見出し画像

誰かになろうとするよりも


自分という存在がどうしようもなくて、それに相反するように周りが煌めいて見える時は誰にでもあると思う。
あの人になれたらな、と思う時だって。
私もかつてはその一人だった。

学生時代は特に、誰かに噂されいじられては自分自身にコンプレックスを抱いて、「なんてしょうもない人間なんだろう」と落ち込むことばかり。
なよなよしている雰囲気、どこを見ているかわからない目や骨張った体、小学校2年生からある白髪、消え入るような声のトーン、体育で疫病神扱いされる運動神経のなさ…。
いくらでも欠点は書き出せるくらいに卑下していた。

何をやっても、自分がしたいものが定まらなくてモヤモヤしていた時期が何年もある。



でも、今は違う。
かつてコンプレックスだったものも、今は私しか持ち得ない特別な存在に成り代わっている。
なよなよしていた雰囲気は芯のある包容力に変わり、体のコンプレックスは踊る時の私の魅力となった。白髪は私のアイコンになっているし(しかも増えたか減ったかでストレスのバロメーターになってくれている)、声のトーンも歌い方を鍛えてあらゆる声色を使い分けられるようにもなった。苦手だった体育もダンスが好きになったおかげで、自分で筋トレやストレッチをするほどになった。

ネガティブのループにハマって抜け出せなかった私がポジティブのループへと移り変わっていけたのは、他でもなく「なりたい存在」を見つけたから。
それ以降、憧れる人のようになるために自分という存在を少しでも理解し分析して、レベルを着実に上げていったように思う。
その行為が今の私を作ってくれている。

もちろんそれは簡単なことではない。約10年という歳月がかかった。
でも「これが本来なりたいと思っていた自分だ」とはっきり自覚したからこそ、傷ついても辛くても頑張れたのだと思う。

ちなみに私は「なりたい存在」を見つけたからといって、その人の事を丸々真似していた訳ではない。
そもそも生きてきた環境や持って生まれた身体も違うのに、その人の真似をして同じ人生を歩めたのならみんなとっくにそうしているから。

その人が着ていた服や、聴いていた音楽や、読んでいた本をそれっぽく纏うだけなら誰にでもできるけど、私がやっていたのは、その人の生き方や世界への向き合い方を自分なりに落とし込むことだ。

例えば憧れの人の「感謝を忘れない」という姿に共鳴したのなら、自分はなぜそう思ったのか、その人はなぜそういう思考に至ったんだろう、というように自分に置き換えて考えたり、憧れの人の内面について考えるようにしている。

なりたい人が発する言葉はどれも美しく聞こえるものだが、それは相応の努力をして自身で出した答えだからそう聞こえるのであって、何の努力もしていない人がただ言葉だけを借りてそれっぽく喋っても自身の血肉になっていなければ、上っ面をメッキで覆っただけの安っぽさにしかならない。

私は表現という分野に身を置いているが、とりわけ「自分の味って何だろう」と模索をする機会が幾度となくあった。
その点において最初に誰かの真似をしてみるのはいい事だと思う。でもやはり表面だけ真似できるようになったところで意味がない。

瞬発力をつけたり自分と重なる部分を見つけるにはいい方法だと思うが、寸分違わずあの人と同じ存在になろうという考え方は、結局オリジナルの人を超えるようなことはないし、二番煎じにしかなれない。

真似をすることでどうしても出てしまう自分の癖を発見して記録したり、華やかな表面じゃなくて裏の地道な練習の積み重ねにフォーカスを当ててみた方が、確固たる自分を作るための手助けになってくれるのではないかと思っている。
オリジナリティというのは最終的に自分が絞り出したものを繰り返し煎じて煮詰めたり、材料を変えたり、しっかりと己という容器に合わせた仕上がりにしていかなければ人には見てもらえないと思う。

誰もがSNSをしている時代。周りを見渡してみれば「それっぽいものを作って金にできればそれでいい」という人もいる。消費する側も「それっぽいものを安く手に入れられれば」という人も。
自分の手がけたもので人々を豊かにしたいのか、ただ金儲けをしたいのか。結局何がしたいのか。



人それぞれ価値観は違うので、何に重きを置くかは自由だが、私自身はお金を稼ぐことが第一になるのは一番避けたい。

最近、あの人のイラストっぽいなという作品をいろんな所で見かけるようになった。
捻って何かしら自分のエッセンスを込めているならまだしも、オリジナルの作家さんのテイストをそのまま引用してしまっているのをみると、この人らしさはどこだろうと思ってしまうし、オリジナルを手がけているその人に失礼なのでは?と思ってしまう。

その上、人工知能という存在が出てきた今。
学習すれば人の努力を簡単に凌駕してしまう脅威だってある。

それに加えて時間や費用の効率ばかり求めるようになっている社会。

最近、奈良美智さんの「あおもり犬」を大阪府が参考画像に無断で流用していたニュースを見たけれど、どういうつもりでこんな事できたんだろう?と思ってしまった。

目の前にある物のその向こう側を想像しようとしなければ、いよいよ人間である意味はどこにあるんだろうと思う事が増えた昨今。
承認欲求しかない同じような人が量産されていくのを見るのも正直辛い。

だからこそ人間にしかできない、私にしかできない事って何だろうと、もっと考えたいなと思うようになった。
もっとその人自身が持っているものを大事にしてほしいし、コンプレックスを塗りつぶすんじゃなくてそれを活かせるようになってほしいなと願いながら、周りの人や保育園の子どもたちと接している。

いずれ色んな活動ができるようになったら、私はそんな作品を色んな人と作れたらいいなとも思ったり。


「他人みたいになろう」じゃなくて、「思い描く自分になろう」と思える人が少しでも増えたらいいなと思う日々だ。
私もまだまだ道の途中。これからも学んで実験して研究して発表して、レベルアップしていきたい。

読んでくださりありがとうございます。 少しでも心にゆとりが生まれていたのなら嬉しいです。 より一層表現や創作に励んでいけたらと思っております。