので、一般にこの人形は「青い目の人形」と呼ぶようになりました。

 当時、アメリカでは低賃金で勤勉に働く日本人移民の増加に伴い、これを排斥する排日運動がアメリカの西南部で起こり、この事態を憂慮したアメリカ人宣教師シドニー・ルイス・ギューリック博士が中心となって、「世界児童親善会」を設立し、日本の子供達に人形を贈ろうという運動が展開されました。

 一方、日本では栄一翁が政府に働きかけ「日本児童親善会」を組織し、受け入れ体制を整えました。
 栄一翁は、常々「軍備に頼って平和を保つと言う言葉がよくありますが、軍備を進めて進み進みした暁は平和ではなく・・・・」(以下省略)と述べており、「平和はあくまで国際間の道徳を確立することによって世界平和を実現すべき」と主張しておりました。

 アメリカからの「青い目の人形」の返礼に、日本からも立派な日本人形が58体贈られ渡米することになりました。

戦争への道

 栄一翁は昭和6年(1931年)に亡くなりました。栄一翁の死後、日本は軍部主導の方向へと加速し、青い目の人形たちは敵国の物だと焼かれたり捨てられたりするなど可哀想そうな運命をたどりました。
 そして、栄一翁の蒔いた子ども同士の世界平和への種はむなしく消えてしまいました。

 私は、公民館に掲げられたウクライナの国旗を見上げ、栄一翁が青い目の人形使節を通して国際平和の実現を目指したかの日の行動が、一瞬走馬灯のように脳裏をよぎりました。

ウクライナ報道に思うこと

 ロシア軍のウクライナ侵略からすでに3ヶ月が経過し、毎日のように報道されるウクライナのニュースに神経が鈍麻し、いつの間にかウクライナを対岸の火事視しておりました。

 ロシア軍のウクライナ侵略を利用して、今保守党の政治家は憲法改正、敵基地攻撃、核共有等を主張しています。
 しかし、今私達が進むべき道は、憲法改正等ではなく、栄一翁が主張していたように国際間の道徳を確立することこそが大事ではないでしょうか。

 公民館に掲げられているウクライナの旗を見上げながら、ロシアが攻撃を止め
両国の休戦、停戦が1日も早く実現することを望んでいます。

 戦争が来れば逃げると無邪気な子(川柳)

 青い目は黒い瞳に見つめられ嬉し恥ずかし頬をゆるめる(短歌)

 ノモンハンからウクライナキャタピラー(川柳)

●参考資料:
1.『青淵』No.712  2008年7月号
2.『広報ふかや』令和4年6月号



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