見出し画像

持てる者、持たざる者

保育園で子どもがおふざけをするシーンに出くわすことが何度もある。危なっかしい子は喧嘩に発展しかねないので目を光らせているが、中にはまだ周りが見えてなくてふざけている子もいるので、その光景が微笑ましいあまり笑ってしまう事もしばしば。

もちろん話を聞くべき時にしているおふざけは注意するのだが、側から見ていて愛され上手な人って本当にそういう力が元から備わっているのかなと思うくらい、何かあどけなさが溢れ出ていてつい注意するのを忘れそうになる。

生まれたばかりは沢山愛してもらえるけれど、悲しいかなそれは年齢を重ねていくにつれて効力が失われていくものだ。
でも愛され上手な人は、不思議とその力が失われずに育っていく人が多いような気がしている。そしてその力は他人が真似をしても奪えない部分だなとも思ったり。

昔から先輩や大人に甘えるのが上手だったり、何もしていなくても人が寄ってきて奢ったり祝ってもらったりしているそんな人を、私は何度も目撃してきた。

特定の人だけが得をしていくその環境に理不尽だなとも思った。
結局、容姿だとか、愛嬌だとか、そういったもので人生は決まっていくのかもしれないと内心うんざりしていたことも覚えている。

大学生の頃、クラスの人気者に誕生日プレゼントを買うからと一人100円ずつ徴収されたこともある。
たかが100円だが、なぜ仲良くもない人の誕生日プレゼントを買うために私が100円を払わなければいけないんだと不満が募っていた。みんな平等に何かをもらえるならまだしも。


根暗で人と関わりたくても思うように踏み出せなかった学生時代の自分は、素でそんな事ができる人を心底羨んでいたように思う。
どうやったらそんなふうに好いてもらえるんだろう。私も人である以上、そんなふうに祝ってもらいたいのに。

大人になるにつれ、自分の誕生日を自分で祝うことが恒例になっていた学生時代の私は、人に好いてもらう方法をどうにか考えていた気がする。

ただ、色んなタイプの人をどう真似してみようが、理想とする人になれることはなかった。

プレゼントをあげたら好感度が上がるかしら。
でも同じ部活のよく喋る人に好みのものを選んで贈ってみたけれど、礼だけ言われて返ってこないことがほとんど。あげるだけ損だった。
確かにそう。興味ない人からプレゼントをもらったって、その人にとっては返そうなんて思わないはず。

輪の中に入ってみようとツイッターの会話の中に入ったり、時折話すグループの会話の中に入ってみたけれど変な空気になって自然と会話が終わったり。

今振り返ってみれば、私が闇雲すぎてあからさまに不自然だったと思う。
まず見返りなんて求めている時点でそもそも駄目。
悲しかったけれど、「私は人に好かれる要素などないんだ」とその時に割り切ることにした。

色々と迷惑もかけたし、もうやれる事はやったから切り離そう。
人の関係に執着していた私だったが、サバサバした心持ちになると、不思議とそれ以降同じようなタイプの親友ができるようになった。

一年生の時に仲が良かった人に限って離れていって、歳をとってからできる友人の方が長く続くのは、きっと自分の芯が定まったからなのだろうなと思う。
誰にも媚びることなく自分の信念を貫いて生きていたら、年々向こうから似通った人が寄ってきてくれる。

初めは狭くてもいいから深く続けていこうと繋がっていたコミュニティもどんどん広がっている。

そんな方達は何かを求めているわけでもないのに、さり気なく贈り物をくださったり私にとって力になるような素敵な機会をくださったりもする。私自身も何もされていなくても、その人たちに何かしてあげたいとも思える。
利害関係みたいなところで付き合っていない人間関係はとてもストレスフリーで生きるのが楽だった。

今実際に保育園で子どもを見ていてもそう思う。
同じことをしていても、その子の普段の人となりでこちらの受け取り方はだいぶ違う。

ずる賢くて何かを企んでいる子と、まだそこまで考えが及んでいなくて純粋にその行動や言動を楽しんでいる子。本心を言わなくてもそれは丸見えだ。
無理に愛されようとしてもかえって逆効果。

持てる者と、持たざる者の宿命。
向いていること、向いていないことは生まれた時から決まっているのかもなぁ・・・と、そう思った。
変な承認欲求を持たなくなったのが、大人になってからの私の変化だ。


読んでくださりありがとうございます。 少しでも心にゆとりが生まれていたのなら嬉しいです。 より一層表現や創作に励んでいけたらと思っております。