仮定法の真の姿 ー仮定法のユウレイ4ー
現在形と過去形の原語present form, past formを、時間で分けるのではなく、以下のようにすると、時制の問題として長年悩ましてきた、「完了形」と「仮定法」がわかりやすくなるので、ご紹介します。そしてそこから、仮定法の真の姿を引っ張り出してみます。
present form(現在形の原語)
話者に関係がある、関与できる世界
past form(過去形の原語)
話者に関係がない、関与できない世界
このようにする根拠は
古・中英語で独立した動詞変化として存在していた「仮定法」が、現代英語で時制のズレとして吸収消失、この事により、多義的になり、past formは時制の違いだけでなくなったからです。
※単純過去形は、上記のように、完全に話者のいる今と切れて関与出来ませんが(だから現実不可も妄想も含まれる)、助動詞過去の場合は、助動詞とは話者のその事に対する見解なので、関係ない、関与できない『だろう』と言う話者の見解になり、可能性になるのです(助動詞は話者の見解だから続く動詞は話者の頭の中の動き概念で原形)。別の言い方ですと、話者の心的態度と言う事になります。
それでは、本題に入ります。
まず、仮定法は以下のような広範囲さも有ることを示します。
・未来のことも表す事がある
・丁寧さを表す事がある
・意味が二つになる事がある
・形の上で、直説法と仮定法が同一になることもある
そこから、口語的(私の自問自答ですのでご勘弁を)に、結論致します。
※記事中の下線はリンクですので、クリックしていただければ、解説記事に飛びます。
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以下は、河上道生著「英語参考書の誤りとその原因をつく」p436−441から引用し、私の勝手な解釈でまとめたものです。
とくに「→」は私の見解です。
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さて
本書は、仮定法過去は現在だけでなく未来に関しても用いられ、また事実に反する仮定だけに用いられるとは限らない。とし、その例として下文をあげています。
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If a burglar(泥棒) came into my room at night I'd scream. (But I don't expect a burglar to come in.)
どろぼうが(未来に)夜、部屋に入ることはあり得ない事ではないが、可能性は低いことだと話者はみなしている。
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仮定法が「丁寧になる」ことも指摘しています。
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If you did it for me, I should be very happy.
They might finish the work before dark, if all of us help them.
これらの仮定法過去は「丁寧」な意味で、それぞれ
I would appreciate it very much if you would do it for me.
Let’s all help them. They might finish the work if we did.
の意味を表すとしています。
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以下の文では、多義的で、さらに「丁寧」な意味も取れると解説しています。
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If we caught the 10 o'clock train, we would [could, might, etc.] get there by lunchtime.
この一文は、直説法に近いが、もっと仮定的である。
話者は、その電車に乗ることを「起こりそうもない」とみなしているか、またはそれに乗るという提案を、より「控え目」に表現したのかいずれかである。
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以下の文に至っては、とんでもないことが記されています。
いままでの仮定法を理解しようとした苦労は何だったのか?
直説法と仮定法の区別がつかないと言っているのです。
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If he found a patient listener, he would pour out his troubles.
・・・換言すれば仮定法過去で「しんぼう強く聞いてくれる人がみつかれば、なやみ事をいろいろと話すだろうが(found = were to find)」の意味にも、また直説法過去で、「しんぼう強く聞いてくれる人をみつけると,なやみ事をいろいろと話したものでした(If = when; would = used to)」の意味にもなるのである。
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以上です。
もう、ムチャクチャです。ありえない。目眩がしてきます。
いったい、どうしてこんなことが起きてしまうのでしょうか?
こんな支離滅裂な文法をどうやって使っていけばいいのでしょうか?
途方に暮れてしまいます。
しかも
どうして、どうして!こんな、複雑極まりない仮定法という文法をなぜ、ネイティブの幼稚園、小学生が普通に使っているのでしょうか?
IQ200の天才のコだけが使っているのならともかく、すべてのレベルの子が自由に使いこなせているのです。
そんなことってありますか??
いや、ない!!!
あるわけがない!!!
絶対に!ない!!!!
外の紅葉を見ながら珈琲を一喫し、心落ち着かせ、これらの事を考え、まとめてみると以下のような結論に至ります。
英語の「if文」は、条件から仮定から空想まで全てを含む日本語の「もし文」と同じだから、直説法&仮定法に分ける必然性はまるでない。
が!!、同じにすると過去形なのに現在の意味という時間の矛盾が出てしまう。
という結論です。
なぜなら、これらの問題は、if文を直説法と仮定法に分けようとするから生じる問題で、直説法、仮定法がなければ生じないのです。分ける理由は、日本語にすると時制が異なってしまうからです。※ 英語の「if文」が日本語の「もし文」と同じになってしまう詳細は「仮定法のユウレイ2」に解説しました。
ん?
いや、まてよ!
「ちょ、まてよ!」
英語は、時間で分けているのでなく、話者に関与できるか否かでpresent form, past formと分けているんだから、そもそも、まったく矛盾なんか生じないじゃないか!!!これらは、現在形、過去形と、世界を時間で分けるから生じる矛盾なんだから!
えっ!?となると・・・・・?
こんなムチャクチャで奇々怪々な現象になるのは・・・・
直説法と仮定法を分けずに、且つ、past formを過去形に訳さなければ存在しないことになり、
言い換えると、直説法、仮定法に分け、且つ、past formを過去形にするから生じだ問題だったということになります。
もっというと、past formを日本語の過去形としなければ、時制の矛盾も生じず、直説法、仮定法を分ける必要は無いから、そもそも、この問題は生まれない。と言うことになってしまうのです。
これが仮定法の問題の正体なのではないでしょうか?
実現不可性を仮定法の本質としたから、こんな多種多様な無茶苦茶な事になるのです。
例えると、バットで球を打つ事が本質なのに、バットを振った結果を本質としている。だから、こんな事になってしまうのです。ヒットもあれば、ホームランもある、はたまた空振りだってあるでしょう。球を打つ結果が多種多様に成るのは当然なのです。この、バットを振る事をif文と言い、右打ち左打ちの違いを直説法、仮定法と言うけれども、ボールを打つ本質は変わらない。結果が本質ではないのです。(それどころか「仮定法のユウレイ5」ではif節の実現可能性を問うのは無意味と証明します)
それではなぜ、結果を本質としてしまったのか?
それは日本語英語がpast formを過去形とし、時間絶対軸にしてしまったから、「時制」の矛盾が生じ、その辻褄を合わせる結果に他ならないのです。
逆に辿ると、こういうことです。
past formを過去形にした→時間の差で英語の世界を分けることになった→「if文」に時制の矛盾が生じた→だから、その矛盾が生じたif文を分離し分ける必要性が出てきた→そして、分けたif文を例外として過去形だけれど現在の意味とすることにした→こうやって矛盾を解消した。
ということです。
だから、if文を、直説法と仮定法に分けなければならなくなったのであり、その結果、文法的『分類』だった「仮定法」を、文法的『機能』にすることになり、実現不可性が仮定法の本質になってしまった。
ということです。※past form(過去形の原語)を「話者に関係がない、関与できない世界」とすると、上記プロセスはその先に進みません。
そうです、これが
『仮定法の真の姿』
なのです。
実際に確認してみて下さい。
if条件節は、過去形であり過去完了です。帰結節は、助動詞過去文であり助動詞過去+have p.pです。どこにも仮定法はありません。仮定法とされてきた、これらの構成要素は、それぞれ、過去形と完了形の意味です。帰結節も助動詞過去と助動詞過去+have p.pの意味です。仮定法というモノは、そもそも、存在していません。そうなのです。仮定法は日本語英語が創り出したユウレイだったのです。
日本語の言葉としての「過去」、「現在」の概念と、日本語英語の「過去形」、「現在形」がつくりあげた時制構造概念が強すぎるので、『present, past formの違いは時間じゃない』とすることは、すんなり受け入れできませんが、そうしないと仮定法や完了形等の各種矛盾の解消にならないし、根本的にネイティブの年少者が自由に使いこなせる(誰もが使える)理由にならないと思うのですが如何でしょうか。
※ 古・中英語英語で動詞変化として独立して存在していた仮定法が、現代英語で時制のズレとして吸収、消失してしまった。だから過去形が多義的になったのですが、日本語英語はそれを無視し、時間のみ意味する「過去形」としてしまった。だからこそ、その無視した仮定法で、もっとも、その弊害が噴出し、最も難しく成るのです。
※※ ifには言葉の二重基準がある!事を記事にしたり、仮定法の困難さを「仮定法のユウレイ1」で解説しましたが、↑以上のように考えると、ifの二重基準は、実は日本語から見ても存在せず、意味のズレはなく同じになります。
それではなぜ、実際に日本語から見て、二重基準が存在するのか?これは一体どういったことなのか?
それは、日本語から見ても存在しなかったのに、日本語英語の世界から見ると二重基準が存在してしまうと言う、まったくの一人芝居だったと言う事だったのです。
「日本人が最も混乱するifのダブルスタンダード」は、実は、日本語英語が仕掛けた、二重のねじれたワナだったからなのです。ホントひどい。ひどすぎる。
※ 完了形については「貞子と完了形」と「完了形の用法という幻影」に記しました。
・・・・・・たぶん、いや、間違いなく、ネイティブは、「仮定法」と言う言葉を、日本人ほど知ってはいないでしょう。
ひょっとしたら、世界中で「仮定法」と言う言葉を、最も知っているのは、日本人だけかもしれませんね。
そうだとしたら、ほんと目も当てられない。
だって、勝手に問題作り上げて、勝手に独り悩み転げてるんだから。
そうではなくて、私が勘違いして転がっているのならいいのですが・・・。
次回、「仮定法のユウレイ5」で、past formは「過去形」とせず、直説法、仮定法は無かったこととして、全てタイプのif文を解説していきたいと思います。
おそらく、矛盾なく無理なく説明でき、if文は、if表現の結果、その結果が、条件から実現可能から空想までになる事になるかと思います。
ほんとうに、仮定法は消失してしまって、ユウレイだったという事になるでしょう。
ここまで読んでくれてありがとう。
お疲れ様でした。
あなたに幸あれ!!